福田の雑記帖

www.mfukuda.com 徒然日記の抜粋です。

私の深意は「無関心」、「面倒くさがり」なのだ

2009年03月27日 08時24分45秒 | コラム、エッセイ
 小説「草枕」は1906年に漱石自身が「美を生命とする俳句的小説」と称したように、豊かなロマンチシズムを漂わせた初期の名作である。私は途中までしか読んでないが、出だしの「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ」は特に有名で私は好きである。語呂も良いが、人間通しの付き合いの難しさを端的に表している。彼は程々に周囲の意見を受け入れ、ほどほどに対処していくのが無難なパランス感覚なのだ、と言いたいのだろう。

 一方、「水は方円の器に随う」という言葉もある。これも私が好きな言葉の一つである。水の如くどんな器にも合わせられ、あまりで目立とうとしない生き方に、何か安らぎと、日本的な風情を感じ取る。周りに合わせるだけでは自分の存在感すらなくしてしまうが、どんなに周りに合わせても水の価値が下がることはない。むしろ、高まって行く。

 私は立場上、自ら備える性格や心情とは異なる生き方をしなければならない。常識的、良識的であることが求められている、と思っている。だから、毎日が演技であり、これが多大なストレスのものとなっている。忘年会等では余興を頼まれることもあるが、「毎日が演技で、そのうちの一部は余興でもある。だからもう出し物はありません」と答える事にしている。

 一方では自己主張が強過ぎると周囲との軋轢、摩擦が多くなり、自らがストレスを負う事は確かである。
 私はかなり自己主張が強い、煩わしい人間の一人と思われているフシがある。自分の言動を顧みれば、そう言われても仕方がないが、実は自分としては全然そう思っていない。あえて言えば、「無関心」、「面倒くさがり」が深意であり、それを自覚しているがために意識的に逆な言動をしているのだ、と思っている。

 いろいろな会合の際に意見を述べることはある。求められもしないのに出しゃばることもある。しかし、それに固執しないし、主張し続けることはまず無い。「私はこう思う」、と表現すれば私にとっては一件落着であって、大部分は後はどうなろうと関心外事項となる。

 ただ、立場上自分の好みだけでやっていけないところ、発言にはそれなりの責任を伴うから、しゃべりっぱなしに出来ないこともある。その常識的なところも備わっていることが私の更なる悩みとストレス源になっている。

 こんな取り留めもない事を、肩をいからさず、徒然と、とろとろと綴りたい朝もある。

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