福田の雑記帖

www.mfukuda.com 徒然日記の抜粋です。

「うま年」は何で「午年」なのか:わが家の「馬」の思い出

2014年01月09日 17時38分13秒 | コラム、エッセイ
 久々の午年である。うま年なのになんで午年と表記するのだろうか?

 中国の殷の時代、12年でもとに戻る木星の位置を記すために空を12に分けた。それが十二支で、「子」、「丑」、「寅」、・・・と続く。これに大衆のために人間生活と関わりの深い動物12種を当てはめた、と言う事らしい。だから、干支としては由来に則って「午年」を用いるのだ、との事である。

 私はいま迄あまり干支など意識する事も無かった。昨年迄毎年年賀状をしたためていたからその年の干支は意識していたはずだし、「うま年」も5回ほどは経験している訳だが、たんと記憶に残っていない。今年は改めて「午年」、「うま年」か・・と思っている。

 私が幼少のときわが家ではずっと馬を飼っていた。昭和20年代の事である。当時、馬は農家にとっては重要な労働力であってたいていの農家には飼われていた。わが家は祖父が医師で開業していて、往診用に飼っていた。だから農耕馬よりは一回り小振りで「道産子」と言われていた。別棟の馬屋に飼われており、馬屋の前の広場は私の遊び場の一つでもあった。
(往診に出かける祖父。おとなしい馬だった)

 馬は目がやさしい。性格は温和でとても人懐っこかった。わが家の馬は私の友達でもあった。いま考えてみると「人馬一体」、「ウマが合う」などの言葉がある様に馬とは気持ちが通じあえる様な気がした。だから、好きだった。朝夕の飼葉を与えるときは手伝ったし、時には祖父が鞍に乗せて馬を引いてくれた。馬の背で経験する高い視野の世界は、暖かく、適宜動くから、屋根に登ったのとは全く別の世界に感じられた。

 慣れた馬は怖くはないが、馬の後ろには決して近づいてはならない、としつこく教わった。馬の視野は350度もあり、真後ろ以外は見えるらしい。だから、逆に馬の後ろはとても危ない。馬も警戒心が強く、馬に蹴られて怪我を負い、リヤカーに乗せられて運ばれてきた患者を数人見た事がある。

 積雪期には馬にはまたがらず、近所の方が馬を引き、祖父は馬橇に乗って往診した。私も時には付いていった。馬橇には風雪をしのぐ程度の簡素な幌が付き、足を温めるために火鉢も付いいたが随分寒かった事だけ覚えている。

 私が小学校に上がる前にわが家の馬は余所に売られていった。時代の流れだろう、往診はオート三輪の荷台に変わった。
 私はいまでもあの「やさしい目」を忘れていない。
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