こういうコラムを読んだ。
「知っている」が学ぶ心を妨げる/村山 昇
http://blog.livedoor.jp/matuba96/archives/51886077.html
・・・・駄文ですね。
ごく大雑把に内容を書くと「新しい知識・情報を求めるのではなく、今持っている知識・情報を醸成・深化させろ!!」といったところです。
確かに自分の知識・・・というか考えを醸成させるのは大切なことでしょう。
でも、その醸成をどうやるのかが問題なのです。
内省し、自分を見つめ直せば答えが出る・・・わけがない。
問題がない以上、答えもないのです。
答えを出しようがないじゃないか・・・・。
問題がない問題というのも確かに存在しますけれど、それは思考実験の類でしかなく、それ自体に意味がないのです。
しかもこのコラムの何より気に食わない点は、前半であれほど知識が邪魔になると言っておきながら、後半に、
>人生とはよくできているもので、知識情報狩りに忙しい人も、ハウツー情報狩りに忙しい人も、いつかのタイミングで古典的な言葉に目を向けるときが必ず来ます。誰しも、悩みや惑い、苦しみに陥るときがあるからです。人は何か深みに落ちたときに、断片の知識や要領のいい即効ワザだけでは自分を立て直せないと自覚します。そんなとき、自分に力を与えてくれるのが古典的な言葉です。その言葉を身で読んで、強い観念に変えて、その人は苦境から脱しようとします。
と書いてることです。
だったら、今は知識狩りやハウツー情報狩りをさせればいいじゃないか?
困難にあって、知識や情報を深化させることができるのなら、それまで待てばいいのです。
正直、この人のセミナーを聴きに行きたいとは思えませんね。
赤熊は知るというのは興味だと思います。
知らない・・・ということは、興味も関心も好奇心さえ最初からないのです。
存在さえ知らないものを知ろうとさえ思えないわけです。
特に赤熊は知識や情報は、全ての発想の元になるものだと思ってます。
例えば、木を切るために石斧を作ろうと考えたとき、作るには適当な大きさの石と木と紐が必要だろう。
それらさえあればできる。
でも木を切るのならば、石を使わず鉄でもいいわけです。
そうやって組み替えていくことが深化なのだと思います。
でも、そもそも斧というものが解らなければ斧を作れないのです。
いえ、天才的閃きで作れるかも知れませんが、誰もが斧というものを知っているのですからその天才的閃きは無駄なのものにしかならないですね。
ただただ興味・感心・好奇心のままに、新しい知識を類型分類していければ、それだけで意味があると思います。
それらの知識や情報をどのように料理するのかはその人の才覚次第でしょう。
そんなことを気にしていてもしょうがないと思うし、不確定なことを考えるだけ無駄だと思います。
「知っている」が学ぶ心を妨げる/村山 昇
http://blog.livedoor.jp/matuba96/archives/51886077.html
・・・・駄文ですね。
ごく大雑把に内容を書くと「新しい知識・情報を求めるのではなく、今持っている知識・情報を醸成・深化させろ!!」といったところです。
確かに自分の知識・・・というか考えを醸成させるのは大切なことでしょう。
でも、その醸成をどうやるのかが問題なのです。
内省し、自分を見つめ直せば答えが出る・・・わけがない。
問題がない以上、答えもないのです。
答えを出しようがないじゃないか・・・・。
問題がない問題というのも確かに存在しますけれど、それは思考実験の類でしかなく、それ自体に意味がないのです。
しかもこのコラムの何より気に食わない点は、前半であれほど知識が邪魔になると言っておきながら、後半に、
>人生とはよくできているもので、知識情報狩りに忙しい人も、ハウツー情報狩りに忙しい人も、いつかのタイミングで古典的な言葉に目を向けるときが必ず来ます。誰しも、悩みや惑い、苦しみに陥るときがあるからです。人は何か深みに落ちたときに、断片の知識や要領のいい即効ワザだけでは自分を立て直せないと自覚します。そんなとき、自分に力を与えてくれるのが古典的な言葉です。その言葉を身で読んで、強い観念に変えて、その人は苦境から脱しようとします。
と書いてることです。
だったら、今は知識狩りやハウツー情報狩りをさせればいいじゃないか?
困難にあって、知識や情報を深化させることができるのなら、それまで待てばいいのです。
正直、この人のセミナーを聴きに行きたいとは思えませんね。
赤熊は知るというのは興味だと思います。
知らない・・・ということは、興味も関心も好奇心さえ最初からないのです。
存在さえ知らないものを知ろうとさえ思えないわけです。
特に赤熊は知識や情報は、全ての発想の元になるものだと思ってます。
例えば、木を切るために石斧を作ろうと考えたとき、作るには適当な大きさの石と木と紐が必要だろう。
それらさえあればできる。
でも木を切るのならば、石を使わず鉄でもいいわけです。
そうやって組み替えていくことが深化なのだと思います。
でも、そもそも斧というものが解らなければ斧を作れないのです。
いえ、天才的閃きで作れるかも知れませんが、誰もが斧というものを知っているのですからその天才的閃きは無駄なのものにしかならないですね。
ただただ興味・感心・好奇心のままに、新しい知識を類型分類していければ、それだけで意味があると思います。
それらの知識や情報をどのように料理するのかはその人の才覚次第でしょう。
そんなことを気にしていてもしょうがないと思うし、不確定なことを考えるだけ無駄だと思います。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます