マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

2014年10月17日 | 聖書


「 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。」

「 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。 」                                         

                                              ヨハネの福音書 1章 10節

「 自然の光、また創造と節理の御業は、神の善性と知恵と能力 ( ちから ) とを、人間が言い訳できないほどによくあらわしている 」

                                                           ウェストミンスター信条より

神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認

められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。 というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝も

せず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。 彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者と

なり、 不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました

                                              ローマ人への手紙 1章 20~23節より

すべてのものが神にあるならば、神はいったいどこにおられる。しかし、この問いに対して何と答えるべきか、いうべき言葉を誰も知り

ません。この世に神のおられないような場所ははたしてあるでしょうか。確かに神は、私たちの五感に触れない方です。しかし、もし私

たちが神の実体についてよく理解しょうとするなら、神はどこにでもおられること、神の実存が一定の場所に限定されるものでないこと

に気づかれると思います。すべてのものは、えも言われぬ不思議な方法で、神のうちにあり、神もまたすべてのもののうちに現存して

おられるのです。神は世が創られる以前におられたところに、今もおられることになるわけです。

 

 

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