平和・民主・革新の日本をめざす全国の会「全国革新懇ニュース」12・1月合併号に俳優の三國連太郎さんが登場しています。
「純粋に『生きたい』」との信念を貫き、戦地で「実弾を一発も撃たなかった」と発言。中学2年生になる孫に触れて「銃をかつぐことのない人生を送ってほしい」と語り、共感を呼んでいます。
インタビューを紹介します。
「生きて帰れ」と父
-生き方で、父親の影響などが大きかったと聞きます。
親父は曲がったことが嫌いで、非常にストレートに生きた人です。自分を大事にしているという意味ではすごく尊敬しています。
西伊豆・土肥の鉱山の労働争議のとき、官憲に追われた労働者を2人かくまったんです。そして、血みどろの人を背負って獣道を越え逃がしました。
私が軍隊に招集されたとき(1943年12月)は「万歳!万歳!」の声のなかで、「必ず生きて帰ってこい。無駄死にするな」と言いました。忘れられません。
下田の旧制豆陽中学1年生のとき、4、5年生が山に立てこもりました。教育内容に不満があったらしく、軍事教練に出なかった。説得をする先生方に生徒が薪をなげたりして抵抗していました。純粋に生きるという意味で、大きな影響を受けました。
弾は撃たなかった
-中国で終戦まで、各地を転々とされました。
静岡の34連隊に配属され、中国に送られました。そのあと部隊はガダルカナルと中国に分かれたのです。ガダルカナルに行った人には(そのご)会ったことがありません。ほとんど全滅したと思います。
ぼくは、純粋に「生きたい」という考え方で、危険なことには参加しなかった。「突撃!」といえば遅れて突撃し、実弾を一発も撃たなかった。
弾を一発も撃たないということは、弾を捨てなければいけない。捨てて帰ってきて、「よく撃った」ということで(上官から)殴られずに済んだ。だから人を殺めたことがない。人を殺すのが怖かったんですね。
足が震えた広島の街
ー終戦後半年以上抑留され、引きあげる途中、広島に寄らられたそうですね。
中国の漢口で戦争が終わったと知ったときは「生きて帰れるんだ」と思いました。明るくなりました。
無蓋貨車(屋根のない貨車)で佐世保から送られてきて、広島でぼくは飛び降りたんです。
ぼくは広島の宇品港から中国に行きました。もう一度自分のスタートラインを見たいということで。
広島の街を歩いて、足が震えました。海までまるで何もなかった。まるで展望が違うわけです。
戦争は狂気
-孫たちを同じ目にあわせたくない、憲法9条を守りたいと発言されています。
三国連太郎さんの釣りバカ日誌の鈴木建設の社長さん役をみているとこうした体験がにじみ出ているように思いました。三国連太郎さんは私の父より1歳下、1923年生まれですから、戦争を体験してきたつらい思いが伝わってきたインタビューでした。