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赤穂浪士の泉岳寺を歩くー歴史散歩の会(3)

2009-11-22 22:26:24 | Weblog
今回は第3回目、泉岳寺へ向かう赤穂浪士の歴史散歩です。
高 輪                                
桜田通りを横切って天神坂(坂の南側に菅原道真をまつる宵があったところから名付けられた)を上り、途中で左折すると港区立高松中学校の敷地があり、熊本藩主細川家54万石の中屋敷の一部で、庭園跡の門前に赤穂浪士47名の討ち入りの碑がたてられています。



細川家は足利氏の一支族で、細川勝元は1467(応仁元年)の応仁の乱に際して東軍の主将となった。応仁の乱後に衰退したが、支流の忠興が織田信長・豊臣秀吉に仕えて丹後国(京都府)宮津藩12万石の大名となります。関ケ原の戦いでは東軍(徳川方)に属し、豊前(福岡県)小倉藩35万9000石の藩主となり、忠興の子忠利は加藤氏の跡を受けて肥後熊本藩54万石の大名となります。元細川総理は末裔でしょう。



泉岳寺
桂坂に戻り、信号機のあるところを右折して小路を進むと泉岳寺の門前に出る。泉岳寺は赤穂浪士四十七士の墓のある寺と知られていますが、江戸時代には曹洞宗の大寺院でありました。1701(元禄14)年3月14自、江戸城松之廊下において勅使接待役浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)長矩が高家筆頭吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)への刃傷におよび、即日、田村右京太夫邸で切腹を命ぜられました。



浅野家の断絶に対して吉良にはお咎めがなかったことから、武家社会の喧嘩両成敗の原則に反するとして、家老大石内蔵助(おおいしくらのすけ)良雄ら47名が翌年の12月14自本所の吉良邸に討ち入って主君の遺恨をはらし、翌日泉岳寺の主君の墓に報告しています。
自首した46名は熊本藩細川家・伊予松山藩松平家・長門長府藩毛利家・三河岡崎藩水野家の4家に預けられ、1703(元禄16)年2月4自に切腹を命ぜられました。その遺骸は主君と夫人の墓に並んで葬られています。



これら赤穂浪士の墓石に刻まれた戒名には、共通して「刃」「剣」の文字が使われています。吉良邸討入り後に別行動をとった寺坂吉右衛門も後にこの地に埋葬されています。現在でも訪れる人が絶えないのは、赤穂浪士の国民的な人気の高さを示しているのではないでしょうか。