ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

奄美のエコー

2009-07-22 04:49:12 | 奄美の音楽

 ”姉妹(うなり)たちの唄が聴こえる”by 山下聖子・平山淳子・西俊子

 昨日、21日の夕方に、山の手の別荘地帯を気まぐれに車で走ってみたのだが、高みは濃密な霧に覆われていて、ちょっと驚かされたのだった。たまにすれ違う下りの車は皆、昼間と言うのに思い切りライトを燈していて、いかにも異常事態という雰囲気である。霧が出ているのは承知していたが、ここまでとは。
 別荘地帯に入り、木立の間から遥か眼下に広がる街を見下ろしてみると、そこは濃密な白い流れに覆われ、市街地と海の境も判別しがたい状態である。へえ、あの霧の底にさっきまでいたんだ、と思うと不思議な気分になってくる。この山の手ばかりではなく、我が街のすべてがいつのまにか、濃密な霧の海に飲まれていたのである。

 昨日までのカンカン照りの夏日を思えば、なにやら異様な気象の変化である。先ほどすれ違った車たちの真似をしてライトを点灯し、視界の悪さを考慮せず不意に飛び出す無謀を犯す車に注意しつつ、ゆっくり進めて行く。どのみち、この辺りをこの時刻に走る車などいもしないのではあるが。
 家に帰りつくと、居間のテレビが中国地方を襲った豪雨のニュースを流していた。その雨がそのままこちらにやって来る、という形勢でもなさそうだったが、とりあえず雨に対する心構えだけでもしておくべきかと思われた。日本中を不安定な気象が覆っているような形勢である。

 ”姉妹たちの唄が聴こえる”は、”奄美民謡大会”の第28回(平成19年)の優勝者である山下聖子のアルバムである。同じ笠利町の出身である同世代の歌い手、たとえば里アンナの華やかさや中村瑞稀の鋭さと比べると、一見地味な芸風に感ずる歌いぶりである。地味な日常生活の連なりの中からふと湧いて出たような当たり前さをまず、感じとってしまう。
 が、聴き進むにつれ山下聖子の、スッと背筋を伸ばして端正な文字を一つ一つ書き付けて行くような、奥ゆかしげな唄の表情の、その裏に秘めた強靭なバネと、地を這うようなビート感覚にだんだん気が付きはじめ、そうなるともう一度CDを頭から聴き直さずにはいられなくなってくるのだった。

 海に生きる奄美の上代の民は、姉妹(ウナリ)信仰なるものを持っていたそうな。板子一枚下は地獄の海の生活の中で、姉妹神の霊験により命を救われた、などという。
 アルバム製作者の弁として、ここでその姉妹神との関わりも語りつつ、このアルバムでは合唱としての奄美島唄に焦点を当ててみようとした、と語られているのを読んだ事がある。つまりそいつが”姉妹たちの唄”というわけだ。
 その割には、いつもの掛け合いと違う、女性歌手たちが声を合わせてメロディを歌って行くという形が、このアルバムでは8曲目の”とらさん長峰節”でしか聴けないのが物足りない、というか残念だ。確かに女性コーラスによる奄美島唄は珍しく、新鮮な響きがして好もしく感じられるので、ここはもっともっと聴いてみたかった。次の機会には全曲コーラスもので、どうか頼みます、関係者諸氏よ。

 さて明けて22日、国内で46年ぶりとなるとて話題となっている皆既日食が起こるまで、もう何時間もない。日本国内ではもっとも長時間日食が観測できるとかで、奄美の島々に突然にスポットが当たり、こいつも意外な展開となった。天候がどうももう一つでじれったいが、ここは奄美のためにもきれいに天体ショーが観測できる事を祈る。

 もっとも、その一方で中国地方では大雨による被害が出ているなどと知らされると、大自然の荒ぶる神が「吹けば飛ぶような人間どもの思い通りになる自然ではないぞ」と念を押しているのではないか、などと怪しむ気持ちも、まあ、ムチャクチャであり被害を受けられた方々には無神経な表現で大変申し訳ないが、起こって来たりもするのである。
 なにしろ神秘のエコーを秘めた地、奄美が絡んでいるのだから、当方の性格からして、さまざまな想像が浮んでしまうのも仕方がないのだ、お許し願いたい。