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文政11年2月中旬・色川三中「家事志」

2023年02月20日 | 色川三中
文政11年2月中旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第二巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。

文政11年2月11日(1828年)
親戚(叔父の利兵衛殿のおい)が柴崎村から土浦に来た。家に泊まり。
#色川三中 #家事志
(コメント)
親戚が柴崎村から土浦に来ました。柴崎村は現在の茨城県稲敷市柴崎。土浦までは約25 kmです。歩けば半日かかります。事前に手紙で知らせてきたのか、事前の連絡なく来たのか、この点は書いてありませんが、今と違って事前の連絡手段は手紙しかなく、手紙を送るには飛脚か知り合いに頼むしかないので、どうやって連絡をつけていたのか興味深いところです。

柴崎 to 土浦城 大手門跡

柴崎 to 土浦城 大手門跡



文政11年2月12日(1828年)
(編集より)色川三中先生、本日は休筆です。
#色川三中 #家事志

文政11年2月13日(1828年)
一昨日から泊まっていた親戚(叔父の利兵衛のおい)は、本日柴崎村(稲敷市)に帰って行った。
#色川三中 #家事志
(コメント)
柴崎村から訪ねてきた利兵衛殿(叔父)のおいは、三中の家に2泊して、地元に戻っていきました。家に人を泊めることが普通に行われていた時代です。



文政11年2月14日(1828年)
日向亮元の母親が昨夕亡くなった。日向亮元も江戸から戻ってきた。本日葬礼。金一朱、米三升、手伝いを一人遣わした。
#色川三中 #家事志
(コメント)
2月10日に、日向亮元の母親が危篤になりましたが、13日にお亡くなりに。日向亮元は医師で、一人前の医師になるように支援していたそうです。江戸から急を聞いて駆けつけていますが、親の死を看取ることができたのでしょうか。

文政11年2月15日(1828年)
勅使河原様のご息女が昨日死去。叔父の利兵衛殿を遣わした。本日葬儀。手伝いを一人遣わした。高恩ある人なので、以後も付き合いを欠かさずに行うべきである。
#色川三中 #家事志
(コメント)
昨日に引き続き訃報。勅使河原様にはだいぶお世話になったようで、昨日、本日と続けて手伝いを出しています。葬儀に人を遣わすというのは、付合いとして大事だったようで、三中はマメにその点を書き記しています。

文政11年2月16日(1828年)
伊勢屋からの依頼で、(伊勢屋の)新宅に行き交渉を行う。交渉はうまくいった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中が自分の揉め事を他人に交渉してもらっている記事は多いのですが、これは三中が他人の揉め事の交渉を行った記事。この時代は揉め事はお互い様という感覚だったのでしょうか。それとも報酬も支払われたので家業の助けになったのでしょうか。

文政11年2月17日(1828年)
朝から交渉事で深谷村(かすみがうら市)に行く。知り合いの清水氏に会い、菓子百文を渡す。清水氏の孫(女子)は今年六歳になるというが、初めて清水氏に会ったときはまだ生まれていなかったはずだ。この子の母親はそのときにはいたが、今は亡くなってしまったという。光陰矢の如しである。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中はまだ数えで27歳ですが、物思いにとらわれるような記事が時々あります。以前生まれていなかった女の子が生まれており、その子の母親は亡くなってもういない。何とも切なく、無常を感じざるを得ません。
 深谷村は現在の茨城県かすみがうら市深谷。土浦までは約10 kmです。深谷村の清水家は、三中の曽祖父の実家。曽祖父は清水家から色川家に養子に来ています。

土浦城 大手門跡 to 深谷

土浦城 大手門跡 to 深谷




文政11年2月18日(1828年)
#色川三中 #家事志
(編集より)本日から24日まで三中先生、ご休筆です。三中先生にしてはこれほど長い期間休筆されるのは珍しく、後に次のようにコメントされています。
「仕事は繁盛しており、雑用も忙しい。持病も再発してしまって、これらすべてを日記に書き記すことなどできない。漢方薬(麻黄湯)を自己流で処方して服用して、調子は良くなった。」

文政11年2月19日(1828年)
(編集より)色川三中先生、本日ご休筆のため、2月17日の日記(深谷村の清水家を訪れたときのこと)の補遺をご紹介します。
#色川三中 #家事志
「知り合いの清水氏の近くの小家がある。聞けば、去年そこの婿殿が出奔してしまい、分散を行ったという。今はひどく荒れてしまっていて目も当てられない。」
(コメント)
ふと目に入った家がとても荒れていて目も当てられない状態。聞けば、婿殿は出奔して分散(破産の一種)したといいます。これもまた無常。現代と同じ格差社会。三中は事業を成功させていくのですが、このように夢破れて去って行く者も多かったのでした。

文政11年2月20日(1828年)
#色川三中 #家事志
(編集より)色川三中先生、本日ご休筆のため、この時代の手配書(御触書)をご紹介します。

(御触書)
一 要助の人相書。同人は、本年(文政10年)10月1日暁に、下総国葛飾郡古河石町の富之助を殺害し、同人の妻やすにけがを負わせて逃走。同人は被害者富之助の従業員である。
 一 年齢は21歳くらい
 一 中丈中肉、面体は丸く、色は白い
 一 眼は細い
 一 眉毛は濃い
 一 髪・月代とも濃く、髪は厚い方である
 一 身常体
 一 歯並びは揃っており、話し方は静かである
 一 逃走したときの衣類。木綿の茶の縦縞の袷。木綿の紺の縦縞の単物を着ており、木綿の紺の縦縞三尺帯を締めている。
(以下略)
全文は別記事をご覧ください。

江戸時代の殺人事件の御触書 - 法律事務所南斗のブログ

〈はじめに〉土浦に住んでいた薬種商色川三中は、日記「家事志」で、様々なことを書いています。ここでは御触書を紹介します。御触書自体は文政11年1月4日付で日記に書き写...

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