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嘉永6年2月上旬・大原幽学刑事裁判

2023年02月13日 | 大原幽学の刑事裁判
嘉永6年2月上旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳。

嘉永6年2月1日(朔)(1853年)
#五郎兵衛の日記
元俊医師とともに公事宿の山形屋に行き、宿替えを要望。
山形屋「藩のお方が御承知にならないと…。私どもには何とも申し上げようがありません」
もっともな話しなので、領主の淀藩の上屋敷(小川町)に行った。足立鏡蔵様とお話しし、ご承知くださったので、山形屋に宿替え。下代に着届を作成してもらい、提出。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛らは当初蓮屋という公事宿に泊まっていたのですが、山形屋に宿替えを要望。宿替えは領主の同意が必要なため、淀藩上屋敷まで行って、宿替えを承知してもらいました。山形屋は馬喰町にある公事宿です。

嘉永6年2月2日(1853年)
#五郎兵衛の日記
元俊医師と共に、湊川の借家へ行く。源兵衛殿に髪を結ってもらった。荒海村の平右衛門が来たので、午後2時ころに丁子屋に多葉粉(タバコ)を一緒に買いに行った。夕方には山形屋に戻る。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
先月までは打合せは、大原幽学の宿泊先の邑楽屋で行われていましたが、打合せがしやすいように湊川の借家を借り、ここが打合せの拠点となっています。奉行所から呼び出しがあるまでは、ひたすら待機。髪を結ったり、多葉粉(タバコ)を買いに行ったりと江戸での生活を楽しむ余裕が出てきました。

嘉永6年2月3日(1853年)
#五郎兵衛の日記
元俊医師と共に日本橋の文魁堂に、硯、墨、筆などを買いに行く。昼食後、湊川の借家へ。大先生(大原幽学)は書き物。高松様もおいでになられて種々相談。
夕方風呂に入って、夕暮に湊川をでる。途中、籾蔵裏の鍛冶屋で火箸を、あたらし橋の丁子屋で多葉粉(タバコ)を買う。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
奉行所から呼出しがあるまで待機しなければなりません。呼出しはいつあるか分からず、長期戦を覚悟しなければなりません。その為の買い物でしょう。硯、墨、筆、火箸を購入しています。「多葉粉」はタバコです。

嘉永6年2月4日(1853年)
#五郎兵衛の日記
本所の森下町で書物箱(中古)を二つ買う。宿に戻って中食を食べた後、湊川の借家へ。大先生(大原幽学)は書き物をされており、高松様や力蔵様もおられた。
諸徳寺村(現旭市)の善兵衛殿と宿への帰り道をご一緒した。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
本所の森下町は、現在の東京都江東区森下。深川神明宮の門前町として栄えたところです。現在の馬喰町駅から森下駅までは2㎞弱であり、中古の物を安く売っているところとして有名だったのかもしれません。

馬喰町 to 深川神明宮

馬喰町 to 深川神明宮



嘉永6年2月5日(1853年)
#五郎兵衛の日記
大雨で終日宿。書物を書き写す等して時間を過ごす。浜町の桝屋に手紙を持っていった。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
いつも大原幽学のいる湊川の借家に行き、打合せ等をしていますが、今日は大雨のため外出できず。長い裁判の間にはこんなこともあります。

嘉永6年2月6日(1853年)
#五郎兵衛の日記
湊川の借家で昼食。夕方に元俊医師、平右衛門殿(荒海村)と共に山形屋に帰る。
晩になって、龍ヶ崎から二名の者が山形屋に来た。大風で誠に騒々しい、火事も三か所から出ており、夜眠ることもできない。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
昨日は大雨で宿に籠もらざるをえませんでしたが、今日は無事に外出でき、湊川の借家で昼食。しかし、特にやることもないようで七ツ時ころ(午後4時)には宿に戻っています。晩になって大風。火事がでて騒々しい夜となってしまいました。

嘉永6年2月7日(1853年)
#五郎兵衛の日記
本日も大風。外にでることもできず、終日宿にいて、写し物をする。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
昨晩に引き続き大風、春のあらし。今日は大人しく、宿に籠もっています。「写し物」とは、貸本屋で本を借りて、本の写しを作成すること。高橋敏『江戸の訴訟』(岩波文庫)でも貸本を書き写すエピソードが紹介されています(同書69頁)。

嘉永6年2月8日(1853年)
#五郎兵衛の日記
湊川の借家へ。荒海村の平右衛門が入門希望者(四ツ谷村の平蔵)を連れてきた。大先生(大原幽学)に初めてお目通り。が、平蔵が余りにもやる気がない。本来なら誓約書(神文)を書くのだが、弟子の我々に平蔵とよく話すようにとの大先生のご指示。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
大原幽学に弟子入りしたいという者(平蔵)が湊川の借家にやってきました。しかし、やる気がなく、どうもシャキッとしない様子。弟子入りの誓約書は、五郎兵衛らとよく相談してから提出するようにといわれてしまっています。

嘉永6年2月9日(1853年)
#五郎兵衛の日記
昨日の入門希望者の平蔵の態度が悪かったので、朝飯後からそのことで話し合い(昼食抜き)。平蔵もようやく理解してくれたので、一緒に湊川の借家に行き、大先生(大原幽学)と会う。夕方にようやく茶漬けにありつく。湊川で夕飯まで済ませてから、夜四ツ時(午後10時)に山形屋に戻った。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
今日は入門者平蔵のお世話。入門の動機が今ひとつだったのか、五郎兵衛らがカウンセリングをして、ようやく入門の決意が固まったようです。昼食抜きで入門者の世話をし、夕方にようやく茶漬けにあずかれました。

嘉永6年2月10日(1853年)
#五郎兵衛の日記
宿(山形屋)で平蔵に誓約書(神文)の書き方を教える。昼食は五色という店でとる。日暮れになって村の付添人(差添え)の交替要因が来た。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
今日も入門者平蔵のお世話。本日は誓約書(神文)の書き方を教えています。江戸時代の裁判は裁判の当事者だけではなく、村から付添人(差添え)を出さなければなりませんでした。差添人は江戸にいる限り村での仕事ができませんから、今回の記事のように時々は交替していたようです。


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