茂原市の本納というところに、荻生徂徠勉学の地があります。荻生徂徠の父が江戸を追われていた時期があり、その間一家は徂徠の母方の実家のある茂原市本納に移り住んでいたのです。つまりは、勝ち組からは転落してしまった。そんな時期が荻生徂徠の茂原時代でした。
荻生徂徠は、将軍徳川吉宗の諮問に応えて政治論を著してしますが(「政談」)、その中で茂原にいたときのことを書いています。
「私が17,8歳のころ、上総の国に住んでいて聞いた話がある。加賀の国にはが一人もいない、もしがでると、小屋を建てて、その中にいれておき、草履を作らせたり、縄をなわせたり、さまざまの仕事をさせて、藩主の方からこれを養うかかりの役人をつけておき、その縄や草履などを売らせて、やがて元のように店を持つことができるようにしてやるのである、と加賀国から逃亡してきて、上総に居住している者が語るのを聞いて、これこそまことの仁政であると思ったことであった。」
この加賀の貧困対策というのはなかなか興味深い。小屋を建てて住むところを確保させる。これは今でいえば、ホームレス対策の無料低額宿泊所にあたるでしょうか。
それから、草履をつくったり、縄をなわせたりという仕事を与える。雇用対策ですね。
さらに、役人がその人のためについて、縄や草履を売らせて、もとの状態になるように復帰を援助する。かなりの手厚さです。
荻生徂徠が「これこそまことの仁政」と感嘆の声をあげるのももっともで、現代でもここまでの手厚い支援はありません。
徂徠はこの話を加賀からの逃亡者から茂原にいたときに聞いたとしています。特に仔細もなく江戸在住であったならば、逃亡者からの話を徂徠が聞くことはなかったでしょう。
加賀の国からの逃亡者との交流は、徂徠の心の中に強烈な印象を残し、後年の将軍への建白に繋がったのでした。