文政10年10月中旬色川三中「家事志」
土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第二巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。
文政10年10月11日(1827年)雨終日降る
人相書き
孫七(24歳)<人相の記載あるも略>
10月3日昼四つ頃、古河・中田両宿の間で金と荷物を盗み取った。見つけ次第取り逃がさぬよう手当の上、拙者の廻村先である野州佐野宿まで知らされたい。
10月6日 垣内與四郎
#色川三中 #家事志
(コメント)
本日の日記は人相書の写し。日記には人相書きをそのまま写していますが、長いので要約しました。古河宿、中田宿はいずれも現在の茨城県古河市で奥州街道の宿。土浦に人相書を回すとは広域の回覧です。人相書の作成者垣内與四郎は廻村しているので、関東取締出役でしょうか。
文政10年10月12日(1827年)甲申 晴
・朝、吉兵衛の親が来て、本人を探し当てたとのこと。話し合いのかたが付くまで、代わりの者を遣わすようにと伝えた。
・この間、諸事心得難き事多く、利兵衛(叔父)を府中(現・石岡市)の占いに行かせた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
店の従業員吉兵衛は10月3日に日帰り出張に行ったままバックレて店にも顔を出さなくなっています。三中は、親にもその旨連絡しましたが、吉兵衛の行方はわからないままでした(10月9日条)。本日ようやく見つかったとの連絡。三中は最近トラブル続きのため、占ってもらおうと叔父さんを出張させています。
文政10年10月13日(1827年)晴
昨夜、府中(現・石岡市)で利兵衛殿(叔父)に占いにしてもらった。本日利兵衛殿が帰宅したのでその結果を聞いたが、神変奇異、言うべからずとのことであるので、日記には書かない。
#色川三中 #家事志
(コメント)
昨日、府中(現・石岡市)に占いに行った叔父が本日帰ってきました。占いの結果は言ってはならないとのことで、その内容は書いてありません。そうであれば、日記に何も書かなければ良いとも思うのですが、書くことができるところまでは書いて置きたいというのが、三中の性格なのでしょう。
文政10年10月14日(1827年)
店の従業員浅吉の科。7月14日400文のこと、9月中500文銭不足、翌夜また200文、その翌夜また200文のこと。10月10日夜、金1朱不足のこと、同12日利兵衛殿、府中へ参り占った始末のこと。
#色川三中 #家事志
(コメント)
従業員浅吉の不祥事についてはこれまで日記に書かれていなかったのですが、もう我慢ならんと言わんばかりに書き連ねています。浅吉は横領を疑われているようです。12日に利兵衛(叔父)を府中(現・石岡市)の占いに行かせたのは、吉兵衛のみならず浅吉のことも気になっていたからですね。
文政10年10月15日(1827年)
夜、吉兵衛の親が来た。はかり、風呂敷、弁当並びに弁当風呂敷、合羽の5点を返却してもらった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
店の従業員の吉兵衛問題の続報。店が貸与していた風呂敷等を返却してもらいました。吉兵衛本人ではなく、親だけが三中のもとに来ています。江戸の昔でも子どもの後始末を親がするということはあったようです。
文政10年10月16日(1827年)晴
間原主人と債権者宅へ。先年借り入れをし、元金を返すことができておらず、ご迷惑をおかけしている。当方の事情を説明したら、この債権者は、茶を煎じ、菓子まで出して、「わかりました。いずれまた相談いたしましょう。」と言ってくれた。その後よもやまの話しをし、五つ(午後8時)過ぎに自宅に戻った。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中の債権者との交渉の記事。事情を説明したら、物わかりよく応じてくれました。お茶やお菓子まで出してくれて雑談に興じました。このような債権者ばかりだと良いのですが。
文政10年10月17日(1827年)晴
七つ(午後4時)過ぎに、小見川からの船便で与市からの書状が届いた。9月5日に当地をでるべきところ、老母が死去し、出立を延期せざるを得ないとのこと。是悲もないことだ。
#色川三中 #家事志
(コメント)
与市は三中の元従業員ですが、家の事情で地元に戻っています。三中は何とか土浦に戻ってほしいと願っていますが、なかなかうまく行きません。与市も戻りたいものの母親が亡くなってしまったため、出立を延期せざるをえなくなってしまいました。
与市からの手紙は「小見川からの船便」で三中の元に届けられました。「小見川」は現在の千葉県香取市小見川と思われます。霞ヶ浦や利根川という水上交通のネットワークで江戸時代は結ばれていたことが分かります。
文政10年10月18日(1827年)庚寅 雨
米四(米屋四郎兵衛)との債務交渉について隣り主人が来られて話をした。
#色川三中 #家事志
(コメント)
10月16日の日記のように物わかりの良い債権者であれば良いのですが、残念ながらそのような方は少数派。米四(米屋四郎兵衛)とは、様々な人を介して交渉していますが、なかなか話しがまとまりません。
文政10年10月19日(1827年)
いせや兵衛門が出奔し、兵衛門の店は閉店となった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
出奔、閉店があったという記事。江戸時代でも、「分散」や「身代限り」という法的手段があるので、出奔しなくても法的に精算できるはずですが…。三中自身が多額の債務を抱えているので、出奔、閉店という出来事は気になるのでしょう。
「分散」は江戸時代の破産制度の一種です。「分散」のほかに「身代限り」という方法もありましたが、前者は債権者・債務者間の契約で奉行所の介入はなく、「身代限り」は奉行所が命じるもの(今でいえば裁判所による強制執行)という点が違います。
— 断感ろーれんす (@tk23956) April 14, 2022
文政10年10月20日(1827年)壬辰 晴
春から隣り主人と間原主人の両家には、あれこれと債務整理についてご苦労をおかけしており、本日八つ(午後2時)過ぎにお招きし、一席をもうけた。中惣も呼んだ。八つ過ぎに始まり、夜四つ(午後10時)時分に帰られた。店の従業員は夜になってから帰ってきて、四つ時分から食事をとった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
債務整理の労をとってもらっている友人らとの会食の記事です。自宅での会食のため、昼過ぎから夜にかけて行われています。従業員の食事はその後。