リタイア暮らしは風の吹くまま

古希を迎えて働く奥さんからリタイア。人生の新ステージで
目指すは悠々自適で遊びたくさんの極楽とんぼ的シニア暮らし

旅の空から~宮古(想像もしなかった絶景に感動)

2024年09月30日 | 日々の風の吹くまま
9月29日(日曜日)。☁🌥☁。長い航海の最後の寄港地である岩手県宮古に到着。しずしずと宮古湾を進むにつれて、船腹に何やらアニメっぽい絵が描かれた水先案内ボートが表れて、埠頭へ。歓迎の「菅窪鹿踊り」が披露される中午前8時に接岸。鹿踊りは何となく北海道のアイヌ伝統舞踊やBC州の先住民の伝統舞踊とメロディやリズムがどこか深いところでつながっているという感じがした。





今日のツアー(Miyako Geo Park)はまず魚菜市場。衣料品や日用品、花屋もあって、地元の人たちの日常生活を支えているショッピングモールのイメージで、日曜日とあってかなりの賑わい。次は「三の岩」というところで、太鼓岩、男岩、女岩の3つの奇岩がおもしろい。一番大きな太鼓岩はヘアカットに失敗してむくれているような、ちょっぴりユーモアさえ感じられる風情(想像力過多なもので・・・)。断崖の下の岩場で波が砕ける風景はアイルランドのディングル半島や北海道の能取岬で見たのをよく似ている感じ。地球はひとつだもんね。リアス海岸はフィヨルドと似ていなくもないけど、前者は河川の谷が水没してできたもので、フィヨルドは氷河が刻んだ谷が水没したもの。川と氷河のスケールの違いかな。






ツアーの最後は浄土ヶ浜。途中の田老というところで東北大震災の大津波で下半分が破壊されたホテルの前を通って、津波の激しさを実感。自身大国久代の生まれ育ちで地震には慣れているし、チリ地震津波の何波めかが釧路港の中央に怒りを下ろしていた貨物船をくるくる回すのを高台の小学校の教室から見ていた経験があるんだけど、こうして破壊力の激しさを増しかに見るとやっぱりぞっとするな。バスがつづら折りの道路を通って浄土ヶ浜の上に出たときはバスのツアー仲間が一斉に感嘆の声。いや、ギザギザの奇岩が連なっている感じで、すごい迫力。砂じゃなくて小石のビーチやその近辺にはかなり大きなカモメの大集団がいて、遊び半分なのかどうか知らないけど、ときどき観光客の頭の上すれずれに低空飛行。こんなところ初めて。いやぁ、絶景かな、絶景かな。









ツアーが終わってバスが埠頭に戻ったら、うはっ、何これ?旗がたくさん翻っていて、売店のテントがずらり延々と続き、トラック屋台も数台。船客と市民と観光客が入り混じって、ちょっとしたお祭りというところだけど、宮古市ではクルーズ船が入港するたびに「ポートフェスタ」と称して催されるイベントらしい。今日はたまたま日本のクルーズ船「にっぽん丸」も入港していて、「クルーズ船が2隻同時に寄港!」といつも以上に気合が入ったらしい。ここでワタシは目が合ってひと目惚れした焼き物のお地蔵さんをゲット。トラック屋台ではたこ焼きを買って、船室に戻ってたこ焼きとビールのランチ。午後、にっぽん丸がひと足先に出港して行って、ベランダやデッキでは鈴なりの人たちが手を振っていて、私たちも手を振ってBon Voyage!いやぁ、宮古は期待した何倍もの価値があって、釧路は別格として、今回のクルーズでは一番印象に残る寄港地になった。










旅の空から~函館(ユニークな歴史がおもしろい)

2024年09月30日 | 日々の風の吹くまま
9月28日(土曜日)。🌤☀⛅。相変わらず早起き。津軽海峡を航行中。ベランダから見えるのは下北半島かな。本州と北海道を隔てる津軽海峡は「しょっぱい川」と呼ばれていて、明治の初期に未開の蝦夷地に渡った開拓者たちにとっては「帰らざる川」でもあった。ワタシの母方の高祖父は明治3年の(淡路侍が徳島藩からの分離独立を図ったために起きた)庚午事変の翌年に北海道移住(体のいい追放刑)を命じられた淡路侍たちの船に乗って静内から北海道に入ったそうなので「しょっぱい川」を渡って来たとは言えないけど、ワタシは反主流の精神性をしっかり受け継いだ誇り高き道産子5世。津軽海峡は今でも海のハイウェイのようで、船影がたくさん。


下北半島かな





海のハイウェイ

函館入港、接岸は午前9時。いい天気で、何だか暑くなりそうな感じ。岸壁に白いテントが並び、白いテントを張った通路がターミナルまで続き、その間に煙突にJNRのロコがある古ぼけた船。かって津軽海峡を往復していた青函連絡船「摩周丸」で、今は記念館になっているらしい。思えば新婚旅行と里帰りを兼ねて札幌の実家に行くのに連絡船に乗ったことがあったな。ほぼ半世紀前の青函トンネルが開通するよりひと昔前の話で、乗ったとたんに男性客たちがビールの自販機に殺到してあっという間に売り切れたことと、デッキからイルカの群れが見えたことくらいしか覚えていないけど、あとで調べて私たちの船が実際に連絡船のターミナルだったところに接岸しているとわかって、これも何かの縁かなあと感動。乗った船の名前は憶えていないけど、もしかしたらこの摩周丸だったかもしれないしね。


青函連絡船摩周丸


今日のツアーは午前10時出発の3時間半で、まずターミナルからすぐ近くの朝市。どこを見てもイカ、イカ、イカ、カニ、カニ、カニ、そしてホタテにサンマに昆布。釧路はカニなら函館はイカ。店のおじさんの浜言葉がトーンが懐かしい。つい誘惑に負けてホタテの一夜干しを買って、次はロープウェイで函館山へ。眼下に絵葉書でお馴染みの砂時計の胴のような函館市を一望。あっ、私たちの船も見える!ギフトショップでマグネットを2個ゲット。日本の観光地ではおみやげのマグネットはまだ普及していないのか、なかなかいいのがなくて、あっても「カワイイ」丸出しのデザインで買う気になれないのが難点。




タコ坊主!

ツアーの最後は五稜郭。タワーに上って見下ろすと星の形がよくわかる。展望台には箱館戦争の顛末を模型で説明する展示があって、旧幕府軍の榎本武揚が幕政の再興を目指して樹立した「蝦夷共和国」と新政府軍の戦闘の状況がわかるようになっている。わずか5ヵ月足らずで壊滅した「蝦夷共和国」はイギリスやフランスから「事実上の政権」として認められていたんだけど、おもしろいことにウィキペディアの箱館戦争の記述にはひと言もその名前は出て来ない。もっとも榎本政権もそう名乗ったことはなくて、五稜郭に腰を据えた旧幕府軍が内輪で指導者や行政組織の長を「投票」で決めたから、函館駐在の外交団がそう呼んだというだけの話で、一般の住民は蚊帳の外だったから、「共和国」とは似て非なるもの。それでも、ほんの束の間でも北海道が「独立国」を目指したというのは近代日本史のユニークな1ページだと思う。まあ、新政府軍の攻撃を受けた大本営の五稜郭は当時まだ完成したとは言えない状態で、もしも当初の計画通りの防衛力を備えて完成していたら、「蝦夷幕府」ができていたりして、北海道の歴史は違ったものになっていたかもしれないな。


函館山から

五稜郭タワーから