あれから10年
9月11日。未来へ向かって踏み出そう。でも、あの日はこれからも私たちと共にある。
鎮魂・・・
不惑どころではない男の更年期
9月12日。月曜日。きのうは精神的にすごく疲れた。でも、やっぱりひとつの節目だったんだという気がする。今日はちょっとどよ~んとした気分で眠い。それでも正午前に起きて、先に起きていたカレシを探して裏のポーチに出たら、うわっ、風だ。それもそよ風なんてやさしいものじゃなくて、本気で吹いている。日本の「秋のイメージ」で描写するなら、一面のすすきをなぎ倒すように野原を渡って行く秋の風というところかな。(実際にすすき野原の風景を見たことはないんだけど。)季節が変わる前兆を肌で感じるような風・・・。
今日はカレシの弟ジムの67歳の誕生日なので、ハッピーバースデイのメールを飛ばした。「いくつなのか忘れちゃったって?自分がいくつなのかもう考えなくてもいいってことで、いいじゃないの。自分の年を覚えていないのは、覚えているには若すぎるってことだから」と。もう20年くらい前、ある日突然ジムは真っ赤なスポーツカーを買った。みんなが仰天しているうちに、不倫が始まって、夫婦でカウンセリングを受けてみたりしたけど結局は離婚。でも、2人はそれぞれできた新しいパートナー(とその子供の家族)/ガールフレンドもひっくるめて和気藹々の関係。まあ、離婚したおかげで「家族」の人数が増えるなんて珍しいだろうと思うけど、そこはマリルーの人徳と、未婚の母だった彼女の幼い息子を養子にしてかわいがって育て(実父がわかったときには会いに行かせ)たジムの懐の深さによるところが大きい。
そういう人が何で浮気なんかと思うけど、やっぱり「中年の危機」で血迷ったとしかいいようがないだろうな。かってはジョークのネタでしかなかった「男の更年期」が最近やっと「LOH症候群」として医学的に認知されたそうだけど、生理的な変化である更年期は「老化」を意識させられるという点で男女を問わず精神的にかなりのストレスだろうと思う。で、ずっと見ている『ストレスと身体』の講義で、サポルスキー先生が「強いストレスがかかると衝動をコントロールする脳の前頭葉の活動が低下して、見境のない行動を取るリスクが高まる」と言っていた。つまり、男が「不惑」の40歳を過ぎてから、かっとしてとんでもない事件を起こすのも、むらむらとして女子高生のスカートの中を盗撮するのも、浮気や不倫に走るのも、赤いスポーツカーを衝動買いするのも、そうでなくても社会的にストレスの多い年頃で、男としての機能が低下して、当惑した故ということなんだろうか。
この「男の更年期」、女の更年期と違って「過ぎてしまえば後は楽」というわけではないらしいのがやっかいなところ。女性の場合は閉経という通過儀礼みたいな現象が最後にあって、そこを過ぎればせいせいした気分になり、俄然更年期前よりも溌剌としてくる人も多い。(還暦を過ぎたおばちゃんたちのバイタリティはすごい・・・って、ワタシも還暦過ぎのおばちゃんなんだけど。)ここで「男、40にして困惑」と言ってしまっては身も蓋もないけど、実際に40代あたりで「ミッドライフクライシス(中年の危機)」が訪れて、理性のたがが緩んでしまうのは、男の更年期の通過儀礼がどうも最初に来るせいではないかと思う。
つまり、人生のストレスの多い時期に(あるいはそういう時期だからこそ)男のプライドが揺らぐことが起きて、それがストレスを倍増させ、20代半ばまでかかって発達して大人の男の理性を支えてくれていた前頭葉が萎縮させるために、衝動を抑えることができなくなるんだろうと思う。現に、盗撮や痴漢で捕まった男はたいていが判で押したように「ストレスがたまっていた」と言い訳している。仕事でも家庭でもストレスがいっぱいで、いつもストレスホルモンの栓が満開の状態だと、ストレスホルモンの受容体が多い脳の前頭葉でニューロンが萎縮し、層が薄くなる。そうなると、判断力と衝動を抑える力が低下して、何かのきっかけで「つい」とんでもないことをやらかす時限爆弾になる。ただし、ストレスが軽減すると、萎縮したニューロンは再生できるんだとか。でも、前頭葉の配線はストレスに遭う前とは違ったものになるらしい。
男40にして、すわ男の更年期かと「当惑」、それでは若い女性と男の春をもう一度と浮かれて「浮惑」、出会いを求めてこそこそと携帯をいじっては「疑惑」を招き、つい事件を起こしてクビにでもなれば家族にとっては「迷惑」。はて、現代人はいったいいくつになったら「不惑」の境地にたどり着けるのやら・・・。
男の(女も)器は大きさよりも中身が大事
9月13日。火曜日。午前11時30分、目覚ましで起床。あらっ、涼し~い!そういえばきのうの夜の天気予報で「夏を楽しむなら今のうちですよ」なんて言ってたなあ。だからといって、まるで「更新」ボタンをクリックするみたいに、いきなり夏から秋に切り替えるなんてのはなしにしてほしいもんだ。
朝食を済ませて、カレシを英語教室「午後の部」に送り出して、夕方が納期の仕事をやっつける。いたって機械的な企業事務の書類は慣れていることもあって楽ちんでいい。ワタシの後ろに忍び寄ってきては思考の流れをかく乱しようとするカレシもいないから、固有名詞の検索以外は辞書を引くこともなくて、すいすい。カレシが帰ってくる前に終わってしまったから、きのうの閉店間際に入ってきた大きそうな仕事の算段にかかる。文字カウントをかけて出て来た数字を原稿用紙の400字で割ったら、あちゃ、約60枚。まったくテーマが違う別の仕事とパケット交換よろしくの並行処理になりそうだなあ。なんか仕事が増えて来そうな感じがするけど、お盆と節電のシーズンが終わったせいかな。少し趣味の方に精を出そうと思っていたのに・・・。
カレシが「午後の部」から帰ってきて「夜の部」に出かけるまでの時間は3時間足らず。ひと休みしてから、夕食を食べさせて送り出すまでがけっこう忙しい。だからメニューはいつも簡単手抜き料理。手っ取り早くパスタで済ませることが多いけど、今日はマグロのグリル。ステーキに市販の餃子のたれを塗っておいて、オレンジ色のピーマンをグリルパンに載せ、付け合せのインゲンを蒸し始め、頃合を見計らってマグロを焼き、最後に白ぶどうをひと掴みさっと焼いて完了。所要時間30分足らずで、これがほんとのファストフード。
いつもながらあれがない、これがいると言って最後に「遅刻だ~」と出かけて行くカレシを送り出して、きのう目に止まった小町のトピックにじっくり目を通す。『「器の大きい男性」って?』という、いかにも小町横町らしい質問。でも、男女を問わず「器が大きい」というのはどういうことなのかを考えてみる気にさせるトピックではある。もっとも、そもそも人間の「器」について明確に定義しないままでの質問だから、当然のっごとく返って来るのは小町横町の半径から見た「器の大きさ」、つまり、トピックの主が言う「金銭的、精神的、体力的に己を切り詰めても常に女性を最優先する男性」、端的に言えば「女にとって都合のいい男」のイメージが浮かんで来る。「己を切り詰める」って、大きな器を切り詰めたら元も子もなくなりそうだけど、もしもワタシが男だったら、「やってらんねぇ~」と悲鳴を上げて逃げ出すかもしれないな。
そこで、久しぶりに広辞苑を引っ張り出して「器」を引いてみたら、「事を担当するに足る才能、器量、また、人物の大きさ」というのがあった。でも、「人物の大きさ」っていったいどうやって測るのかな。体重計とテープメジャーで事足りるなら、いわゆる肥満体の人たちはみんな「器の大きい人」ということになる。それは冗談だけど、要するに表面的には見えないかもしれない内面的なものの大小を言っているんだろうから、現実的にその表面に見えない「大きさ」をどんなものさしで測るんだろうな。まあ、「器」というからには何らかの容積単位で測るんだろうと思う。だとすれば、英語では「capacity」、あるいは「caliber」というところか。
そこでまず「capacity」を辞書で引いて、トピックで議論している「器」に相当しそうな語を見てみたら、まず「包容力、度量」、次に「適応力、耐久力」、さらに「可能性」。他に「(学問などを)学び取る力、学問的才能、知的能力、理解力」というのもある。次に「caliber」を引いてみたら、「(心の)度量、(知識の幅、知的能力などの)力量、才幹、(人物の)器量」とある。このcaliberは鉄砲の口径を表す単位でもあるところがおもしろいけど、「金銭的、精神的、体力的に己を切り詰めてでも(特に)女性を最優先」なんて犠牲的精神は微塵も感じられないし、だいたい(西洋の騎士道精神はいざ知らず)日本の武士道精神にそんな女性崇拝的な思想があったとも思えないな。つまりは、「器の大きい男性」というのは(わがままで自己中な)女性が夢に描く(ちょっと古いけど)「3高 の王子様」のことかな。中国では大都市で「公主病(お姫様病)」というのが蔓延しているそうだけど、小町横町でもバブル頭いまだ弾けやらずということなのかもしれないな。
人間は誰でもが持って生まれて来る「器」があって、人それぞれが違うように、その器の容量もみんな同じということはありえないと思う。でも、人間には「成長」の過程でその容量を大きくする機会も与えられていると思う。それが「capacity」に包含される「可能性」の意味ではないかな。まあ、人間の「器」がどっちの方向に変化しているのか知らないけど、いくらでっかい「器」を抱えて生まれて来ても、(書き込みにあったように)それをゴミで満杯にしたらたしかにどうしようもないだろうし、逆に、与えられた器が少しくらい小さめでも、きれいな宝石がいっぱい詰まっていたら、その人の心はきらきらと輝いているだろうし、温かなスープで満たされていれば、人をほのぼのと幸せな気分にさせるだろうし、滋養の高いスープだったら病める人も元気なるかもしれないな。つまり、容積の大小に関係なく、その「器」に何を入れるかによって、嫌われる人間にも、好かれる人間にもなり得ると言うことで、何を入れるかはその器の持ち主しだいだと思う。
それにしても、小町横町女性たちが定義する「器の大きい男」って、いったいどんな人だろう。たぶん、年収が1000万以上あって、女のおねだりに気前よく応じてくれて、女のどんなわがままも笑って聞いてくれて、絶対に女性を下に見ることなく、結婚したら「ボクが養ってあげるから」と専業主婦をさせてくれて、おまけに家事や育児も平等に分担してくれて、寝ても覚めても女性のためならエンヤコラ・・・いるのかなあ、そんな男?
何となく居酒屋スタイルの晩ごはん
9月14日。水曜日。正午の気温15度。このまま本気で秋に突入する気だなという感じ。朝食が終わる前にシーラとヴァルが掃除に来て、シーラが黄色いズッキーニのぶっといのを2本持って来てくれた。「留守番サービス」のお客さんが1ヵ月もハワイへ行っていて、庭で育っている野菜を放っておくのはもったいないから、どんどん食べるか友だちに分けるかしてと言いつかっているんだそうな。そんなに長く留守になるのにどっさり野菜を植えるとはのんきな人だと思うけど、丸々としたズッキーニは甘くておいしい。ごちそうさま。
きのうの夜にカレシがひょっこり「明日のメニューをリクエストしてもいい?」と聞くから、いいよと言ったら、「ワインがなくなりそうだから、酒に合う日本食を作って」と。物置のワイン棚を見たら、ケースで買った我が家の「ハウスワイン」は後1本しかない。白は他に何本かあるし、赤もあるけど、よ~し、オレゴン州産のにごり酒を開けるか。ということで、またフリーザーをごそごそ。つい先だっての日曜日にコース料理をやったばかりだから、ここはちょっと目先を変えて「イザカヤ風晩ごはん」というのはどうだろう。和風の小皿料理を出す「イザカヤ」はバンクーバーでもけっこう人気がある。イェールタウンではファッショナブルな若い人たちがしゃれたイザカヤのパティオのテーブルで「ダイギンジョー」で一杯やりながら器用に箸で「ジャパニーズタパス」をつついている風景が見られる。
日本の食卓の「晩ごはん」式に並べてみたら、汁物(北寄貝とねぎ)、煮物(ミニイカの醤油煮)、焼き物(シシャモの大根おろし添え)、蒸し物(ぼたんえびの酒柚子蒸し、しそ風味)、揚げ物(サツマイモ、エビ、しその葉のてんぷら)が揃っているから、我ながら感心。ご飯は発芽玄米。ワタシが漬物を食べないから、香の物はなし。だけど、何品も冷めないうちに一度にテーブルに並べるというのは、段取りを考えたり、調理時間のタイミングを計ったりのけっこう大変な作業で、作り始めてからテーブルに並べるまで1時間もかかってしまった。どうりで日本では共働き主婦が家事の負担で悲鳴を上げるはずだなあ。ご飯作りだけは毎日なんだもの。小皿のコース料理を作りながら食べる方がよっぽど楽ちんだというのがワタシの実感・・・。
これでフリーザーに少し空き容量ができたことだしということで、エコーのバッテリの充電がてら、夕食後にコキットラムのHマートまでひとっ走り。カレシは大好きな白キムチの一番大きな(1リットル?)の容器を見つけてご満悦。後は果物や野菜。ワタシはニラや大豆もやしや白菜を買って、長~いごぼうを買って、野菜売り場の端まで来たら、おお~っ、マツタケ。そういう季節なんだなあ、やっぱり。極上品はもちろん日本に輸出されてしまうから、地元で買えるのは日本人が買わない等級ってことかな。それでも、一番価格が一番低いパックで大きなのが3本入って46ドル(3500円くらい)。う~んと思案して、また週末が来るし、季節の短いものだしということで、(どこだったか忘れたけど)高いところから飛び降りるつもりで買ってしまった。さあて、どうするか、帰ってから考えないと・・・。
後は、キンキ丸ごと1本と刺身用の大西洋のサケ、冷凍ものではキハダマグロとビンナガ、ハマチ、たこの足、塩サンマ2本、アサリ、(何を思ったか)うなぎの蒲焼、めんたいこなど。Hマートのフリーザーには食べたことのない魚がいろいろあるし、カエルの足やスッポンのような「え~っ」というようなものもあって、見るだけでもおもしろい。スッポンは丸ごと冷凍で、甲羅から引っ込めた頭の先と手足がちょこんと見えていて、食べるのがかわいそうな気もするけど、スッポンスープはどんな味がするんだろうな。
のんびり買い物をしていたら閉店時間間際。レジでは持参の大きなトートバッグに入れてくれるように頼んだけど、にこにこしながらていねいに店の袋に入れてトートバッグに入れてくれる。アジア人は包装癖が抜けないのかな。そういえば冷凍して真空包装してある魚でもトレイに載せてラップで包んであるのが多いから、帰ってからせっせと外すのがひと仕事で、空きトレイはひと山のゴミになる。あ~あ。
今夜のランチは久しぶりにたっぷりニラを入れたチヂミと行くか・・・。
葉っぱが一枚落ちたら何の秋?
9月15日。木曜日。何となく薄暗いこともあるけど、どうもどんよりした気分。起きてみたら小雨模様。いかにも肌寒いという感じがする。ちゃんと寝ているのに寝たりなくて疲れたような気分なのはやっぱり季節の変わり目ということなのかな。週明けまでずっと雨模様の予報では、元気づけにモールまで歩くというのもめんどうそうな気分。でも、歩かなくても何だかやたらとおなかが空くし、かといって、「グー」信号にいちいち反応して食べていたらまずいような感じだし・・・。
秋といえば、食欲の秋、天高く馬肥ゆる秋、スポーツの秋、行楽の秋、読書の秋、芸術の秋、文化の秋、収穫の秋・・・他に何があるのかな。あれもこれもと忙しい季節だなあという感じがするけど、たぶん蒸し暑くてかったるい日本の夏が過ぎて、みんな俄然元気になってやる気が出て来るからだろう。季節感まで几帳面に仕分けされているようでおもしろい。たぶん日本人の体内時計にそういうカレンダーが組み込まれているんだろうな。でも、大雑把に短い乾期と長い雨期しかないようなところに長い間いれば、体内時計がリセットされてそういう季節感は薄れて行くものらしい。もっとも、蝦夷地の霧の最果てで生まれ育ったワタシには日本標準規格の季節感はピンと来ないんだけど、それは幼稚園の出席帳の各月の季節を代表する絵柄がその月々の自分の周りの風景とは全然違ったもので、未だに季節感覚が混乱したままなのかもしれない。
先週M6.4の地震が起きた同じ震源地で今度はM4.1の余震があったんだそうな。午前4時頃だったそうだけど、ワタシたちがそろそろ寝ようかと言っていたあたりか。先週のもそうだったけど、何も感じなかったから、寝て、起きて、昼のニュースを見るまで知らなかった。でも、実際には余震とされる小さな地震が何十回もあったらしい。前回ブリティッシュ・コロンビアで大地震があったのは300年以上前だそうで、次の大物がいつ来てもおかしくないとか。そうだろうなあ。地図を見れば、カナダの西岸はもろに「環太平洋火山帯」にあるんだもの。地球が生きている以
上はいつかは来るだろうけど、問題はそれが明日なのか、200年先なのかわからないことか。
地球は太陽系の中でたまたま生命の誕生や生存に適した位置にできた惑星だけど、太陽系の外にもたくさんの惑星があるはずだとして、いろんな観測や研究が進んでいる。これまでに生命を維持できそうなものも見つかっているそうだし、太陽系とはまったく違った不思議な惑星系もあるそうだし、すごいのになると何らかの理由で「太陽」を失ったらしいみなしご惑星が宇宙空間をふらふらと浮浪しているというから、宇宙にもホームレス問題があるんだとびっくり。そこへ発表されたのが惑星探査機ケプラーが2つの太陽を持つ惑星を見つけたというニュース。白鳥座にあって太陽系から200光年ぐらいという話だから、宇宙のものさしではけっこう近いじゃないの。この惑星は「ケプラー16b」と命名されたけど、天文学者たちは名作『スターウォーズ』の処女作に登場した2つの太陽を持つ惑星にちなんて「タトゥーイン」と呼んでいるとか。うん、まさに科学は小説より奇なりだな。
『スターウォーズ』は最初に作られた3作しか見ていないけど、双子の太陽が沈んで行くシーンはあまりにも強烈な印象で今でもはっきり覚えている。育ての親の叔父夫婦を殺されて独りぼっちになったルークが辺境の惑星タトゥーインで悲しみにくれながら眺めていた赤い2つの夕日。これからひとりで荒々しい世界へ出て行かなければならない若者が沈んで行く夕日に決意を新たにする・・・(サウンドトラックも含めて)まさに正真正銘の古典的西部劇のシーンだったけど、じーんと来るほど清冽な感じがした。(『スターウォーズ』の第1作(今はエピソード4)は正統派のアメリカ西部劇をしっかり踏襲した名作だと思う。)辺境の砂漠の夕日に2つの太陽を想像した人はすごいと思たもんだけど、それが現実になったんだからもっとすごい。宇宙に何十億とある連星。ひょっとしたらタトゥーインは数え切れないくらいあるのかもしれないな。白鳥座の2つ星アルビレオにも惑星があるのかなあ。青と黄色の宝石のようにうっとりする美しいカップルの太陽が綾なす夕焼け空を見上げてみたい!
でも、この太陽系の三番目の惑星の西半球の北の方の大陸の西側にある街の南の方の小さな家のベースメントにズームインしてみたら、ああ、ここは「仕事の秋」一色。それも大きめの仕事ばかり。この週末はねじり鉢巻だなあ、もう。だけど、何となく、ほんとに微妙に何となくなんだけど、日本に「復興の秋」が訪れつつあることを感じさせるような内容の仕事が出てきたような気がする。May the Force be with you、ニッポン!
ダサいファッション世界ワースト10
9月16日。金曜日。曇り空。眠い。涼しい。そろそろもう少し厚いブランケットに取り替えなくちゃ・・・と、つらつら考えながら正午に起床。ポーチの温度計は13度。なんだか眠くてやる気が出ない・・・。
それでも、朝食を済ませてオフィスに下りてきて、奥の小部屋に行ったら、ああ、ウォータークーラーがまた水漏れ。水のボトルに欠陥があったのかなあ。クーラーの上に約19リットルのボトルを逆さまにセットして下の方にある栓から水を出すと、その分だけ中の冷蔵タンクに水が補充されて、ボトルには空気が送り込まれるしくみ。タンク内の水の量は気密状態での圧力の釣り合いで溢れないようになっているんだけど、ボトルに小さなひびが入っていると、そこから空気が入って気密性が破れ、ボトルの水がどんどんタンクの中に流れ出て、タンクから溢れた水がクーラーの下から床に流れ出して来る。ボトルは何度も再利用されるから、2、30本に1本は事故が起きる。気がつけば使わずに取り替えてもらえば良いけど、知らずにクーラーにセットしてしまったら洪水が起きてしまうからやっかい。
ま、何度かそういう事故があった経験から、クーラーの下にビニールシートを敷いてあったので、床の被害はごく微少で済んだけど、それでも4センチくらいの深さに水がたまっていたから、いったい何リットル溢れたのか。眠いな~なんていってる場合じゃない。電源プラグを抜いて、まだ水が残っているボトルを外して、タンクの水をボウルに出し切って、軽くなったクーラーを床に敷いたタオルの上に移して、まずは溢れ水の処理。そばにあったプラスチックのコップですくってはバケツに空ける。すくえなくなったら、残った水をシートの四隅をまとめて持ち上げて園芸ルームの流しへバシャッ。シートが劣化していたので、去年のバスルームの改装で使った残りの内装用の分厚い防湿シートのロールからはさみで適当な大きさを切り出して、四隅をステープラーで止めて新しい水受けを作った。ついでに、酢を持って来てタンクの中を掃除して、部屋の隅においてあったテーブルの天板を置き台にして、水受けを置いて、クーラーを設置。新しいボトルをよっこらしょっと載せて、電源プラグを差し込んで、事故の後始末とメインテナンスの作業は完了。あ~あ、くたびれた~。
おかげで眠気はすっかり吹っ飛んだけど、思わぬ「大仕事」でやる気の方がちょっとあやしい。でも、日本は三連休だから、とりあえず日本時間の火曜日朝が期限のものは土曜日と日曜日でやっつければ十分間に合うと(またまた)高を括って、洪水騒動で読み損ねたニュースを読んで回る。どこかのメディアのファッショニスタがバンクーバーを「ダサいファッションのワースト10」に上げたということで、ああだこうだ。バンクーバーっ子のファッションがダサいのは、スパンデックスのヨガパンツをはいて街を闊歩しているからだとか、新聞サイトに載った写真はぴちぴちに締まったヨガパンツのお尻の大写し。う~ん、小さくて全然ふくよかじゃないワタシのお尻と比べたら、ウェストから逆さハート型に形が整ったお尻はセクシーで女らしくて羨ましいんだけど、それを見せるのはダサいの?ま、好き勝手にカジュアルで、他人のファッションにいちいちケチをつけないのがバンクーバーっ子の気風で、それがウェストコースト文化のいいところ。
この「ワースト10」にはカナダの首都オタワが「保守的過ぎる」という理由で8位に入っているから笑ってしまう。対照的なのがバンクーバーに次いで第4位だった「原宿」。世界のサイバーパンク・フュージョンのファッションのメッカである原宿が選ばれたのは、「みんなが人と違って見えるようにがんばった結果みんな同じに見える」から。写真には水玉模様のピンクのふりふりドレスを着て茶髪の頭にピンクのおリボンをつけた「カワイイ」ファッションの(20代後半っぽい)オンナノコ。そういえば、日本国政府はアニメやカワイイ・ファッションを「クール・ジャパン」とか言って、車やエレクトロニクスに次ぐ日本が誇る輸出品として世界に広める方針だとか。じゃあ、ランキング大好きの日本でも「ダサいファッション」ランキング上位入賞は新聞に載らないだろうな。お披露目をしたばかりのロゴマークはちょっとダサいと思うけど。
原宿の下、第5位に入ったボストンは「プリーツのカーキで、ソックスを履いてボートシューズ」という悪趣味ぶりが認められたらしい。あはは、それってもろにLLビーンのカタログのイメージじゃないの。第7位になったサンフランシスコ/シリコンバレーは、Facebook創始者のマーク・ザッカーバーグを引き合いに出してひと言、「スタイル(品格)の欠如」。そうか。彼はいつもTシャツにジーンズだもんな。改まった服装をさせたらまるで案山子みたいに見えてしまう。でも、そういうカジュアルなところが学生気分の抜けない若者が億の財を成せるシリコンバレーの文化なんだと思うけど。ちなみに、ランキングのトップは「デニムの短パン、Tシャツにビーサン」のフロリダ州オーランド、2位は「アロハシャツ」でハワイのマウイ島。まあ、どっちもバケーションで行く観光地なんだから、気を許してダサいファッションでもいいんじゃないのかなあ。
まったくもって、ファッショニスタは「うるせ~な」。人さまの服装にいちいちチェックを入れてイケてないの何のと言っている方がよっぽどダサいと思うけど、あ、「ダサい」もそろそろダサい言葉かな。ファッション(流行)の移り変わりは加速度的に速くなるから、目が回りそう・・・。
ブサカワとはみったくなしめんこと見つけたり
9月17日。土曜日。雨模様なのか、曇り空なのか、どっちでも寝ぼけ眼にはどんより。ちゃんと寝ているのに眠い。季節の変わり目は体調を崩しやすいというけど、なんか今ひとつすっきりしないのは急に気候が変わったからなのかなあ。でも、別に体調が良くないというわけはなくて、寝足りなくて、やたらとおなかが空くというだけの話。ストレス食いしているような感じもするけど、自分の一部が自分のものではないような、心の中にざわざわと風が吹いてさざ波が立っているような気分。何なんだろうなあ、いったい・・・。
ひょっとしたら9月だからかな。正確には9月11日。が巡って来る月だからなのか。自分自身に直接の被害があったわけではないのに、いつも1日。中つかみどころがなくて、だからやり場もない怒りと悲しみでめちゃくちゃに涙もろくなってしまう。ある意味で、「アメリカがなんたらかんたらだから」と言い切れる人が羨ましくなる。まあ、年齢的に涙もろくなるのは必然なのかもしれないけど、悲しみの涙は静かに流れるからまだいいとして、怒りの涙は、ほんと、すごいストレスになる。感情によって涙の化学成分が異なるそうだけど、だとすると怒りの涙には有毒成分が満ち溢れているんだろうな。だったら、泣くことで毒を体の外へ流すのがいいということか。
あんがい、悲しみは時間の流れによって癒されることはあっても、やりどころのない正体不明の怒りはいつまでも昇華せずに心の奥の奥に燃えさしのように居すわるということか。自分が「自分」という人間を一番良く知っているつもりで、実は自分にとって一番わかりにくいものかもしれないな。他人が考えていることや感じていることを察するより、自分が何を考え、何を感じているかを把握する方が難しいと思うことが多い。だからこそ、何かにつけて「んっとにワタシって何を考えてたんだか」という場面が出てくるんだろうな。やれやれ、人間てのはほんっとに厄介な動物だなあ。ま、何がどうなんだかよくわからないけど、何となく調子っ外れなのはやっぱり季節の変わり目のせいだということにしておこうっと。「もの思う秋」というし・・・。
きのう、「ダサい」はもうダサいのかなと考えていたら、小町に『ダサいに替わる表現は何ですか』という質問があって、『ダサい』はもう廃れ言葉だったんだとわかった。ワタシが日本にいた頃にはなかった言葉だから、さっと流行ってさっと廃れたのかもしれない。じゃあ、何といったらいいのか。『現代用語の基礎知識』も『Imidas』も買わなくなって久しいし、日常を日本語で暮らしていないので最新の「日本語」を話す人との接触もないから、流行語の変遷にもすっかり疎くなった感じ。最近は服装などで「イタイ」という表現をよく見るけど、「イケてない」ともいうのかなと思っていたら、どうやら今どきの若者は「ない」と言うらしい。「ない」となったら、「イケてない」から来たのか、「ありえない」から来たのかはわからないけど、ダサいとかイタイというのはそれでも「感想」を表現していたのに対して、「ない」は問答無用の全面否定。なんだか寒々とした感じがするなあ。
それにしても、ワタシがかろうじて覚えている「大きいことはいいことだ」の高度経済成長時代の流行語に比べると、バブルがはじけてこの方の流行語は人やものについて否定的なものが多くて、ポジティブな語感のものが出て来なくなったような印象を受けるんだけど、実際にはどうなんだろうな。(まあ、道産子のワタシの日本語はカナダに来てから覚えた「標準日本語」だから、元から微妙なズレがあるのかもしれないけど。)同時に感情表現が過激化し、生理感覚が過敏化しつつあるような印象も受けるけど、ま、そのあたりは外の遠く離れたところから部外者的な目で見ているからそう見えるだけなのかもしれないな。日常語の英語でさえ流行り廃りについて行くのがめんどうなのに、めったに翻訳原稿に出てこない今どき日本語の流行り廃りにまで気を配るのは季節に関係なくすごく疲れそう。
そうそう、ずっと「ブサカワ」という言葉の意味がわからなかったんだけど、その形容詞の典型例らしい犬の画像を見て、やっとわかった!「みったくなしめんこ」の平成標準語版だったのか。なあんだ、そう言ってくれたらどんな感じかがすぐにわかったのに。まあ、ところ変われば言葉変わる、時代変われば言葉変わるってところかな。変わるのは言葉だけではなくて、それを使う人間も時代やところと共に変わる。じゃあ、ところも時代も変わったワタシは何語人・・・?
フェイスブックと運命の赤い糸
9月18日。日曜日。寝つきが悪くて、外が明るくなってやっとぐっすり眠れたのに、正午前にカレシに起こされた。ワタシは「まだ寝ていた~い」オーラをばんばん出して抗議?したけど、カレシは「腹減った~」。まあ、今日は丸1日。分の仕事があるからしょうがないか、とぐずぐずとベッドから抜け出したら、「せっかくよく寝ていたのに起こしてごめんな」と、いかにも取ってつけたように殊勝?っぽい顔のカレシ。あ~あ、眠いんだけど・・・。
今日の朝食には「ポメロ」のウェッジが出てきた。カレシが英語教室の生徒さんからプレゼントされて来たもので、グレープフルーツのお化けのような大きさ。秋になるとアジア系のスーパーなどで山積みされていることが多いのは、9月の中秋節と関連しているらしい。そういえば満月のようなイメージでもある。食べてみたら思ったよりあっさりと甘かったけど、皮が分厚くてほとんど果汁がないのでポメロジュースは無理そう。このポメロ、中国では「文旦」、日本では「ザボン」と言うんだそうな。子供の頃に読んだ本に「ザボン」という言葉が出て来て、どうやら柑橘類らしいことは薄々理解できたものの、その変わった語感からどんな不思議な果物なのかと想像をたくましくしたけど、そっかぁ、なるほど、これがその「ザボン」か・・・。
Facebookで友だちが増えた。Friendはこれで16人。ほとんどが(拡大)家族のメンバーで、たまにチェックする程度だけど、友だちや家族の近況がさっとわかっていい。Friendの中で一番活発なのは劇作のガチャリアン先生と映画脚本口座のクラスメートだったダニカ。先生はフィリピン系の若手劇作家でゲイの活動家、ダニカはその後カレッジで教えながら作家デビューした才媛だから、どっちも交友関係は広いなんてもんじゃない。今までの「Friends」の他に「Close Friends」と「Family」にもカテゴリ分けができるようになったおかげで、友だちと家族の方にズームインしやすくなったから、チャットの使い方も勉強したら、ときどきリアルタイムで交流ができていいだろうなそうだな。10人いる「家族」の中で書き込みが一番活発なのはサンドラかな。
サンドラは甥のビルの4つ年上の姉さん女房。生まれはロンドン。「コクニー」と呼ばれるこてこての下町っ子で、16歳で学校を出てから美容師ひと筋。何度か会ったお父さんは船乗りだったそうで、コクニー訛り丸出しの実に愉快な人だった。日本の港に寄港したときの冒険談を話してくれたけど、テレビでイギリスの下町コメディをよく見ていたので、うまく聞き取れて話が弾んだ。(ちなみに、サンドラのお兄さんはプロサッカーのチェルシーの元選手で、カナダで女子サッカーの監督をしたこともある。)サンドラが行っていた友だちのパーティに、ビルがマリファナがあると聞いて招かれていないのに押しかけたのが2人の出会いで、最初は互いにそっぽを向いたらしいけど、いつの間にか相思相愛になってもう20年を超えた。ビルはしっかり者のサンドラに頭が上がらない、完ぺきなるかかあ天下。そのサンドラがすてきな言葉を書き込んでいた。
「人生の苦難の数々を生き延びてきたすべての強き女性たちに!私が強いのはかって弱かったことがあるからこそ。私が人に同情できるのは苦しみを味わったからこそ。私が今生きているのは(生きるために)戦う人だからこそ。私が分別を持っているのはかって愚かなことをしたからこそ。私が笑えるのは悲しみを知っているからこそ。私が愛せるのは失うことがどういうことかを知っているからこそ。嵐をくぐり抜けて来て、それでもまだ雨の中で踊るのが大好きなあなたは逞しい!」
そういえば、学習障害児で十代の頃はちょっとぐれたこともあったビルがまじめな良き夫、良き父親になり、40代に入って渋いイイ男になる片鱗さえ見せるようになったのは、サンドラという良き伴侶に出会えたからに他ならない。大西洋を越えて、カナダとイギリスで太い「運命の赤い糸」が張り渡されていたということか。この決して切れるはずのない赤い糸、恋愛観、結婚観の変化を反映しているのか、太そうに見えて意外に切れやすかったり(百均ショップの安い糸だったりして)、今にも切れそうに細く見えて実は何があっても決して切れない強いものだったりする。まさに、男と女の「縁」というのは摩訶不思議としか言いようがないな。
バカがつく丁寧は丁寧じゃないし賢くもない
9月19日。月曜日。まだちょっと眠いけど、きのうよりはややしゃっきり感が高まった感じ。正午前に起きたら、外が明るい。どんより空模様はひと休みというところか。もうすぐ秋分の日(公式に「今日から秋」という日)で、その先はどんどん日暮れが早くなる。クリスマスが来る頃には「昼」の長さが(実際には8時間くらいだけど)ワタシたちの「生活標準時」ではわずか4時間くらいになって、今起きたと思ったらもう外は真っ暗なんてことになる。北極圏の常夜の冬もあんがい気にならないかもしれないな。
テレビをつけたら、エアカナダの客室乗務員組合があさってからストに入りそうというニュース。まあ、ワタシたちのフライトは1ヵ月先だし、連邦議会が召集されたばかりの政府は経済活動の足かせになるとして「スト中止命令」を出す気満々らしいから、やるんだったらすぐにでも始めてくれれば早く終わりそうでいいな。今年から来年にかけては労働協約が期限切れになるところが多いそうで、ストが多発しそう。2008年のサブプライム問題で始まった不況のときに妥結したところが多いから、組合(特に公務員系)はあのときに我慢させられた分も合わせて賃上げを獲得するぞと鼻息が荒いけど、使用者側も賃上げができるような経済状態じゃないと強気。
州の公務員組合のうち、「基幹業務」に指定されていて職場放棄が禁じられている教員組合が一種の順法ストをやっている。左派政権の時代には毎年大幅に増額された教育予算のほとんどを自分たちの給料に分捕って高給取りになった先生たち、今回も要求の内容を見たら「過剰」、「唖然」、「失笑」。一番すごいのは「友人の死亡時に忌引休暇2週間」というはちゃめちゃな要求。1年を10ヵ月で暮らす教師たちの友人が死ぬたびに2週間も休暇をやっていたら、いったい学校の授業はいつやるのかいな、もう。何でもいいから「へたな鉄砲」式にとにかく要求してみようという戦術もありだろうけど、学校教師という職業柄、もうちっとは分別ってものを働かせても良さそうなもんだ。賢くない教師に教えられると子供たちまで賢くなくなってしまいそうで、国の将来にとっては困ったことじゃないのかなあ。
まあ、ボストン行きはひと月先の話だからということで、朝食が済んだらまずは同時進行で午後5時が期限の仕事2つの仕上げにかかる。ひとつは比較的簡単で楽なんだけど、もうひとつは企業PRで、頭がくらくらするくらいもったいぶった「キーワード」が出てくる。もっとも、元の英語のbuzzwordをそっくりカタカナ化した言葉ばかりだし、PRだから言わんとすることはわかる。わかるんだけど、何だか「最先端業界語」ってれっきとした日本語の一方言なのかもしれないという気がして来る。これを書いた人たちは標準語を知らないのかもしれない。(自分の日本語を棚に上げて)いったい国語教育はどうなってるんだと思うけど、まあ、教育が賢くないと育つ人材も賢くないということか。不特定多数のビジネスへの宣伝にばかていねい語を使いたがるのはご愛嬌と言えなくもないけど、ビジネスの一般的な呼称に「様」をつけるのは滑稽な感じがする。まっ、訳してしまえば普通の英語の無味乾燥なPR文書・・・。
そういう文書を仕事の視点から離れて読んでみると、上目遣いでもみ手をしながら背中を丸めてしきりにぺこぺこしているイメージが浮かんで来て、何となく背中がかゆくなってくる。どこの言語でも、新しい言葉や用法はそのときどきの世相を反映していることが多いけど、そういう言葉があたりまえに使われる日常の中にいるときは、あんがいそういう世相を肌で感じることはないけど、その日常生活圏の外で字面だけを見ているときに「ん?」という違和感を覚えるのかもしれないな。川柳を一句思いついた。「お売家様と今様に書く今どきの人」・・・字余り。
察しの文化ともの言う文化のすれ違い
9月20日。火曜日。午前11時30分、目覚ましがジジジジ!今日はカレシが英語教室ダブルヘッダーの忙しい火曜日。20度まで届きそうないい天気。だけど、眠いよ・・・。
朝食を済ませて、カレシは第1ラウンドへ。すでに英語がかなりのレベルに達している人たちなので、新聞や雑誌の記事をテーマに活発なディスカッションが進むらしい。英語が国語の国に移住すれば、英語での会話能力を向上させないことには日常生活に困るし、就職にも差し支える。だから英語教室に通うわけだけど、初級レベルの生徒は終始うつむいて自分から話そうとせず、当てられても口を開かないことが多いとか。アジアの学校では先生が絶大な権威を持っていて、生徒は授業を静聴するものという観念を刷り込まれているらしいけど、たぶんにアジア的な心理も働いているんだろう。それが、一度勇気を出して英語を口にしてうまく行ったら最後、ほとんど
が積極的に「会話」に参加するようになり、「ネイティブ並み」の完ぺきな英語にはほど遠くても自信を持って外へ出て行くという。素人先生のカレシの英語そのものを教えるよりもその「勇気」の敷居をまたがせようという教え方はそれなりの成果を上げているということだろうな。なんたって英語で生活できるようになるためには英語を「しゃべらにゃ損々」なんだから。
もっとも、英語は目的ではなくてコミュニケーションの手段だから、しゃべるためには相手が必要。独り言でも、テニスなら壁にボールを打ちつけたり、ゴルフなら打ちっ放しで自分のフォームを研究するようなもので、練習にはなるだろうけど、会話にはならない。小町でもよく「英語を話せるようになる方法」についての質問トピックが上がる。TOEICのスコアが高いのに会話ができない、どうしたらいいかという質問のよく見かける。だけど、文法も、発音も、語彙もTOEICもゴルフやテニスのフォームのようなものじゃないのかな。練習すればするほど「英語を話せる」ようになるかもしれないけど、それは必ずしも「英語で話ができる」ということではないように思う。これは英語に限らずとも、すべての外国語学習に共通することで、しゃべることはひとりでもできるけど、おしゃべりは相手がいないとできない。で、おしゃべりがテニスのラリーのように続くにはよく弾むボール(話題)が必要で、さらにボールから目を離さない(その話題に関心や知識を持つ)ようにしないとネットを越えて打ち返せない。(これは母語が同じでも普通にあることだけど。)
だけど、「言わなくてもわかるはず」式の相手に察してもらうことを期待するコミュニケーションが基本の人たちは、相手にボールを送る「言わなければわからない」式のコミュニケーションを学ぶところから始めなければ、いくらTOEICが満点でも「英語で会話をしたい」という願いはなかなか叶えられないかも。早い話、「しゃべらにゃ損々」の前にまずは「しゃべらにゃならぬ」ということになるわけで、それは自分の能動的エネルギーを消費しなければならないということに他ならない。だから、ある程度の年月を海外で生活していて、英語(あるいは現地語)が上達しないと愚痴っている人はあんがいこの「言わなければわかってもらえない」コミュニケーションが苦手なのかもしれないと思う。でも、そういう人は「(日本語と違って)英語では自分の気持をうまく伝えられない」と、いかにも英語が粗雑な言語のように言うことが多いけど、あんがい本音は相手が「自分の気持を察してくれない」ということなんじゃないのかな。つまり、期待のすれ違い・・・。
ああ、言葉、されど言葉。同じ言語で育った同士が口も手も目も駆使してさえ、勘違いやら思い違いやら行き違いやらで悲喜こもごもの毎日なわけで、人間同士が気持をわかり合うのはほんとに難しい。それでも、やっぱりわかり合いたいのが人間の人間らしいところ。だから、ワタシも人さまの「気持」のすれ違いに悶々としながらも翻訳稼業をやめられないのかなあ・・・。