リタイア暮らしは風の吹くまま

古希を迎えて働く奥さんからリタイア。人生の新ステージで
目指すは悠々自適で遊びたくさんの極楽とんぼ的シニア暮らし

2009年8月~その2

2009年08月31日 | 昔語り(2006~2013)
極楽とんぼはどこへ行く?

8月16日。日曜日だけど、日本では週明けの月曜日。だらだらしていてやり残した仕事は今日の午後5時が期限。朝食もそこそこに、赤字、赤字を連発しているなんともしょぼい報告の仕上げ。こういう仕事をしていると、景気の動向をちらっとでも見ることができておもしろい。それにしても、誤変換が多くなってきたなあ、この頃。たぶんワタシもときどきチョンボをしているだろうから、人のことはあまり言えないんだけど、翻訳原稿に漢字の誤変換があると、思わず文の意味がわからなくなって、読み返してやっと誤変換だとわかることがある。初めから読めない漢字も多くなったけど・・・。

人もすなるブログを我もしてみむとす・・・なんて言って、ぶつくさ、ぶつくさ書き続けること3年。これが990本目。ふむ、「よく続くなあ~」と呆れるべきか、「よく続けたね~」と自分をほめるべきか。まあ、そのあたりはどうでもいいんだけど、あと10本で1000本。その後どうするかがさしあたっての問題だなあ。To quit, or not to quit: that is the question....

ここ最近ずっと1000本に達したら閉めて、英語のブログに引っ越すか、まったく別なことでも始めようと考えていた。飽きて来たのか、自分にとってのブログを書くことの役割が終わりに近づいたと感じたのか。おしゃべりなワタシのことだから、ネタ切れというわけでもなさそう。ただ、何となくまた日本に背を向けてしまいたい気持になっていたようにも思うから、もやもやして「や~めた」という方向に傾いて行っていたのかもしれない。過去のいろいろなことと折り合いをつけたつもりでも、ときには振り回されている自分に気づくことがある。

あるところで紹介されていた「性格診断」をやってみたら「優しい自信家」と出てきた。3度やって同じ答。とっさに思ったのが、「日本の人には言わない方がいい」。日本語の「自信家」はあまりいい意味ではないようだし、そういう人が「優しい」というのも矛盾しているようだし・・・。遊びなんだから「うへ~」と笑えばいいのに、そのときはまだ視界不良の中を飛んでいたんだろうな。まあ、ワタシは(いい意味で)「自信家」だと思うし、自分では根は「優しい」人間だと思っているから、元からしていろいろ矛盾した人間ということで、診断は当たっているのかもしれないけど・・・。

たしかに能天気なワタシではあるけど、やっぱり血の通った人間だから、よけいなひと言もある(というか、多すぎる?)し、いろいろな見聞に人知れず心を痛めたり、憤ったりするし、ときには「こんなことで」というようなことで傷ついたりもする。でも、そこでもろくも崩れなくなった自分がいることも確かで、それを実感できるようになったのは、ブログが思わぬ「自分探しの旅」になっていたからかもしれない。幸福の青い鳥と同じようなもので、「自分」というのは結局はこれ以上身近なところはない、「自分自身」の中にしかいないということ。

はて、このブログ、そもそも自分にぶつぶつと話しかけるのを書きとめておくつもりで始めたんじゃなかったっけ?だから3年間もぶつぶつと書いて来られたんじゃないのかなあ。だったら・・・

自分という名の青い鳥

8月17日。月曜日。少しだけ夏が戻ってきそうな予報。久しぶりにエアコンをかける。今日の午後は、地下鉄開業で、午後9時までただで「試乗」できるという。ただとなればどっと人が押しかけるのは、どこへ行っても同じで、ダウンタウンの始発駅では4時間くらい前から行列ができたそうな。2時間以上も晴天の下で並んでやっと乗れたという。結局8万人が試乗会に集まったと言うからすごい。だって、改札口がなくて無賃乗車が横行する交通システムじゃあ、無料試乗会でも、本格営業でも、さして変わらないような気もするんだけど。

我が家から最寄の駅までは歩いて15分くらい。ダウンタウンやホールフーズへ行くのには便利になると思う。二人分の料金を払っても、90分以内で回れ右すれば、ダウンタウンの駐車メーターの料金よりも少し安い。おまけにカレシはシニア割引があるし、回数券を買っておけばさらに安くなる。ワタシもあんがい気軽にダウンタウンへ出向くようになるかもしれないな。お天気がいいからちょっとダウンタウンまでショッピングゥ・・・なんてね。

きのう、ブログを書き続けることが期せずして「自分探し」になったかもしれないと書いたら、小町のタイトルに『本当の自分てなに?』というトピックがあった。開けてみてびっくり。「自分が自分をどんな人間と認識することは必要なんでしょうか?」。え?29歳にもなってそんなことを人に聞いてどうするの?と思いつつも読み進んだら、「ほかの人が思う私=本当の自分」だと思うから、「ほかの人にどんな印象を与えていてどんな人に思われているのかをできるだけ的確に理解したい」ので、コツや方法を教えて欲しいと来た。他人がこういう人間だと思っているのが本当の自分って、本気で考えてるのかなあ、この人。だから、他人にどう思われているか「的確」に知りたいって・・・?

他人はそもそもひとりじゃないし、十人十色と言って、もしも十人の他人がこの人について十通りにこういう人だと思っているとしたら、他人にこうと思われる人間が本当の自分だということなら、わっと、多重人格ってことになってしまうよ。的確も何も、混乱して気が狂ってしまわないかなあ。他の人にこんな風に思われたいという「自分像」なら、まあ、誰でも心のどこかに持っていると思うけど、そういう自分じゃなくて、他人が描いている自分像を知りたい・・・いや、他力本願もここまでくると脱帽するしかないか、といいたいけど、アドバイスへの返事を読むとと、どうもこの人は「自分」あるいは「自我」の意味することがまったくわかっていないという感じがする。この先の人生、大丈夫なのかなと、ひとごとながらなんか心配・・・。

小町には実にいろんな人がいる。どれだけ書き込む人がいるのかわからないけど、たとえそれが1億2千万人の万分の一だとしても、すごい数の人間がいて、その数だけの視点からアドバイスしたり、批判したり、叱責したり、揶揄したり、皮肉ったり・・・いろんな日本が見える。言葉の選び方、使いかた、表現のトーンに日本の世相が反映されているんだろうと思う。そうやって見ると、顔の表情は見えなくても、メラビアンの法則があるていど働いているようなところがあるし、なんか社会学や心理学の教科書のようでもある。はて、このあたりから観察して見たら、ワタシも自分の中でこうだと思っている「自分」を的確に理解できるようになるのか・・・。

ワーカホリックのワタシもとうとう来週1週間の「夏休み」を取ることになった。あさっての終わりくらいまでに何も入ってこなければ、しめて10日くらいは休める。いい機会だから、このブログの行く末ともども、自分のこと、自分の人生、カレシとの人生など、未来の飛行計画をばつらつらと考えてみようか。(定年まであと3年と8ヵ月と1週間・・・。)

ほんとの嘘は誰についている?

8月18日。ゆうべは、「遅くなってもいいから、ひと区切りつくまで仕事したら?」というありがたいお言葉で、手持ちの最後の仕事を片づけた。納期まで2日の余裕を残して、あとは見直しだけ。久しぶりにカレシと寝酒のグラスを傾けながら、午前4時すぎまで、しばしのおしゃべり。高コレステロール騒動からもう3ヵ月になるけど、何かにつけて計画通りにものごとが進まないカレシが、食事についてはほぼ厳格に守って、寝酒もやらないでいたからびっくり。どんなものぐさ人間だって、やればできるんだねえ・・・なんてことは、ワタシも似たようなものだから言わないでおく。

目が覚めたら、ちょっと早い午前11時。カレシは10時に目が冴えてしまったとかで、とっくに起き出していた。ブルーベリーもイチゴもなくなったから、アプリコットを入れての朝食。夕食は何にしようかなあとフリーザーをかき回して、オレンジラフィーに決め、仕事の算段にオフィスへ下りて行ったら、あら、カレシは奥の部屋のソファに長々とひっくり返って、すやすや。そんなに早くに起きるからよ、もう。(放っておいたら1時間もたっぷり眠っていた・・・。)

ワタシのけさの血圧は105/65。(自宅でやると低めに出るらしいから、ドクターがやると110/70くらいになるのか。これ、30代の頃の数字だけどなあ。)実は、きのうは「不整脈」のアイコンが表示されたものでぎょっとしたけど、いたって健康だし、ちょっと疲れがたまっているってことだろうな。毎日10時間、週7日のペースで、ぶっ通し何ヵ月も仕事をしていた頃は、鼓動がぐぃっとつまずくのをよく感じたものだけど、あの頃は仕事だけじゃなくて(とういか、それ以上いに)私生活のストレスがものすごかったから、今とは違う。まあ、今日は何も出なかったから、「まぐれ」だってことにするか。だって、カレシのダイエットに付き合ったおかげで2キロ半減ったし、カレシと同じくワタシのコレステロール値も下がっているはずだと思うけど。でもやっぱり一度は健康チェックに行っておいた方がいいだろうな。ただし、夏休みが終わったら、ね。

不正事件のレポート記事の仕事を仕上げながら、どうして人間はすぐにばれるような嘘をつくのかなと思った。ばれないとたかをくくって嘘をつくのか、それとも動転して保身のためについ嘘をついてしまうのか。初めの嘘が露呈して、嘘を上塗り。それがばれてまた上塗り。やがては二進も三進も行かなくなって、結局は大恥をかくという図式になりやすい。たしかに一番最初の嘘は誰でもごく簡単につける。しんどいのはその後だな。天性の詐欺師なら別かもしれないけど、嘘を隠すための嘘は前のよりうまくつかなければならないし、それには相当の記憶力が要求されるし、高く積み上げて行くうちにいつかは破綻するというプレッシャもあるだろうし、へたな嘘つきが嘘を通すのはかなりしんどいことだと思うな。かってのカレシのように「自責の念」でがんじがらめになる人にとっては地獄だろうな、きっと。それでも嘘に嘘を重ねるのはどうしてなんだろうなあ。ひょっとしてマゾ・・・じゃないよね?

そうそう、ローカルの掲示板にはひと目で嘘とわかる「ほら話」が多かったなあ。匿名掲示板だし、日本からポッと来た短期滞在組にはわかるまいと思っていたのかもしれないけど、彼女たちの「夢に描いた海外在住生活」が手に取るようにわかっておもしろかった。日本の小町にだって、トピックの性質にもよるけど、なんとなく眉唾っぽい書き込みがときどきある。たいていは格差社会での上昇志向を反映した「上方偽装型」の嘘らしいけど、日本の事情がわからないから、どこからが嘘なのかは知る由もなし。でも、逆の「下方偽装型」の嘘ってのはあまりなさそうだからおもしろい。あんがい、ふだんからほめられても「いえいえ、私なんかだめなの」と否定する「嘘」をつかされているからだったりして。ほんとうのところはうれしくても、形式的には否定するのが美徳になっているから(したくなくても)否定する。これって自己否定なの?それとも相手の気持ちを否定しているの?自分に対する嘘なのか、相手に対する嘘なのか?は、ワタシ流「ぶつくさ分析」にもってこいの、なんだかおもしろそうなテーマを見ぃっけた~。

その意志なくして変革なし

8月19日。また暑くなって来た。シーラとヴァルが掃除に来て、その間に野菜と果物の買い出し。ついでに、月曜日に切れるエコーの自動車保険を更新。ずっと無事故だから基本料が40%くらい安くなっていて、今年は1200ドル。でも、古くなるから、あと2年したら「排ガス検査」の対象になって、合格しないと保険を更新できなくて、車を使えなくなってしまうからめんどう。まあ、あと2年なら、それまでにトヨタがエコーサイズの電気自動車を売っているかもしれないな。絶対にバッテリが上がらない電気自動車なら、喜んで買い替えるけど。

青果屋には地物のとうもろこしの大きな山。おお、やっと太くて粒も大きいのが出てきた。例年よりは全体的にちょっぴり短めな感じもするけど、7月末の猛暑であわくって熟したからかもしれない。値段は3ドルで6本とまあまあ。皮をちょっとめくってこれはと思うのを6本。大鍋にお湯を沸かして、盛大に茹でて、久々にバターをしたたるくらいに塗ってがぶり。カレシはと見たら、最初の1本だけ少しバターをつけて食べたけど、2本目は「バターがあってもなくても味が変わらないから」とそのままで食べていた。甘くて水分たっぷりの新鮮なものだから、何もしないでそのまんまが一番なのかもね。とうもろこしを3本とお皿いっぱいのサラダで、今日はベジタリアン。

国連の女性差別撤廃委員会が、さんざんだった前の審査から6年も経ったのにまだ「目に見える結果が出ていない」と、日本政府に条約の履行を迫ったとか。日本政府は「ちゃんとやってるよ、ほら」と説明したらしいけど、条約ができてから30年も経つのに、まだ性差別は温存されているのは、政府も役所も経済界もそろって「やればいいんでしょ、やれば」という態度で、「やっている」ように見せかけて裏で「旧態依然」を維持して来たからかな。法律や制度はいくらでも作れるけど、それを運用する人間とその総体的な意識を反映する社会はそうそう変われるものではない。まあ、外から眺めていると、女性の側にも差別をなくそうという強い意志はないように見えるし、それどころか、女性同士で差別し合っているような印象もあるし、特に若い女性は男に(経済的に)依存する方に傾いているようにも見える。やっぱり、そういうのが心地がいいんだろうけども。

ウーマンリブの運動が始まったのは女性が経済的な自立を求めたからで、その過程で教育や職業の機会均等へと進んだといえる。最初にそうやって社会に進出して闘った女性たちはどうしても「男と同じ」を意識しすぎていたきらいがある。カレシに「ああいう女に感化されるな」と何度言われたことか。でも、法律や制度が整備されるにつれて、男は男、女は女として、互いに自立して協力して行こう、という方向に動いたと思う。そういう共同参画社会になじめないでいる(自信のない)男が日本女性の「ステレオタイプ」に熱を上げて、当の日本女性に(女の敵は女とはよく言ったもので)「白人女性は気が強すぎるのよね」と同情されている面もあるけど、やっぱりそれなりにそういうのが心地がいいんだろうな。

まあ、意志のないところに変革はないわけで、国連がいくらダメ出ししたところで、きっと次の審査のときになっても、まだ変わっていないだろうな。・・・

今日から夏休みだ!

8月20日。眠れているのかいないのかよくわからないうちに1日が明けた。寝る前に手持ちの最後の仕事を済ませて、送るだけにしておいたから、「送信」ボタンをクリックしてしまえば、後はいよいよ夏休みになる。そう、「イェ~イ夏休みぃ~」なのだ。そのせいだったのかなあ。遠足の前の夜にワクワクしすぎて寝付けない子供みたいでもあるけど、まあ、仕事に遊びを中断されない10日はやっぱりちょっとワクワクするな。何しよう?何しよう?メールを書きたい人がたくさんいるし、見たいDVDもたくさんあるし、片づけたいところもたくさんあるし、う~ん、忙しくなりそうな予感・・・。

「送信」ボタンをクリックしたら、ワインセラーの在庫拡充のため、まずは酒屋へ。今日はバスケットじゃなくてカート。カレシがソーヴィニョンブランにはまっているので、初回在庫はこれが中心バラエティ。目的ショッピングだから、カレシには「目安は20ドル以下で、甘さのコードが00(ドライ)のもの」という指針だけを示しておいて、ワタシはじっくりと見て回る。しばらくして、カレシが困ったような顔をして「フランスワインにはぶどうの名前が書いてないんだけど」と言ってきた。さては棚の上の方に並んでいるAOCの銘柄ばかり見ていたらしい。下の方で安い値札のついているヴァン・ド・ペイを探してみてね。

フランスのワインは伝統的に原産地表示なので地名で選ぶけど、新大陸のワインはぶどうの種類で選ぶ感じなので、初心者にもけっこうわかりやすい。その昔、カリフォルニア産のワインをラベルに「ボルドー」とか「ブルゴーニュ」と銘打って売っていたのが、フランス政府が商標権の侵害だ、(アメリカのワインごときが)けしからん、侮辱だ!と騒いだもので、ぶどうの種類(バラエティ)でラベル表示するようになったとか。そのおかげでアメリカのワイン消費が増えたという説もあるらしいけど、バラエタルワインと言われるものはフランスワインと肩を並べる高級ワインになっているし、の頃はフランスワンでも、ヴァン・ド・ペイにはバラエティを表示してあるものが多い。

結局、飲み比べるために各国のソーヴィニョンブラン7本とヴィオニエ4本のほか、フランス、アルゼンチン、ポルトガル、アメリカ、カナダ、スペイン、ニュージーランド、南アフリカ、オーストラリアの白と赤、ロゼを取り混ぜて、合計30本を買い込んだ。ま、ああだこうだとうんちくを傾けて「やっぱり~は○○に限る」と言うようなこだわり方をしない質だから、いろいろと飲んでいるうちに特に気に入ったのがあったら、ケース買いして極楽とんぼ亭の「ハウスワイン」に指定しようというわけ。持参のエコバッグとワインの空き箱2個に詰めてもらって、帰って来てワイン棚に並べてたら、おお、まだ半分は空いているけど、どうやらちょっとばかり「ワインセラー」の体裁になってきたぞ。

と言うわけで、ワタシの夏休み初日はワクワクと楽しく過ぎた。さて、明日は何をしようかなあ・・・

ワタシの現在位置は

8月21日。ああ、よく寝た!レミが助けてくれたせいもあるだろうけど、寝つきも早かった。前の夜に正常に眠れなかったせいで、きのうは夜中を過ぎた頃にはもう頭がどんより。体のほうは別に疲れたというシグナルを出していないのに、頭は「もうだめだ~」と今にもぶっ倒れそうな「疲労困憊」シグナル。グラスから立ち上るレミの香りを胸いっぱいに吸い込んだだけで、「ああ、もう死んでもいい~」と、なんだか終末的な恍惚感が沸いてきてしまった。(だけど、陶酔して死ねるんだったら、断然あの百年もののアルマニャックの方がいいなよあ・・・。)

仕事が忙しくても徹夜をしなければそれほど疲労感はないけど、脳みその方は確実にくたびれる。こういっちゃなんだけど、「文化の壁」と「言葉の壁」で一番苦労しているのは実は翻訳・通訳を生業とする人間だと思う。いわゆる海外在住者にとっては、居住国の文化と言葉がわかれば、その国や文化や人間が好きか嫌いかにかかわらず、機能できるはずだと思うわけ。だって、その国の言葉ひとつで、その国の人間の反応や態度に対応すればいいんだから。一方、翻訳と通訳は2つの言語中枢を働かさざるを得ないし、日本語の原稿を読みながら、英語を書く(あるいはその逆)というきわどい芸当をやらされる。生活のためにそれをやっているわけで、まるで気性の違う客がいる「お座敷」を2つかけ持ちして、なんとか盛り上げようとしている太鼓もちみたいなもので、これじゃあ脳みそもくたびれるってもんでしょうが。

まあ、メガサイズのファイルだの何だのと仕事が続いて疲れてはいるんだけど、このところの心理的な揺れから来る精神的な疲労の方が大きいように感じる。いくら「ま、いっか」主義のワタシが信条のつもりでも、地面にしっかり足を踏ん張っているつもりでも、ときどきその地面が揺らぐ。そのたびによろけたり、転んだりしても、起き上がって、気を取り直して、がんばって来たのがワタシ。だけど、やっぱりときには座り込んでしまいたくなる。立ち上がらなければどうにもならないのはわかっていても、地べたに座り込んだままで周囲を見回して、人間地図の上での自分の立ち位置を確かめて見たくなる。北緯49度30分、西経123度6分・・・というぐあいに。

まあ、その問題は夏休みの間にゆっくりと対処することにして、2日目の今日は洗濯機を回しながら、キッチンの戸棚や引き出しを大々整理。オーブンの下の引き出しは古いベーキングの道具がひと山。いつのまにか朝食担当になったカレシが「ブレックファストセンター」と呼んでいる戸棚のスライド式の棚はいつのものかわからない使い残しの食べ物や、こぼれたコーヒー豆やナッツがごろごろ。引き出しからは、航空会社の名前が入ったナプキンリングや寿司屋の名前が入った割り箸の袋、何の部品かもわからないものや使い道のないプラスチックの小物がぞろぞろ。どうも「念のため」に取っておいてそれっきりだったと見える。キッチンの全面改装からそろそろ9年になるから、古いものはそのくらい古いってことで、その間使われなかったものはこれからも使われることはなさそうだから、思い切ってぜ~んぶ「非リサイクルゴミ」の箱に直行。

これでかなりスペースに余裕ができた。なんだかスペースが欲しくなったのかなという気がする。自分の周りに精神的なスペースが欲しいのかもしれない。もうあっちとこっちを器用に渡り歩くのに疲れたのかもしれないな。家中の引き出しや戸棚を片づけて、ガラクタや不用品や、「念のため」にとってあるけどじゃまっけなものをどんどん捨てて、ゆったりとスペースができて「我が家」で思いっきり深呼吸をして、思いっきり大の字にひっくり返って、ぐっすり眠りたいような気がする。夏休みのワタシ、現在、北緯49度30分、西経123度6分を飛行中・・・

ヘルシーライフは継続から

8月22日。起床午後12時半。だんだん遅くなって来た感じだけど、いいのかな。ま、今日は土曜日。「日本では日曜日だから・・・」とカレンダーを先読みしなくてもいいのはやっぱり気が楽だな。時間的には「同時」なのに、向こうはいつも先へ先へ。地球が丸いからいけないんであって、向こうがせっかちというわけではないのはわかるけど、なんとなくそのイメージが沸いてしまう。まあ、こっちがいつも忙しなく「納期」を追っかける側だからそう感じるのかもしれない。何を好き好んでこんなめんどうな生活をしているのかとも思うけど、とりあえず今日は一日中ひたすら「土曜日」・・・。

今日はきのうに引き続いてキッチンの整理。いろんな食品を入れてあるキャビネットの引き出しを開けて、点検。あら、賞味期限が1999年なんてのもある。日本食の材料を買い出しに行っていた食品店の値段のシールが貼ってある。あの頃はどえらい円高だったなあ。それでもごくたまには日本食らしい夕食も作っていた。カレシのランチは日本製のお弁当箱に日本風の愛妻弁当。どんなに遅くまで仕事をしても毎朝の6時半に起きてせっせとお弁当を作っていた。それでも働きすぎで稼ぎすぎの妻は、あの頃のカレシの目には「愛すべき(日本人)妻」に見えなかったということか。目の青いのは節穴から空が見えてたってことかいな。それで、おつむ空っぽのオンナノコたちにひっかけられたんかいな(と、ちょっとtongue-in-cheekでイジワルに言ってみる)。

とにかくけっこうな量を捨てた。古そうなパッケージ食品、使いかけの調味料や食材をどんどん捨てていたら、引き出しにはびっくりするくらいのスペースができてしまった。少し古そうな食品は栄養成分の表示を見ると「トランス脂肪酸」が入っていたりするから即NG。このトランス脂肪酸だけはデータを読めば読むほど恐ろしくしろもので、心臓病だけでなく、認知症になる危険も高まると言われているから、ヨーロッパでも北米でもかなり厳しく規制されているし、食品メーカーも使うとラベルを見た消費者にそっぽを向かれるもので、逆に「トランスファットフリー」を売り物にするようになっている。たまにはバターも卵もOKのカレシも「トランスファットだけはダメ!」とうるさい。(日本では脂肪の摂取量そのものが欧米より少ないという理由で規制がないそうで、北米で油を切り替えたファストフードチェーンも日本ではトランス脂肪酸の油でフレンチフライを揚げているそうだし、マヨネーズもマーガリンもスナック菓子も相当入っているんだろうなあ。)

夕食後にコーヒーを飲みながらテレビを見ていたら、生活習慣病予防の番組をやっていた。あわただしくて、ストレスに満ちた現代は食生活や運動が疎かになっているという医者の説明と共に、若い家族、独身者、退職者カップルがアドバイスを受けるというもの。ダイエットも運動も、過激に3ヵ月やって目標を達成したからと元の習慣に戻ったら元の木阿弥になると言うと、カレシは「まさにその通り」としてやったり顔。うん、コレステロール値が正常になったのは「食事療法」のおかげで、それをやめたら振り出しに戻るだろうね。そのへんの理屈は誰だってちょっと考えたらわかりそうなものだけど、それが難しい人が多いんだろう。大事なのは日頃からのバランスのとれた食事と運動。継続はパワーなりなのだ。運動といっても難しく考えることはない。とにかくまめに体を動かしなさい。突如、「散歩に行こう!」とカレシ。(そうやってすぐその気になるんだから。)

まあ、夕暮れの早足散歩もいいかなということで、開通したばかりの地下鉄の駅を下見しに行くことにした。早足なら10分ほど。改札口がない以外はごく普通の地下鉄の駅。リッチモンド方面行きが発車して、ダウンタウン方面行きが到着。土曜日の夕方にしてはけっこう人が乗っている。来月の新学年にはカレッジの学生の利用で混むのかな。さらに歩いてモールの外にある次の駅。主要駅ということでちょっと大きい。売店も入るらしい。どちらの駅もエスカレーターは上りだけ。ちょっとケチな感じがするけどなあ。ま、せっかくモールまで来たから、スーパーでシリアルと地中海の天然塩を買って帰って来た。往復で約3キロだから、まあ、適当な運動にはなったかな。

人生の考古学的検証

8月23日。日曜日。夏休みになってまず寝る方の調子がよくなって来たみたい。ぐっすり8時間。起きたら昼過ぎ。カレシの方が先に起きて、食洗機から寝ている間に洗い上がった食器を出して、片づけて、朝食のテーブルをセットして、それから菜園の水遣りをしながらワタシ女房が起き出して来るのを待っていた。「寝酒なしでそれだけよく寝られるってことは、100%夏休みモードになった証拠だな」と。うん、生活の「一元化」って心身ともに楽でいいよね。「65になったらすぱっと引退したいと思うだろ?」 えっ?う~ん、それはねえ・・・(起き抜けから誘導尋問しないでよ~)。

今日はリビングの本棚からガラクタを排除する作業。リビングはどこを向いても天井までの本棚になっていて、そこにワタシが老後のための本を買い込んでは積読するもので、蔵書数は半端じゃない。ところが、カレシは並んだ本の前のスペースに何でもやたらと置きまくり、本棚の隙間には何を録画してあるのかわからないビデオやDVDが並び、買ったのはいいけど置き場所から溢れたDVDが並び・・・もうっ。片づけ始めると、これがまるで考古学の発掘現場。6年前の銀行の明細書、前回5年前の運転免許証更新の通知書、誰のかわからない電話番号のメモ、壊れて処分した道具の説明書、そして小銭、小銭、小銭。

紙以外をどんどん「非リサイクルゴミ」の箱に放り込んでいったら、そういうガラクタに埋もれて埃をかぶっていた古いワタシの写真が何枚も出てきた。会計事務所時代のクリスマスパーティで同僚が扮したサンタクロースの膝で笑っている(30代半ばの)ワタシ。家を新築して間もなかった頃か、カレシが育てたほっそり美人の大根を持って微笑んでいる(20年くらい前の)ワタシ。髪を腰まで伸ばしていた(15年前くらいの)ワタシ。自分で言うのもなんだけど、ワタシだって若かりし頃はけっこうかわいかったのだ。たしかに、マレーシアかインドネシアかって容貌だけど、童顔だからそれなりにかわいい。

きわめつきは、MacのSEとPCのモニタを置いて、その前に2つのキーボードを並べたデスクの前に座っているワタシ。翻訳業の看板を出してまだ間もない頃のもので、PCの画面を見るとそこは懐かしいDOSの世界。日本語は全角と半角の明朝フォントしかない原始的なソフト。名前は忘れてしまったけど、千ドルもする「設備投資」だった。それでも日本で買ってきたポータブルのワープロから見れば、飛躍的な進歩だった。PCがあるのにMacを使っていたのは得意先が当時はMac一本だったからで、銀行から借金して買ったSEは当時6千ドル以上もしていた。しまいにモニタの隅にアップルのロゴが焼きついてしまうくらい使い込んだMacはまだ納戸の奥のどこかにあるはず。もう前世紀の骨董品もいいところだけど、ワタシの翻訳業も来年2月で満20周年・・・。

写真の中でカメラの方を振り向いてにっこりしているワタシはその頃40代前半。数字からして若かったなあ。まだ若かったからこそ、カレシが熱心に在宅稼業への転身を勧めた本心など知る由もなかったし、自分のスペースが徐々に侵食されて狭められていくなどとは夢にも思っていなかった。フリーになって最初にもらった小切手の額面が秘書時代最後の給料の倍以上で、びっくりするやら、うれしいやら。カレシもうれしそうなことを言っていたから、喜んでくれているとばかり思って、そのまま勢いに乗って仕事にのめり込んだ。まだ若かったんだ、あの頃は・・・。

でも、よく見ると、この写真の顔は若すぎるなあ。いや、幼すぎる。どうみたって幼すぎる顔なのだ。自営業の看板を掲げた40代のおばさんの風格なんてこれっぽちもないのだ。普通のカナダ人に見せたら、へたすると「12才くらいかな?」と言われそうなくらい子供っぽい顔なもので、我ながらゲゲゲッと来る。カレシは「ボクなんか教室で中国人のおばあちゃん生徒にあんたの嫁さんはあんたには若すぎるって叱られたよ」と、わかったような、わかってないようなことを言う。あのねぇ、よく見てよね。これは20年近く前の写真。あんたの「若すぎるお嫁さん」はたったの20年足らずで、ほら、こんなおばちゃん顔になっちゃったの。その責任、とってくれるよね?

あしたは36年目の「あの日」。人間として、自分がしたことの責任はきちんとしなきゃ。

あの日・・・そして36年後

8月24日。人間の長い、長い歴史の中には、その後の民族や国家、いろいろな共同体や個人の運命を変えた「あの日」が数え切れないほどある。いや、人間は未来を知ることはできないから、ほんとうに「運命」が変わったのかどうかはわからない。だから、過去を振り返って「ありえた運命」を推測するしかない。何か大きな事件や重大な決断をすることがあって、その選択の結果(outcome)が予想や期待に沿うものだったら、「あの日」は人生最良の日ということになるんだろうけど、そうでなかったときには、もしも「あの日」にあの決断を選ばなかったら、こんな人生にはならなかった「かもしれない」と思うだろうな。あの日の決断が「運命」を変えた、いわば「運命の日」だったと。

生きると言うのは阿弥陀くじみたいなもので、二択、三択の決断の連鎖。誰の人生にも下した決断と同じ数の「ありえた運命」がある。その中にはいつまでも「もしも?」と問いかけてくる「あの日」があるはずだ。能天気に生まれついたようなこのワタシにも「あの日」がある。それが36年前の8月24日。「あの日」を境に、一連の決断がワタシの人生の流れを大きく変えた。カナダでの夏休みが終わって明日は帰国の途につくという夜。デートの後、滞在先の友だち夫婦の家の玄関先。当時の結婚適齢期を過ぎて「彼氏いない歴=年令」だったワタシに「一緒にいたい人」ができた。告白はなかなかロマンチックだったけど、実はその3日後に「二人の将来」を大きく変えるイベントがあるのをワタシは知らされずにいた。

カレシは「黙っていただけで嘘は言わなかった」と主張したけど、相手が妥当な決断をするために不可欠な重大な情報を秘匿したというのは騙すこととさして変わりないと思うなあ。もっとも、そういうカレシがやがて、投資家の正常な判断を狂わせるための「重要情報の故意の秘匿や虚偽の表示」を洗い出す仕事についたのは皮肉な展開だった。カレシが「あの日」の自分の行動を覚えていたら、どんな気持で仕事をしたんだろう。ひとつの嘘を隠すためにまた嘘をつくと、さらにそれを隠すための嘘が必要になる。そうやって嘘を重ねていくと、やがて自重で崩壊する。こういう図式になる嘘はどうも自分の「何か」を隠すための嘘であることが多いように思う。他人の目から隠しているようで、実は自分がその「何か」を見たくない故の嘘ということもある。

「あの日」、そしてその後も、カレシは虚像の「日本女性」しか見えていなかった。目の前にいた「ワタシ」という25才の女性も、一緒の生活の中での「妻」も見えていなかった。ワタシはカレシという「一緒にいたい人」しか見えていなかった。後で海の向こうの何にも知らない人たちにぼろくそに言われて自分を見失ったのは、長い間カレシの心のお荷物をまるで自分の重荷のように背負わされて来たからで、自分にもカレシにも糾弾されたような嘘はついていなかった。自分にそんな無責任なことはできないものね。もし、やましい動機があって「カレシが好きなんだ」と自分を騙していたら、カレシとは10年ともたなかったろうな。あのときの決断を後悔して、その責任をどこかに転嫁していたかもしれない。自分に対する嘘で傷つくのは究極的に自分だということなんだろうな。

カレシへの気持が、36年の間にえくぼもあばたも身近に見ながら変わらずにいられたのは、自分のその気持が嘘ではなかったからだよね。ずっと自分を信じていたんだよね。運命の「あの日」から36年・・・ワタシはそんなことをつらつらと考えながら、引き続き夏休みの大掃除。外で庭仕事をしていたカレシがひと休みしに入って来て「今日のメニューは何?」と聞くから、「魚!」と答える。いつもの受け答えなのに、いつものように一拍おいて二人で大笑い。うん、「あの日」に出会った「一緒にいたい人」と36年かけてここまで来たのは、これが「ありえた運命」だったからなのかなあ・・・

999本目と数秘学の9

8月25日。火曜日。夜来の雨で気分はすっきり。ワタシの感情の軌跡と雨が降るのとは全然関係はないんだけど、まあ、人間というのはどこの誰でも何かにつけて「おしるし」を見つけたがるからね。正午を過ぎて、というよりは午後1時近くなって起床。あはは、「朝」がだんだん遅くなって来た。夏休みなんだからこうでなくちゃあ。だけど、「結婚は生活」という井戸端小町の住人たちの口癖の通り、運命の日だの人だのと追想にひたっていられない。いやでも「生活」が追っかけてくる。

さて今日はベースメントのオフィスの整理に着手するぞ、と意気込んで下りていったら、ああっ!バックルームと呼んでいる小部屋のカーペットがびしょびしょ!夜の間にウォータークーラーの水が溢れたんだ。ごく普通の19リットル入りのボトルを逆さまに置くタイプで、ボトルにひびが入っていたりすると、水圧と空気圧の均衡が破れて水がどんどんタンクの中に流れ込み、タンクから溢れた水でクーラーの周りは洪水となる。そういえば、ゆうべ新しいボトルに変えたばかり。ボトルを外して調べたら、底に近い部分にひび。ときどきあるんだよなあ、こういうの。とにかく古いタオルを何枚もカーペットの上において、ぴょんぴょんと「朝の体操」。ぐっしょりとなったのをドライヤーに放り込んで、乾いたのをまたカーペットの上に敷いてダンスすれば、濡れた足跡が点々。こんなときにテレビの通販コマーシャルでやっている「驚異的な吸水力のシャムワウ」があれば、カーペットはあっという間に乾くのにねえ。(このシャムワウという雑巾、日本の通販ではアメリカの3倍以上の値段で売られているとか。)

整理整頓どころか、洪水の後始末に追われてひと汗かいたら、カレシが庭のライトがつかないと報告して来た。庭中を照らす強力なハロゲンランプ。はしごに上って、手で触れるなというめんどうな注意書きつきのランプを取り替えるのはなぜかワタシの仕事。カレシは「ちゃんとはしごを押さえていてあげるから大丈夫」と。あのぉ、この10年、ワタシは高所恐怖症なんだけど・・・。新しいランプを持って庭に出てみたら、カレシが持ち出してきたのは古いアルミのはしごで、段が1本抜けていて、おっそろしくぐらぐらするしろもの。「だって、エクステンションはガレージから出すのがひと仕事なんだよ。ボクがちゃんと押さえているから大丈夫だよ」とカレシ。

じゃあ、とサンダルを脱いで、裸足で上る。一段ごとに左右にゆ~らゆ~ら。ランプの位置は地上3メートル半。ガラスのふたを外して、長さ10センチほどのチューブ型のランプを外してポイッ。その後に新しいランプをはめ込むんだけど、スプリングが強すぎてはまってくれない。そのスプリングの位置もどうやら右利き用にできていて、左利きのワタシの右手は力が足りない。左手でやるしかないけど、頭にくる。苦戦していたら、生垣の向こうでとなりのパットが手を振っていた。なんとかはめ込んだら、とたんに点灯。うっ、まぶしい!手早くガラスをはめ込んで、そろりそろりとはしごを降りたけど、よく見たらミニのドレスのまま。緊急時とはいえ、あの高さに上ったら生垣の高さも間に合わない。いやあ、ワタシの後姿、奇観だったろうなあ・・・

午後いっぱいもう十分に生活したし、オフィスは竜巻の被災地みたいな状態だから、整理整頓はあしたにしよう。よく見たら、このブログは今日で999本目。この999という数字には大いなる意味があるらしい。黙示録の悪魔の印が「666」で、ひっくり返すと「999」になって天使の数字だというので、ググってみたら占いサイトらしいのがたくさんヒットした。イギリスでは警察や消防署の緊急番号だとか。気が動転しているときには911よりも押しやすそう。ま、簡単すぎて笑うに笑えない間違いやいたずらもあるらしいけど。999はまた「達成」に限りなく近い数字でもある。このブログも次は1000本目。もう一段上を行って「9999」を目指したらどうなるか。もっとすごいことに限りなく近くなるように見えるけど、人間はなぜか3つが好きだから、9999では4つになっていいことがないのかもしれない。人間の世界は三次元だから、なんでも「3つ」の方が落ち着くんだろうか。三角形は最も安定した形だそうで(三角関係という危なっかしいのもあるけど)、その3に3をかけたら9。その3に3を3つ並べた333をかけたら、9が3つの999。なんか意味ありげな・・・。

そういえば、名前の文字数からその人の性格や宿命を占う数秘学(numerology)というものがあるあるときにそのサイトを見つけたので、試しにワタシのフルネームを入力したら、出てきた数字が「9」、「魂の衝動」とかいう数字が「3」、「内なる夢」とやらは「6」だった。9+3+6は18で名前の文字数。9+3は12で、3つ目の「6」で割れる数字。9+6は15で、これは「3」で割れる数字。で、3+6はワタシの数字である「9」。このあたりの関係の意味合いはよくわからないけど、州の法律に基づく「改名申請書」で、理由の2番目が「数秘学」となっているところを見ると、東洋で「字画」を気にするように、西洋でも易学上の「数字」を気にする人がたくさんいるんだろうな。

たぶんどんな数字でもうれしくなるようなことを言ってくれるんだろうけど、「9」のワタシも読んでいるとほかほかとうれしくなるような性格(その通りかどうかはまったく別の話だけど)。で、ワタシの「魂の衝動」を掌る「3」のエネルギーがとてつもないおしゃべりの源泉になっているらしい。うん、やっぱりやめられないってことかなあ・・・

999の吉日まで休止符

8月26日。いよいよ。1000本目。

相も変わらずいろいろと考えることがあるけど、今日はあえて何も言うことなしということにしよう。

少なくとも中国では、「9」は「長久」、つまり長く(永遠に)続くというので、めでたい数字なんだとか。数秘学でのワタシのナンバーは「9」。それが3つも重なる縁起のいい日に(100)1から始めることにして、ワタシの日本語思考も夏休み。

はたして、(1)999まで続くのかな・・・?