尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

アルベルト・フジモリはなぜ立候補できたのか-政治家と国籍①

2016年09月24日 00時08分40秒 | 政治
 民進党代表選に、蓮舫参議院議員が出馬して当選した。そのこと自体にはたいして関心もないのだが、(政治ニュース一般に寄せる関心以上の熱い関心はないという意味)、選挙戦中に一部の勢力から、蓮舫議員の「二重国籍問題」が指摘された。この問題をどう考えるべきか。ひとり蓮舫氏の問題にとどまらず、案外深く広い問題を秘めていると思う。だから何回かに渡って考えてみたい。

 僕がこのニュースを聞いたときに、すぐに思い出したのはアルベルト・フジモリのケースだった。言うまでもなく、元ペルー共和国大統領である。「アルベルト・フジモリはなぜ立候補できたのか?」ペルーの大統領選挙の話ではない。ペルー大統領選の立候補資格も、問題を指摘する人がいるようだけど、今はその話ではない。フジモリ氏が日本の選挙に立候補したのである。「あなたはそれを覚えていますか?」と僕は言いたいんだけど、どうしてそのケースの話が出てこないのだろうか。まあ、関係者もみな忘れたいのかもしれないが。

 日本政府の解釈によれば、アルベルト・フジモリは日本国籍を有していた。だけど、ペルー大統領を務めていたんだから、もちろんペルー国籍もあるわけだ。堂々たる「二重国籍」である。でも立候補できたのである。まあ、当選はしなかったけど。でも、立候補できるなら当選してもいいんだろう。当選してから資格を取り消すことはできないだろう。だから、日本政府の公式見解は、「国政に携わるものが二重国籍であってもかまわない」ということだとしか思えない。

 もっと具体的に言うと、アルベルト・フジモリは、2007年参議院選挙で「国民新党」の比例区名簿に掲載されていたのである。国民新党というのは、2005年に郵政民営化法案に反対した人々が作った党である。郵政民営化法案が参議院で否決されたとき、当時の小泉首相は衆議院を解散した。その「郵政解散」で、反対派は自民党公認を外された。そこで亀井静香、綿貫民輔らが国民新党を選挙前に結成したわけである。その後、2009年の民主党「政権交代」に参加して、連立内閣に加わった。でも、2007年参院選時点(第一次安倍政権)では、野党である。

 参院選比例区は「非拘束名簿式比例代表制」である。国民新党は党名票と個人票で約127万票を得て、1議席を獲得した。当選は117,590票で個人得票1位の自見庄三郎、ついで青山丘、津島恭一ときて、アルベルト・フジモリは4位。51,612票だった。なお、このときには同党候補には10位で落選した、ペマ・ギャルボという人もいた。チベット生まれで、1959年にダライ・ラマらとともにインドに亡命した。その後日本人の支援で訪日して、日本で活動してきた。2005年に日本国籍を取得した。この人の場合「二重国籍」ではないだろうが、外国出身者を擁立したことになる。

 実はこのとき、フジモリ候補は日本にいなかった。南米のチリで身柄拘束後に保釈されていた。もう細かい経緯を忘れている人が多いと思う。(自分もそう)。ちょっとウィキペディアを見て思い出してみることにする。アルベルト・フジモリは、国立農科大学総長だったが、1990年の大統領選に新党を作って立候補した。小勢力だったが、決選投票でバルガス=リョサ(世界的な作家で、のちにノーベル文学賞受賞)を破って当選した。新自由主義的な経済政策と強硬なゲリラ対策を進め、成果も挙げた。しかし強権的手法に反発もあり、1992年に議会を解散して憲法を停止、強大な権力を手にした。1995年に再選、2000年にも3選された。しかし、独裁政権下で秘密警察が強大になり、腐敗も多くなった。

 2000年の大統領選は強硬に乗り切ったが、側近が野党議員に現金を渡す映像が公開され、反フジモリ派の攻勢が激しくなった。11月にブルネイで開かれるAPEC首脳会議出席のため、出国して11月16日に日本に入国。翌17日、突然ペルー政府にあてて、大統領辞任の申し出をファックスで送りつけた。(ペルー政府は辞任を受け付けず、罷免にしている。)日本政府は、フジモリは日本国籍を有しているとして、そのまま日本滞在を続けることを認めた。日本は「政治亡命」を認めていないはずだが(それも問題だけど)、フジモリのケースは「事実上の亡命」を認めたものと言える。

 この間、ペルー司法当局は「左翼ゲリラによる日本大使公邸襲撃事件の際、ゲリラ殺害を指示した殺人罪」で起訴し、日本に身柄引き渡しを求めた。その他、権力乱用など多くの容疑があったが、日本政府は一貫して引き渡しを拒絶した。その後、2006年の大統領選に立候補したいと考え、2005年に突然日本を離れてチリに向かった。ところが、チリでペルーの要請により身柄を拘束されたわけである。その間に、2007年の参院選出馬があったわけだが、このような理由で日本での選挙運動は全くできなかった。だから覚えてない人が多いと思う。2007年9月になって、チリ最高裁がペルーへの引き渡しを認め、以後ペルー当局に拘束されている。裁判の細かい経緯は省略するが、2010年に禁錮25年が確定している。本人は無罪を主張している。

 フジモリの裁判をどう考えるかは、ここでは扱わない。独裁者への裁きでもあれば、政治的弾圧という要素もあるだろう。そのことはペルーの問題として、では日本政府はどうして「独裁者フジモリ」を一貫して擁護したのか。よく判らないけど、その経済政策や左翼テロへの強硬策が、日本の保守派に高く評価されていたことが背景にある。フジモリ政権下で、日本の経済援助も増え、日本の経済進出も多くなった。「日系人」が大統領に上り詰めたことが、保守派にとって「国威発揚」のように感じられたこともあると思う。ウィキペディアに「日本で親交のある人物」として、曽野綾子、石原慎太郎、徳田虎雄らの名があがっている。そういう人たちの「お友達」なのである。

 何でも右派系マスコミの中には、蓮舫氏を批判する声が強かったようだ。しかし、フジモリの場合、完全なる二重国籍であるにもかかわらず、当時の保守派は一貫してフジモリ擁護を主張していたのである。いつもなら外国人政治犯の亡命を認めない人が、フジモリは日本人だから守れと言う。中には、ペルーのような国に引き渡せば殺して闇に葬るに決まっている、日本人の命を守れなどと言っている人がいた(僕はよく覚えている)。ペルーでは1979年以来死刑は執行されず、テロ行為への死刑は法文上残っているものの、「事実上の死刑廃止国」とされていることなど、多分知らなかったのだろう。

 ところで、肝心のアルベルト・フジモリの出生だけど、両親は熊本の出身である。1934年にペルーへ移住した。アルベルトが生まれたのは、1938年。だから、出生によりペルー国民とされる。だけど、両親は日本公使館に出生届を提出し、国籍保持を申し出たという。その結果、日本国籍を保有することになった。と言うんだけど、実は日本生まれだという説もあるらしい。まあ、それはともかく、これはちょっと無理筋ではないだろうか。日本人の両親から生まれた「日系ペルー人」であるとしても、一度も日本で生活していない。それで「日本人」と言えるだろうか。そして、ペルー大統領選に立候補。法的にはともかく、その時点で事実上「日本国籍を放棄した」というべきだろう。だけど、日本政府は前例に反してまで、フジモリを擁護し続けた。そこまで「日本人の血筋」は尊いということだろうか。

 かくして、日本では「二重国籍でも、国政選挙に立候補できる」という前例が作られた。蓮舫氏の場合には、それは認められないとするなら、二重基準と言うほかない。そう思うんだけど、それはともかく、二重国籍でもホントにいいのかという問題はある。そして、なぜ「二重国籍ではダメ」という人がいるのかと言う問題もある。そして、蓮舫が二重国籍だというなら、どことどこの国の国籍なのかという大問題も存在する。それらを順々に考えていきたい。
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1 コメント

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フジモリは (さすらい日乗)
2016-09-25 09:44:49
フジモリは、曽野綾子の家にかくまわれいたと聞いたことがあります。
曽野綾子は、笹川良一の実の娘という噂も聞いたことがありますが、どうも本当のように私は思います。
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