ウディ・アレン(1935.12.1~)監督の最新作「レイニー・デイ・イン・ニューヨーク」(A Rainy Day in New York)が公開された。これは「いわく付き」の映画で、恐らくはウディ・アレンの最後の作品になると思う。アレン作品50本目だということだが、実は本国では未公開なのである。「#MeToo運動」でアレンの過去の養女虐待疑惑が再燃し、出演者に総スカン状態になってしまった。そしてコロナ禍がニューヨークを襲い、新作映画製作は出来ない。映画の出来は僕には不満で、書かなくてもいいんだけど、映画外の問題もあるので書き留めておこうと思った。

この映画のテーマは、「ニューヨーク」そのものなんだと思う。セントラルパークやMoMA(ニューヨーク近代美術館)、ホテルや街角をロケしながら、そこに若い男女を歩かせる。今回はティモシー・シャラメとエル・ファニングである。大学新聞の取材でマンハッタンに来たエル・ファニングは、憧れの映画監督にインタビューに行く。新作に納得できない芸術家肌の監督を追って、脚本家や世界的有名俳優に出会うことになる。でも、そこからは「セクハラ」になってしまう。
(ティモシー・シャラメとエル・ファニング)
悩める映画監督がいる。若き美女を見て、創作のミューズだと思い込む。女たらしの世界的人気俳優がいる。若い美女を見て、自分の家に連れ込む。それを肯定しているわけじゃなくて、風刺しているわけだけど、その展開のなめらかな面白さは主人公のエル・ファニングを惨めにするだけだ。「告発」するのではなく、風刺の対象にしている時点で、すでに時代の空気と離れていたのではないか。あるいは、ハリウッド映画で人気の若手俳優をキャスティングした時点で、単に観客動員を見込むという以上に、「若さ」に取り憑かれていると思う。
コメディアン時代から、ウディ・アレンは「取り憑かれた男」だった。脚本・出演した「ボギー!俺も男だ」(1972)の「ハンフリー・ボガートに取り憑かれた男」こそ、アレンの自己分析だろう。その後も、セックスに、名誉欲に、自己の夢に取り憑かれた男女を描き続けた。ただひたすら楽しい作品もあれば、自己とアメリカを鋭く分析した「純文学」的作品もある。21世紀になってからは「軽い映画」が多いが、スカーレット・ヨハンソン、ペネロペ・クルス、エマ・ストーンなどをキャスティングして、まるで「寅さん映画」のマドンナのごとき映画作りになっていた。
(馬車に乗る二人)
ティモシー・シャラメの役名が「ギャツビー・ウェルズ」であるように、基本的にはこの映画は「パロディ」なんだと思うけど、「映画界のセクハラ構造」を無防備に写し出してしまった感じが否めない。画面のほとんどが雨の降る暗いニューヨークで、その意味でも陰鬱なムードがある。もちろん楽しいシーンもあるし、ベースはコメディなんだろうけど、「笑うに笑えない」気持ちになってしまう。映画制作後、出演俳優がギャラを運動団体に寄付するケースが相次ぎ、アレン映画には出ないと宣言したりした。昔からヨーロッパの方が評価が高いので、若ければヨーロッパで作れるかもしれないが、年齢とコロナ禍を考えるとウディ・アレン最後の作品かなと思う。
70年代から80年代にかけての、「アニー・ホール」「インテリア」「マンハッタン」「ハンナとその姉妹」などの最高傑作を覚えているものとして、寂しいのは間違いない。「カメレオンマン」「カイロの紫のバラ」「ラジオデイズ」の無条件の面白さも忘れられない。最近の作品は今ひとつエネルギーに欠けていたのは年齢を見てもやむを得ないだろう。ニューヨークで撮り続け、ハリウッドでは作らなかった。しかし、アカデミー賞には脚本賞で計16回ノミネートされ、3回(「アニー・ホール」「ハンナとその姉妹」「ミッドナイト・イン・パリ」)受賞している。最高の脚本家だった。

この映画のテーマは、「ニューヨーク」そのものなんだと思う。セントラルパークやMoMA(ニューヨーク近代美術館)、ホテルや街角をロケしながら、そこに若い男女を歩かせる。今回はティモシー・シャラメとエル・ファニングである。大学新聞の取材でマンハッタンに来たエル・ファニングは、憧れの映画監督にインタビューに行く。新作に納得できない芸術家肌の監督を追って、脚本家や世界的有名俳優に出会うことになる。でも、そこからは「セクハラ」になってしまう。

悩める映画監督がいる。若き美女を見て、創作のミューズだと思い込む。女たらしの世界的人気俳優がいる。若い美女を見て、自分の家に連れ込む。それを肯定しているわけじゃなくて、風刺しているわけだけど、その展開のなめらかな面白さは主人公のエル・ファニングを惨めにするだけだ。「告発」するのではなく、風刺の対象にしている時点で、すでに時代の空気と離れていたのではないか。あるいは、ハリウッド映画で人気の若手俳優をキャスティングした時点で、単に観客動員を見込むという以上に、「若さ」に取り憑かれていると思う。
コメディアン時代から、ウディ・アレンは「取り憑かれた男」だった。脚本・出演した「ボギー!俺も男だ」(1972)の「ハンフリー・ボガートに取り憑かれた男」こそ、アレンの自己分析だろう。その後も、セックスに、名誉欲に、自己の夢に取り憑かれた男女を描き続けた。ただひたすら楽しい作品もあれば、自己とアメリカを鋭く分析した「純文学」的作品もある。21世紀になってからは「軽い映画」が多いが、スカーレット・ヨハンソン、ペネロペ・クルス、エマ・ストーンなどをキャスティングして、まるで「寅さん映画」のマドンナのごとき映画作りになっていた。

ティモシー・シャラメの役名が「ギャツビー・ウェルズ」であるように、基本的にはこの映画は「パロディ」なんだと思うけど、「映画界のセクハラ構造」を無防備に写し出してしまった感じが否めない。画面のほとんどが雨の降る暗いニューヨークで、その意味でも陰鬱なムードがある。もちろん楽しいシーンもあるし、ベースはコメディなんだろうけど、「笑うに笑えない」気持ちになってしまう。映画制作後、出演俳優がギャラを運動団体に寄付するケースが相次ぎ、アレン映画には出ないと宣言したりした。昔からヨーロッパの方が評価が高いので、若ければヨーロッパで作れるかもしれないが、年齢とコロナ禍を考えるとウディ・アレン最後の作品かなと思う。
70年代から80年代にかけての、「アニー・ホール」「インテリア」「マンハッタン」「ハンナとその姉妹」などの最高傑作を覚えているものとして、寂しいのは間違いない。「カメレオンマン」「カイロの紫のバラ」「ラジオデイズ」の無条件の面白さも忘れられない。最近の作品は今ひとつエネルギーに欠けていたのは年齢を見てもやむを得ないだろう。ニューヨークで撮り続け、ハリウッドでは作らなかった。しかし、アカデミー賞には脚本賞で計16回ノミネートされ、3回(「アニー・ホール」「ハンナとその姉妹」「ミッドナイト・イン・パリ」)受賞している。最高の脚本家だった。
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