尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

人権被害者としての教師-教員多忙問題②

2014年08月27日 21時27分53秒 |  〃 (教師論)
 「教員多忙問題」にはどのような弊害があるのだろうか
 教材研究がおろそかになる。雑務に追われて生徒との関わりが薄くなる。生徒の問題対応に時間を取られて、それ以外の生徒へ目が向かなくなる。朝から夜まで部活動に時間を取られて、教師の生活が成り立たなくなり新聞も読まないようになる。まあ、そういうようなことを次々と挙げられる。

 いちいちもっともで、確かにそういうケースは存在する。昔はきっと持ってたはずの知的な好奇心が摩耗してしまった教員も何人かは存在するし、そういう教師に教わる生徒は大変だろうなと同情する。(しかし、何事も「反面教師」なのであって、そういう教師の存在によってこそ自分が大きく成長できてきたとも思う。「生徒が大変」だというのは、生徒が教師のレベルに合わせて知的な好奇心を見せないようにするのが大変だと思うのである。)大きな教育問題がニュースになるような時に、外部の人から「学校現場では先生方はどう思っていますか」などと聞かれたことがあるが、「学校現場」でニュースをめぐって喧々諤々と議論をするゆとりと知的関心が今の学校にあると思っているのか、むしろそっちの方にビックリせざるを得なかった。そんなものはもうずいぶん昔の話だろう。

 いくら4%の教職加算があるとはいえ、それに当たる時間の何倍もの長時間労働をこなして、それに対する金銭的(あるいは時間的)補償がないというのは、「サービス残業」とか「ボランティア」などと言って済ませていい問題ではないだろう。はっきり言えば、教育現場の「ブラック企業化」であり、教師は被害者なのである。労働者としての権利を侵害されている当事者なのである。しかし、そう認識している教員はごく少数だろう。それはどうしてだろうか。

 ところで、「いじめ」問題は、ここ何十年かずっと教育現場で大きな問題となってきているが、「教師は学校内のいじめを解決できるのか」と問われることが多い。教師はプロの教育者として、「いじめの兆候を見つける」とか「いじめの当事者に介入して、いじめ行動を止める」という能力があるべきだと思われているらしい。しかし、教師ははたしてそんな能力を持っているのだろうか。あるいは、教育行政は教師の「いじめ解決力」を育てようと考えているのだろうか。

 なぜなら、「いじめ問題」を感知する能力というのは、要するに「人権センサーの感知度をアップする」ということだと思うが、教師の長時間労働はそのセンサーを鈍くする方向に働くからである。それどころか、教師の「人権センサー」能力がアップすれば、生徒のいじめの前に、まず「自分たちが人権侵害の当事者ではないか」ということに気づくはずである。今の学校現場は、教師は自分が「教育行政の使い走り」をさせられながら、いやそれは自分の考えでやっているんですと言ってる状況である。自分がいじめられている当事者という認識がない。生徒のいじめ事件でも似たような構図はよく見ることができる。強いものの意向に自ら寄り添っていて、弱い生徒の話を聞いてもいじめではないと否定するのである。今の教員の多くも、似たような状態にある。こういう教師に「いじめを感知する能力」を求めるのは、間違いであり酷でもある。社会の側で「ないものねだり」をしているのである。

 日本の教師は、労働者としても、また教育専門職としても、多くの権利を否定されている。日本が国際人権規約を批准するにあたって、日本政府はいくつかの項目で「留保」を付けている。その代表が「公務員のストライキ権」である。先進諸外国なら認められているスト権がないということは、国際的な人権問題なのである。(長く留保とされていた「中等教育の無償化」に関しては、民主党政権下で留保の撤回が通告された。(「経済的,社会的及び文化的権利に関する国際規約(社会権規約)第13条2(b)及び(c)の規定に係る留保の撤回(国連への通告)について」)

 またユネスコ(国連教育科学文化機関)による「教員の地位に関する勧告」をみると、日本の教員がいかに教育専門職としての尊厳を奪われて来ているかがよくわかる。たとえば、「教員免許更新制」もユネスコ勧告違反であると思われるし、授業で使う教科書を教師が選べない(あるいは選びにくい)現状もユネスコ勧告違反である。しかし、今は長時間労働を問題にしているので、労働時間に関するところを見てみたい。
労働時間
89 教員が一日あたり、および一週あたり労働することを要求される時間は、教員団体と協議して定められなければならない。
90 授業時間を決定するにあたっては、教員の労働負担に関係するつぎのようなすべての要因を考慮に入れなければならない。
(a) 教員が一日あたり、一週あたりに教えることを要求される生徒数
(b) 授業の十分な立案と準備ならびに評価のために要する時間
(c) 各日に教えるようにわりあてられる異なる科目の数
(d) 研究、正課活動、課外活動、監督任務および生徒のカウンセリングなどへ参加するために要する時間
(e) 教員が生徒の進歩について父母に報告し、相談することのできる時間をとることが望ましいということ
91 教員は現職教育の課程に参加するために必要な時間を与えられなければならない。
92 課外活動への参加が教員の過重負担となってはならず、また教員の本務の達成を妨げるものであってはならない
93 学級での授業に追加される特別な教育的責任を課せられる教員は、それに応じて通常の授業時間を短縮されなければならない

 これを読めば、日本の教員の長時間労働というのは、国際的な人権問題だということがよく判るのではないか。本来、授業準備も親への連絡も生徒のカウンセリングも課外活動への参加も、皆労働時間に中に入っていなければおかしいのである。これだけ自分たちの教育者としての権利を侵害されて来ていれば、教員としての誇りが失われ、「自信」が世界最低になるというのも当然だろう。

 これらの事態は、おそらく「教育政策の結果」である部分が大きいと思う。むろん、教育に関わる様々の利害関係者の要望が複雑に絡まり、いつの間にか誰にも止められない状況になっているというものもあると思う。部活動に関する問題などはそうかもしれない。しかし、教科書選定を現場教員から遠ざけるなどというのは、紛れもなく教育政策の目指してきたものである。つまり、日本の教育行政は、教師の尊厳を剥奪し、教師の「人権センサー」をなまらせる政策を続けてきた。教師の長時間労働という実態は、今までの教育行政の行き着いたものだと考えられる。となると、教師の側も事態をよく認識し、自己防衛策を取らないと、自分の生活を破壊されるだけでなく、自分の人権感覚が知らず知らずのうちにマヒしてしまうという恐るべき状態になる。防衛策の前に、この「長時間労働ボランティア」が日本の教育や社会全般に何をもたらしているかを考えてみたい。
コメント (1)
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