尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「暗殺の森」とベルトルッチの映画

2013年08月21日 23時50分19秒 |  〃 (世界の映画監督)
 キネカ大森で、ベルナルド・ベルトルッチ(1941~)の2本立て、9年ぶりの新作「孤独な天使たち」と「暗殺の森」。「暗殺の森」は、もう2回か3回見てるが、何度見ても素晴らしい。

 ベルトルッチは前作「ドリーマーズ」(2003)後は病気で映画が撮れなかった。(フランス五月革命を背景にしたその映画は、どの映画にもまして愚作だった。)9年ぶりの新作「孤独な天使たち」は、ニコロ・アンマニーティの新作小説の映画化。アンマニーティは10年位前に公開された映画「ぼくは怖くない」の原作者。人となじめない14歳の少年が、学校のスキー教室に行くふりをして、地下室の一室にもぐりこむ。そこには電気やベッドもあり、孤独な一週間を過ごす心づもりだったのに、突然異母姉がちん入してくる。彼女は薬物中毒の写真家で、二人の意図せざる一週間の同居を描く。映画はそこで終わるが、新聞に載った書評を読み直したら、小説の方は10年後の驚くべき再会があるらしい。大傑作ではないが、まあ面白い作品。

 ベルトルッチはイタリアの監督だが、パリで撮った「ラスト・タンゴ・イン・パリ」(1972)が大評判になり(「芸術ポルノ」としての評判とも言えたが)、「ラスト・エンペラー」(1987)でアカデミー賞受賞と世界で活躍してきた。しかし、世界的にヒットする映画は大体つまらないもので、多くの映画監督のおちいるワナにベルトリッチもはまり、以後は大した作品がない。結局、ボルヘスの映画化「暗殺のオペラ」から超大作「1900年」までの1970年代が、ベルトルッチの全盛期だと言える。

 中でも「暗殺の森」(1970)が最高傑作だろう。日本で1972年に公開された時はロードショーされず2番館の公開だった。(当時の外国映画は、上映期限未定のロードショーを行う1番館とロードショー公開後の映画を上映する2番館があった。2番館終了後が名画座になる。)そのような扱いを受けたが、一部で大評判となった。当時のベストテンでも日本初公開の監督ながら、16位に入っている。(ベスト3は「ラスト・ショー」「フェリーニのローマ」「死刑台のメロディ」で過大評価気味、10位以下に「ダーティハリー」「脱出」「暗殺の森」などが並んでいる。)僕は多分翌年になってどこかの名画座で見て、よく判らないながら、映像美と刺激的な主題に大きな興奮を覚えた。

 この映画は時間が入り組んでいるうえ、人物も複雑に絡み合っている。また当時のイタリア政治状況が判っていないと理解できない部分がある。一見すると難解な映画に見えるし、心理的、思想的に深読みしたければ、いくらでもできそうだ。簡単に言えば、少年時代のトラウマから「大勢順応主義者」となり、ファシスト政権の秘密警察で働くことになった青年(ジャン・ルイ・トランティニャン)が、新婚旅行を兼ねてパリを訪れ、反ファシズム運動の中心者である昔の恩師夫妻を暗殺する。それが主筋で、冒頭からその場面だが、その後昔の時間に戻る。時間順ではなく、モザイク状に様々なエピソードが羅列されるので、見る者が自分で再構成していく必要がある。

 一つ一つのシーンは凝った構図シンメトリカルなセット流麗なカメラワークで撮影されていて、イタリア未来派、表現主義、シュールレアリスム、あるいはそれらが底流で合流したと言えなくもないファシズム建築の「官能的魅惑」が画面に満ちている。紛れもなく「ファシスト青年の空疎な内面」を告発する反ファシズム映画なんだけど、同時に性や暴力をめぐるスリリングな思考実験でもあり、官能に満ちた映像美に浸る映画でもある。この映画の中には、70年当時に大きな意味を持っていたファシズム、狂気、同性愛、テロリズム、性的自由などの問題が散りばめられている。こういう「危険なアイテム」を満載して、しかもそれを思入れたっぷりの映像美と構図で描き出す。

 「盛り込み過ぎ」の趣向は大失敗に終わる場合も多いけど、この映画はテーマの問題性と映像美が密接に結びついて成功している。名場面は数多いが、パリで主人公と教授が夫婦4人で食事をして(中華料理店で箸でチャーハンを食べる)、その後ダンスホールへ行く場面が印象に残る。窓に赤い縁取りがある建物の中で、教授の妻(ドミニク・サンダ)の黒い服と主人公の妻(ステファニア・サンドレッリ)の白い服が交差しながら女同士で踊るシーンの美しさ。教授の妻は主人公と前に会っているようで、また両性愛らしく、主人公とも主人公の妻とも関係を持つ。彼女はバレエ教師でもあり、反ファシズム運動家の妻でもある。この複雑な役柄を、ドミニク・サンダが稀にみる官能的魅惑で演じていて、主人公夫妻と観客を虜にしてしまう。

 しかし、暗殺の実行時に彼女はいない予定だったのに、何故か教授と一緒にいて目撃者は抹殺ということになる。助命を懇願するが主人公は黙殺し、教授の妻は森を逃げ回り、ついに殺害される。このシーンも忘れがたい名シーンである。また、主人公が母親の家を訪ねて母の愛人の運転手を「始末」した後の枯葉を追って流れる映像、狂気になって精神病院にいる父親を訪ねるシーン、ムッソリーニ失脚後のローマを歩き回るシーン、新婚旅行でパリへ行く途中の列車のシーン(ダニエル・シュミットの「ラ・パロマ」を思い出させる)など、美しいと同時に心を震わせるような危うい精神性に満ちた映像。このように、美しくも危険な映画という感じが全篇に漂っているのである。

 主人公は「大勢順応主義者」(原題)として生きていくが、心の中は常に空疎で、殺人を何回か犯す(と思い込む)が罪の意識はない。その代り「真の愛情」も持てない。大事な場面では常に、卑怯、臆病、裏切りを選択してきた人生だ。それは「父の狂気」を恐れる潜在意識から来るのかもしれない。「父なき時代」に彼はムッソリーニという「父」を支持し、(自分の卒論を担当せずに亡命した)恩師を抹殺する。ムッソリーニがいなくなれば、またファシズムを平気で否認する。その順応性はどこから来たのか。一方、彼の女性関係には「母」と「娼婦」しかいないという理解もできる。心理的な背景と同時に、思想的な問題設定も見逃せない。彼が少年時代に殺してしまったと思い込んだ男は、実は生きていたらしい。ラストにそれが判明し、彼の半生の偽りはすべて覆るところで終わる。それはイタリア現代史の偽り(ファシズム体制)が覆るのと同時だった。

 原作はイタリア近代文学の巨匠、アルベルト・モラヴィアの「孤独な青年」(角川文庫で刊行された時の表題)。小説は映画と違って時制が入り組んでいるわけではない。「孤独な青年」がファシズム体制に同調し利用されていく様がリアリズムで描かれる。モラヴィアは若くして発表した「無関心な人びと」や、ゴダールが映画化した「軽蔑」で知られている。今簡単に読めるのはこの2作だけだと思うが、他にソフィア・ローレンがアカデミー賞主演女優賞を取った「二人の女」などがある。主要作品はかつて角川や早川で文庫化されていて、僕はほとんどを読んだ。原作を読めば、作品の構図は判りやすくなるだろう。若きベルトルッチは原作を換骨奪胎して、時間をバラバラにして、あえて判りにくくして、魅惑的な映像美学を披露した。それが才気というもので、判りにくいと思った人は何回か見直してほしい。映像美を堪能するとともに、人生の肝心要の時に「自分らしく生きる」ことの大切さを痛感するだろう。
コメント (1)
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