実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

東京オリンピックⅡ  実戦教師塾通信二百十五号

2013-09-11 14:37:09 | 戦後/昭和

 戦後-昭和 


          

    ~東京オリンピックⅡ~


 1 その頃


 前回の記事がすこぶる評判よく、調子こいて続編(ぞくへん)をやる気になってしまった。と言っても、競技内容についてはもうそんなにタネが残っているわけではない。あの頃への思い入れはなかなかひと通りではない、ということだ。
 冒頭(ぼうとう)のポスターを覚えている方もいると思うが、以前、野田秀樹プロデュースの舞台『egg』について書いた時に紹介(しょうかい)したものだ。当代きってのデザイナー亀倉雄策監修(かんしゅう)で、場所はもちろん国立競技場。真冬に3時間かけて、在日米軍の元陸上選手や、メルボルンオリンピックの出場選手を使ったものだ。
 オリンピック前年である1963年は、この先の激動を予告するかのように、いろいろあった。
12月は、「アメリカへの復讐(ふくしゅう)」をやってくれた力道山が、赤坂のキャバレーで暴力団に殺されている。鍛(きた)え抜かれた腹筋(ふっきん)は、短刀(ドス)で無惨(むざん)にずたずたになっていた。
11月。「こんな記念すべき日に悲しいニュースを伝えねばなりません」という朝のアナウンサーは、ケネディ大統領の暗殺を伝えた。太平洋を越えた海底ケーブルで、日米同時テレビ放映(ほうえい)が可能となった、その朝の出来事。朝の布団(ふとん)の中、半(なか)ば起き上がって聞いたラジオのニュース。
「死んじゃったの?」
と、私は、同じく台所で耳をすませる母の気配(けはい)を感じながら聞いた。ニュースの解説者(かいせつしゃ)が、
「暗殺というのは、死んでしまったことを指すのだ、と何度も思いました」
と言ったのを覚えている。
10月。モータースポーツの幕開けを象徴(しょうちょう)する、第一回日本グランプリが、鈴鹿サーキットで開催(かいさい)される。
       
この頃の鈴鹿のヘアピンカーブである。見て分かると思うが、まだ出来上がったばかりのコースと、周辺のエリア。観客が信じられないほど近くにいて、中にはフェンスによじ登っているものさえいる。まさに、黎明期(れいめいき)だった。
 そして同じく、交通スピード化を背負っていた新幹線。名前も「夢の超特急(ちょうとっきゅう)」と呼ばれた。前も書いたが、新幹線は1964年10月10日のオリンピック開会式のわずか9日前に開通。その二年前にようやくモデル線区での試運転が始まる。そのモデル線区の、埼玉・蕨(わらび)に運ばれる車両。荒川を渡ろうとしているその新幹線車両を運んでいるのは、携帯でも分かるだろうか。蒸気機関車D51なのだ! 
              

 前回報告した皇太子・美智子妃殿下(ひでんか)の成婚パレードに、フジテレビもぎりぎりで開局する。なによりテレビ塔として君臨(くんりん)する東京タワーは、その前年1958年の12月に営業開始だ。この頑強(がんきょう)な鉄塔(てっとう)を作った材料は、朝鮮戦争でスクラップと化したアメリカの戦車だということを知っているだろうか。
 巷(ちまた)の本屋には、雑誌(ざっし)「平凡パンチ」が創刊(そうかん)。オリンピックの年だ(4月)。ファッション/食い物/ヌードばかりでなく、政治も語ろう的な「硬軟(こうなん)両刀使い」雑誌は、今でこそポストや現代などのようなもので、まったく珍(めずら)しいものでなくなった。そんな時代の変遷(へんせん)のおかげで、このパンチも後(のち)、廃刊(はいかん)を余儀(よぎ)なくされた。しかし、当時の若者はこれを買いあさった。グラビアの交換などをしては、男同士で
「これ『使って』ねえだろうな」
などと言い合った。
 下の写真はそういう部類に入らないと思われる。「お世話になった」男はいるのだろうか。時代も少しあとのものだが、時代を画(かく)したものなので登場してもらう。秋山庄太郎の秘蔵っ子(ひぞっこ)モデル。ハニーレイヌである。このポスターだけはモノクロで非売品だった。カメラ屋の店頭を飾(かざ)ったこのポスターに集合、男は年齢(ねんれい)を問わず求めた。中には5万円を提示(ていじ)したものもいたらしい。この頃のサラリーマン一月の給料だ。それでも店主は
「売れません」
と断(ことわ)ったという。
            

 まとめよう。戦争が終わって、新たな時代のうごめきが、日本中で起こっていた。あるものは命を終え、あるものは生まれた。なにかが終わり、なにかが始まろうとしていた。

「そしてひとつが終わり、そしてひとつが生まれ、
夢の続き見せてくれる相手探すのさ」

と歌った、内山田ひろしとクールファィブの『そして神戸(こうべ)』のヒットは、この4年後である。


 2 「夢の続き」

 開会式と女子バレーの決勝の視聴率(しちょうりつ)は、テレビ開局以来の85%という驚異的(きょういてき)数字をはじき出した(計算法で80%というデータもある)。ソ連(現ロシア)選手のオーバーネットで「東洋の魔女」が勝利する瞬間、東京の電話がその瞬間ではあるが、すべて使われていなかったというデータが残されている。
       
 私たちの毎日の学校での話題は、選手(今でいうアスリート)のことでもちきりだった。例えば、100m障害走で5位に入賞した依田郁子(よだいくこ)のスタート前のことで、
「依田さぁ、あれでいいのかよ」
みたいに、ささやきあった。彼女はこめかみに梅干しをはりつけて現れ、スタートライン前では、とてもほめられたものではない「バク転」をやったのだ。メンタルな理由でやったことは分かっていたが、私たちは
「勝負の世界の厳(きび)しさ」
より、勝手に別なものを見ていた。だから、女子体操選手に関しても、チェコのベラ・チャスラフスカを初めとする、欧州(おうしゅう)選手の均整(きんせい)のとれた身体を見たあとで、日本の選手を見るもので、
「ドラム缶みてえだな」
などと、へらない口をたたいた。小野喬選手の奥さんの小野清子だけは別だったのだが。
 オリンピックが終わって変なことが続いた。その象徴(しょうちょう)と思えるのが、「東洋の魔女」の監督(かんとく)大松博文が、そのトレーニングの激しさと理念を説いた『俺についてこい』を出版(しゅっぱん)したこと。「スポ根」の始まりが告(つ)げられる。そしてこの大松は、このあとの参議院選挙に立候補して高得票で当選してしまう。スポーツ関係者が政治に首を突っ込むという前代未聞(ぜんだいみもん)の出来事。まぁこの時の選挙は異例(いれい)続きで、放送作家の青島幸男や、作家で坊さんの今東光なども当選、ということもあった。今思えば、
「そしてひとつが終わり、そしてひとつが生まれ、
夢の続き見せてくれる相手探すのさ」
だったのだろうか。

 願わくば、国立の聖火台、残って欲しい。


 ☆☆
ことのついでに。知っている人も多いと思いますが、ケネディ大統領暗殺の犯人として、事件直前から
「ケネディを殺す」
と言いふらしていたオズワルドが、あのあとすぐ逮捕(たいほ)されます。しかし、このオズワルドは警察から護送(ごそう)される時、ジャックルビーに殺されます。なんとルビーは、警察署内で両手をつかまれたオズワルドに近づき、拳銃(けんじゅう)で殺害するのです。ソ連(現ロシア)と平和路線を進めていたケネディに対し、南部テキサスのダラス市では、とてつもなく腹をたてていました。ダラス市内をケネディがパレードするという、それだけでも癇癪(かんしゃく)を起こしていたといいます。
「なんだと、そのパレードをオープンカーで、しかも自分は防弾(ぼうだん)チョッキも着ないでやるってのは、いい度胸(どきょう)だ」
と息巻いたといいます。パレードのコースは、直前になって、ビルに囲まれるような道路に変更(へんこう)になりました。いろんな説がありますが、単独犯(たんどくはん)というのはありません。

 ☆☆
ついでをもう一つ。ハニーレイヌのこのポスターは16歳当時のものです。この20年ほどあとのことだったと思います。このハニーレイヌが、
「その後、どうしてるか知ってるか?」
と、先輩(せんぱい)が教えてくれました。なんと、酒屋(居酒屋ではなく、酒を売る酒屋ですよ)のおかみさんだというのです。
「もう完璧(かんぺき)なおばさんでさ」
と報告してくれた先輩の顔もがっかりしたものを漂(ただよ)わせていました。もうお孫(まご)さんもいるのだなあと、しみじみ思います。

 ☆☆
メディアはオリンピックが東京に決定するや、おずおずと「福島への気遣(きづか)い」を見せ始めています。福島のみなさんが「東京は安全だ」なる侮辱(ぶじょく)的発言をどう受け止めたのか、直接聞いてきます。地元の議員さんは、
「オリンピックをきっかけに原発のことも進めばいいのですが」
と言っていましたが、それと「東京は安全だ」発言は別でしょう。
勝手に「夢の続き」はねえぞ。


東京オリンピック  実戦教師塾通信三百十四号

2013-09-08 16:23:20 | 戦後/昭和
 戦後-昭和

             
         1966年・横尾忠則のポスター『三島由紀夫』

     ~東京オリンピック~


 1 思いっきり『三丁目の夕日』(ただし原作の方)的


 朝のニュースはオリンピックの東京開催で持ち切りだった。その興奮(こうふん)ぶりに、私はたまらずテレビを切ってしまった。
 前回のブログを読んだ読者がおずおずと、あるいは恐る恐る(だと思えた)、
「オリンピックが嫌いですか」とか、
「東京でオリンピックがされるのはダメですか」
と私に聞く。いや、そうではない。誠実そうな入江君や、太田君の嬉しそうな顔を見て私は、良かったなと思えた。太田君泣いてたし。そんな彼らの晴れの舞台が東京で用意される。またレベルはW杯が上とは言うものの、サッカーの吉田や長友のプレーが居ながらにして(時差のないところで、という意味だ)見られる。そして、内村君のウルトラな演技が見られる。まあ彼らが7年後健在であることを前提にしてだが、それらがすべて一極集中で見られる、ということは信じ難いことなのだ。世界の強豪(きょうごう)がやってくる。
 テレビは消したけれども、私は1964年の映像が蘇って(よみがえって)来ることを禁じえなかった。
             
            写真は1964年当時の代々木体育館
 開会式は電気屋の友人の店先で見た。カラーだった! まだ試験放送のレベルで、その色は恐ろしく不鮮明(ふせんめい)だったが、澄みきった日本晴れの聖火台の階段182段を、当時大学生だったはずの、坂井君(と言っても私たちより年長だったわけだ)が一気に駆け上った。釣り竿(つりざお)のような棒の先に、ちょうちんのようにぶら下がっているたくさんのカメラが、その聖火台で世紀の瞬間をとらえようとしていた。
 ふたつのことを思い出す。この坂井君は広島出身である。当時、この日もだったか、彼が広島出身であることは繰り返し取り上げられた。それは「被爆国日本の復興」をクローズアップするかのように見えたことを覚えている。敗戦からまだ20年たっていなかった。
 もうひとつ、あまり知られていないことだ。ギリシアから送られてくるこの聖火が、香港(ホンコン)から沖縄に空輸(くうゆ)される時、台風のためその飛行機が破損(はそん)する。するとなんと、沖縄の定期便(ていきびん)にその聖火を乗せ変え、定期便の客は全員降ろされた、という話である。オリンピックが「一大事」だということを示していた。
 何度か言ったが、このオリンピックを逆上る5年前、皇太子と美智子妃殿下の結婚式で、テレビは前年の90万台を倍に伸ばして200万台となっていた。
            
          写真は成婚パレード。国会方面から四谷見附交差点
 そんなわけで、近隣(きんりん)の家々でもテレビが入っていた。もちろんテレビなど縁(えん)のない我が家なので、私や兄は隣の家でオリンピックを見ていた。でも、ある日、筋向かいの電気屋のおじさんが、
「これで良かったら、オリンピックの間だけでも使いなさい」
と、ボロボロのテレビを貸してくれた。電気屋と言っても、当時はスクラップ同然のモーターやラジオをなおして生計を立てるような家で、新品がガラスケースに並ぶような店ではない。ゴミのように電線や計器が路地(ろじ)まではみ出していた。そして作業場の奥では、その奥さん(おばさん)が、コロッケを揚げて近所に売りさばき、ダンナさんを助けていた。
 我が家でもオリンピック三昧(ざんまい)となった。
○水泳界のアメリカやカナダの美しい少女たち(と言っても年上だった)。
○スタジアム内の計測では「人類初の9秒台」を示していた、100m走でのヘイズ(アメリカ)。
○ローマのオリンピックに続き、マラソンはアベベビキラが優勝。前に書いたが、ローマは裸足(はだし)で走ったアベベの足に、オニヅカ(現アシックス)の靴がおさまるはずだった。しかし、土壇場(どたんば)でドイツのプーマにもっていかれる。
○悲しい悲しい、円谷幸吉(つぶらやこうきち)選手。写真は、国立に二位で入ってきた円谷。このあと後にいるイギリスのヒートリーに抜かれる。そしてこのあと、もっと悲しいことが円谷には続く。
       
○「体操日本」を世界中に示した日本の演技。初めて聞く「ウルトラC」。
○その時、けがを押して出場したキャプテン小野喬は、鉄棒競技で肩に痛み止めを注射して出場するも、着地で大きく崩れる。低い判定に小野が形相(ぎょうそう)を変えて審判席に詰め寄る。
○オランダのヘーシンクが、「柔道日本」の神永を破り、無差別級の金メダルに輝く。
○前も書いたが、町うち(近所と言える)の床屋さんの息子・岡野功が、柔道中量級で金メダルをとった。ちっちゃな町に金メダル。
○「東洋の魔女」が金メダル。決勝の相手はソ連(現ロシア)。この時のアタッカーが「ルイスカリ」だった。そう頭に刻(きざ)みこまれるぐらい、魔女を苦しめた。夜の試合だった。一年中で一番快適だったこの季節、開け放たれた窓から、長屋(ながや)のご近所(我が家もだ)の歓声がとどろいた。

 翌年(よくとし)、映画『東京オリンピック』が公開。試写会はさんざんで、関係者は口を揃(そろ)えて、
「これが記録映画か!」
「一体どういうつもりだ!」
と怒った。開会式では、入場する選手の靴が行進する様子をアップする。アベベの横顔を走っている間ずっとアップし続ける。閉会式は自衛隊のブラスバンドのかたわらで、指揮者(しきしゃ)よろしく傘(かさ)をタクトする選手、等々。
 しかし、巨匠(きょしょう)市川昆監督の名は、世界にこの映画が配給されてから響きわたる。世界中の観客が惜しみなく拍手(はくしゅ)を送り、スタンディングオベーションが絶えなかったという。なんと、カンヌ国際映画祭で受賞してしまった。私たちはこの映画を「学校行事」として見た気がする。多分この時はすでに、文部省推薦(すいせん)になっていたのだろう。
 あの数々の感動が再びやってくるのだろうか。


 2 またしても「箝口令(かんこうれい)」!?


              
        関係ないようですが、1964年に終わりを告げた『月光仮面』

 さんざんノスタルジーにひたっておいて今さらだが、気分は晴れない。まずこの間、招致委員会で話題にされたことを、メディアは福島に振っていない。福島県民のインタビューを受ける姿を、私たちは、少なくとも昨日までの時点で見ただろうか。
 大手メディアは、
「東京は安全だ」
「東京は福島から遠く離れている」(いずれも理事長竹田の発言)
なる「暴言」について、福島の「不愉快な思い」を伝えなかった。私は「安全」発言のあと、福島の仲間にすぐ尋ねた(たずねた)が、皆一様(みないちよう)に
「不愉快だ」
ということだった。当たり前だ。どうやら2011年の時のように「箝口令(かんこうれい)」が敷かれていたのかと思う。
「2020年までなんとかする」
とはどっかの首相発言だ。これを聞いて、ホントかよと思った人と、なんだ、やっぱりすぐには無理なんだと思った人に分かれたんではないだろうか。
「そんなに熱くなってどうしたんだ」
と、私をいさめた仲間もいた。
「結局、福島はここまで言われても、自分たちが前面にでないじゃないか」
「食えてるんだ、なんとかなってるんだよ」
と、私をいさめた。
 私は
「幸吉はもう走れません」
の遺書(いしょ)を最後に命を絶(た)った円谷選手が、福島出身だったということが、偶然(ぐうぜん)とは思えない。


 ☆☆
この記録映画『東京オリンピック』を、今繰り返しケーブルテレビの「日本映画チャンネル」でやってます。機会があったら見るといいですよ。

 ☆☆
ああ、ホントの日本人はどこにいるんだろう、と思ってしまったこの一週間でした。じゃ、オマエが思う日本人は、今どこにいるんだときかれたら、私は迷わず「ドナルドキーン」と「白鵬」をあげます。

 ☆☆
マー君、とうとう20連勝! やりましたね。
「田中投手と大谷投手の対決が注目されました」
の記者質問に、
「そうなの? 田中の20連勝を見に来たんじゃないのかい」
と、星野監督はざっくりと切ってしまいました。ルーキーといっしょにするんじゃないよ、という気迫が感じられました。見ましたか。

大飯原発Ⅱ  実戦教師塾通信三百十三号

2013-09-05 22:00:02 | ニュースの読み方
 海外メディアからの疑惑/告発

    ~オリンピック招致(しょうち)~


 1 田中委員長


 大飯原発活断層のニュースはあった、という指摘(してき)を受けた。それでホッとするわけにいかないのは同じことだ。「再稼働(さいかどう)の星」とも言える大飯は、拠点(きょてん)としての役割をまっとうすべく前進している。それでまた大飯原発のことを書くわけではない。3日に青森県東通原発の断層調査があった。そこで、
「これまで通り『活断層の疑いあり』の評価と変わることはない」
と語ったのは規制委員会の島崎邦彦委員長代理だ。田中委員長はどこに行っているのかと思ったら、ブエノスアイレスにいた。記者団の「汚染水問題」についての質問に答えているのだった。ニュースの報道では、
「最大限のことを全力でやっている」
という答だった。確かに一定程度は間違っていない。
 しかし、この招致委員会で論議(ろんぎ)されていることは、福島の事故の「正念場(しょうねんば)」と言っていいものと思えた。それを迂闊(うかつ)にも、そして、またしても事故直後のように、外国プレスから知らされている。


 2 間違ってる奴ら

 間違ってる奴らはたくさんいるが、とりあえずここ数日で目立ったのは日本招致(しょうち)委員会理事長の竹田とかいう奴だ。海外の記者団の質問に答えて、
「東京は安全だ」
と言ってる。歩きながら言ってるのと、正式な席上(日本向けの記者会見?)で、二回聞いたし、見てしまった。記者団は福島原発の汚染問題に言及(げんきゅう)した。それに対し、
「東京は安全だ」
とは奮(ふる)っていると思わないか。どこからどこまでは安全でないのか、そして、その危険なエリアにいるのはどんな人たちなのか聞きたかった! また「東京は安全だ」ったらどうなんだ? だったら何? 「確かに危険なところはありますよ、でもね」って言い方をしてるの分かってる?ってことだ。
 そして、今日の記者会見で、菅官房長官が言った、
「汚染水問題は、国をあげて取り組むから懸念(けねん)する必要はない」
という奴。こいつも度し難い(どしがたい)。どんな根拠(こんきょ)があって「懸念する必要なし」と言えるのだ? なるほど、国が介入するとこんなに違うものか、ということが、少なくとも今まであったとでもいうのか。それとも、これからは違うというのなら、その根拠を分かりやすくいうのが政治家の責任というものだが、それは言わなかった。言えないから言わない。
 汚染問題のおさらいをしよう。
7月22日 5月にすでに指摘(してき)されていた汚染水漏れをようやく東電は認める。
8月6日 経産省か安倍か忘れた。東電への「丸なげ」を認める。そして「これからは国/政府が一丸となって、汚染水対策に臨(のぞ)む。と発言。
9月3日 安倍は「今まで東電任(まか)せにしてきた汚染水対策を政府として真剣に取り組む。国費470億円を投入」を約束する。
9月4日 ブエノスアイレスに到着した日本招致委員は、記者会見。
そして、あの竹田某(なにがし)の
「東京は安全」
発言となる。
 こんな粗削り(あらけずり)なチェックだが、
「東電に丸なげしてきた。これからは政府が取り組む」
をこの一カ月の間だけで二回言ってる。そして、二回目にはあらたまって
「『今度こそ』取り組む」
とはもちろん言わなかった。
 腹立たしいこと限りないが、私たちが福島原発事故で学んだ、
「国を簡単に信じてはいけない。しかしあきらめてもいけない」
ことを忘れてはいけない。


 3 海外プレスから学ぶ

 確認済みの人も多いと思うが、海外記者のブエノスアイレスでの質問やコメントは、いちいちもっともで、耳が痛い。

〔ドイツ〕
東電は原発は制御下(せいぎょか)にあり、危険性はまったくないと説明してきた。東電は本当に事故から学んだのか。

〔アメリカ〕
東電任せにしないと安倍首相が言った二週間後に汚染水漏れ発覚が(はっかく)した。3日(9月)発表の470億の汚染対策費はすでに発表済みのものだ。オリンピック対策としか思えない。

〔韓国〕
安全宣言がIOCを意識したものだとすれば、日本は原発を安全に管理する能力も良心もない国だ。

〔フランス〕
情報を公開せず、疑惑(ぎわく)が浮上(ふじょう)すると全否定。ほとぼりがさめた頃、事実を認めるやり方は、日本人や日本のメディアの忘れやすい気質(きしつ)を利用している。

これは原発事故での会見ではない。IOCオリンピック招致委員会の記者会見の席上で出されたものだ、ということに私たちは驚きと恥(はじ)を感じないわけにはいかない。


 4 知らずにいること

 汚染水問題が浮上した時、韓国が日本食品の全面禁輸(ぜんめんきんゆ)を国内で提案したことを覚えているだろうか。まだある。日本に荷物を運んだ韓国船のバラスト水を、この8カ月間さかのぼってチェックするべきだ、という提案だ。バラスト水とは、自国(韓国)から日本に荷物を運び終えて軽くなった船が、バランスを保つために海水を船内に入れて重くする、その水のことだ。

 知らないといけない、そして忘れてはいけない。国は隠す(かくす)。
 例えば、あの福島第一原発の二号機だけ建屋(たてや)が無事である理由を、一体私たちのどれだけが知っているのだろう。
「一号機が爆発した時、二号機の壁に穴を開けたから」
だ。その穴が二号機建屋内に充満(じゅうまん)した水素を大気中に放出したのだ。私はこのことを『政府事故調査・検証委員会』の報告で初めて知った。買って読んだのだ。あの「フクシマフィフティーズ」の由来(ゆらい)もそれで知った。
 中には報道をつぶさに点検して知っている人もいるのだろう。しかし、そういうことではない。こういう大切でシビアな内容は、私たちの中で繰り返し思い起こされる必要がある。それが「事故から学ぶ」ということだ。そのための姿勢や報告が、どこで私たちに保障されていたのだろう。
「ちゃんとこういうこと(『事故調』)で政府は報告しているのだな」
などと、納得してはいけない。私たちは
「事故から学ぶ」ことで
「先に進む」
のではなかったのか。今の日本が言っている
「事故を乗り越えて」の方向は、
「事故から学んだ」
向こう側のことではない。一体、福島の原発の処理をどうするのか。さっぱり先が見えない状態であることを、私たちはこの数日のブエノスアイレスで、あらためて知らされたのだ。
「再稼働より汚染水だろ」
という金曜官邸前(かんていまえ)デモのプラカードは明瞭(めいりょう)に語っている。

 ほら来た。地下水が汚染されている、というニュースだ(今日午後8時20分)。シロウトが考えても分かる。地下から湧(わ)いてくる水が、汚染水と混ざったのは分かった。しかし同時に、汚染水が地面を標的(ひょうてき)にして、下にしみ込まないはずがない。海に漏れたという報告はあった。しかし、とうとう地下に到達したようだ。いや、そう認めざるを得ないところまで来た、と言うべきかも知れない。
 信じてはいけない。でも、あきらめてもいけない。


 ☆☆
いやあ、ブログの少しピッチが早いです。でも仕方ない。絶望的なことばかりで、うーむ…困った。この原発って奴、世界中で隠そう・守ろうってスクラム組んでますからねえ。先月、台湾の原発汚染水漏れ事件が報道されましたが、実は三年前からだったんですもんねえ。もう、希望はやっぱり、子どもを持った若いお母さんたちですね。この人たちがあきらめたら、もうおしまい。お父さんたちはって? 男って、う~ん…思いますねえ。

 ☆☆
天気がなんかヤですね。今日、中学校は体育祭予行練習の予定だったところが多い、と聞きます。どこも出来なかったみたいです。応援練習は、体育館はひとつのブロックしか出来ない。あるいは体育館を二つ三つに区切って練習したかな。でも、日を追って子どもたちの表情と動きが変わっていく。それが耳に入ってきます。
頑張れ~!

大飯原発  実戦教師塾通信三百十二号

2013-09-03 17:03:35 | ニュースの読み方
大飯(おおい)原発活断層パス?

    ~大丈夫か?規制委員会~


 1 経過


 熱帯夜の寝不足で、寝ぼけた目が覚める思いだった。

「大飯『活断層でない』」

とは、今日付けの東京新聞の見出しだ。記事はB6ノートの大きさほどで、まあそこそこと言えるのだが、トップ記事ではない。トップは埼玉・千葉での竜巻(たつまき)の記事。そして汚染水問題を公害問題として福島県民が東電を訴(うった)えるというものだった。こともあろうに、朝のNHKのニュースではまったく報道されなかったと思う。驚いたのは私だけだったのだろうか。
 7月末にこの断層問題の「見極(みきわ)めがされる」と報道された。8月中旬以降の議論が、
「(規制)委員会内で意見対立」とか、
「科学的な議論をせよ」
のような報道はされていたが、今日いきなり結論を出されたと思った方がよさそうだ。私たちは詳細(しょうさい)を知らない。大飯原発の活断層問題がどのように動いてきたのか、振り返っておく必要を感じた。
 今まで切り抜いてきた読売・朝日・東京・福島民報の記事で検証する。
 昨年10月23日、関西電力大飯原発の規制委員会調査団の初会合があった。この時、規制委員会は「原発の新規制基準」を発表している。覚えているだろうか。それまでの活断層の活動時期「13万年~12万年前以降」を、この新基準は「40万年前以降」に拡大する、というものである。倍以上の延伸(えんしん)である。
 またまた携帯では困難かと思うが、地図を見てもらおう。
            
 かの有名な「F6断層」は、拡大地図の方の青いラインである。関西電力(以下「関電」と表記)の当初想定した部分である。関電はそれを後で「F6断層を掘りあてた」と赤いラインの部分に訂正する。その断層を長さ70m、幅50m、深さ40mにわたって掘り下げて調査したものだ。この断層特定のため、関電は「試掘溝(しくつこう)」を掘ってきた(海に向かって三つあるオレンジの部分)。これがそもそもの「活断層の疑いあり」の発端(ほったん)となったものだ。それを関電は、調査が終わらないうちに埋めている。念のため確認するが、この試掘溝をもとに、
「きちんと掘り下げて調べないといけない」
としたのは規制委員会である。関電は、大飯原発建設の時に「当たり前のように」この作業をしていない。
 F6断層の訂正もあって、調査は困難と混乱を極めたらしい。それでも関電は「早く調査して欲しい」と、言ってみれば「強気の姿勢」で規制委員会に催促(さいそく)した(3月)。
 国内で唯一(ゆいいつ)再稼働(さいかどう)している大飯原発を、継続(けいぞく)出来るかどうかの判断は、言ってみれば、この断層問題をどうクリアするかという問題だった。断層問題をクリアしなければ、
「9月の定期検査さえもしない」
と、田中委員長は言っていた。
 6月の規制委員の話では「個人的感想」という限定付きでだが、
「大飯原発は新規制基準に適合する。決定的欠点ない」(更田委員)
と言っている。この原発新規制基準が7月8日に発足した。では、大飯のF6断層が「活断層ではない」とされたのは、活断層「40万年」が採用されてそうなったのかと思ったら、そうではなかった。今回のF6断層に関して、規制委員会は「これが動いたのは、12~13万年前より古い断層である」とした、のだ。分かるだろうか。もとの古い基準でもって「F6断層は動かない」としたのだ。つまり、断層問題に関しては、新基準を「保留」にし、採用していない。
 狐(きつね)につつまれる、とはこういうことを言うのではないだろうか。どうなっているのだ。読売新聞が言うように、
「科学的な議論をせよ」
と言っても、それが困難な状況となっている。まあ、読売の場合は、
「さっさと再稼働しろよ」
ということなのだが。


 2 じぇじぇ!

 ことは昨年12月の総選挙で自民党が圧勝で始まる。その翌日(よくじつ)、この当時はまだ首相でなかった自民党の安倍総裁は、さっそく
「『原発ゼロ』見直し」
を明言(めいげん)する。
 原子力規制委員会が発足(ほっそく)してからずっと、委員会は
「電力需給(じゅきゅう)とか、社会経済的なことにかかわらず、科学的、技術的見地(けんち)から規制を行う」
としてきた。これが徐々(じょじょ→「じぇじぇ!」ではない)に変わっている。3月下旬、規制委員会幹部は自民党の会合(かいごう)に呼ばれて
「原電に反論の機会を与えなさい」
と言われている。時を同じく、田中委員長が
「(基準違反だからと)例えばポンと二十基止めたら世の中どうなっちゃうのか」
と、驚きの発言をしている。そもそも規制委員会の設立理念(せつりつりねん)は、
「その時の政府や事業者から自由なもの」
だったのだ。しかし、やっぱりそうは行かないようだ。この規制委員会が、また政府の御用機関なる旧保安院のように成り下がるのだろうか、と思った方がいい。
 大飯のF6断層を早期(そうき)から「活断層だ」と見ていた東洋大学の渡辺満久教授は、断層の位置が調査の中で変わったことを取り上げ、
「つまり、じゃあF6断層以外のものは信頼性(しんらいせい)があるのか、ということにもなります」
「関電がきちんと調べていたのかどうか…他の原発でも…電力会社や国の審査のいいかげんさが、はっきりした」
と言っている。
 目を離せない。


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暑いですね。ったく。30度を切る日を、週刊天気予報では、8月31日からと予告していました。でも明日も予報は32度。エアコンやらねえぞ、クールジェルスカーフで頑張るぞ!です。
中学校の体育祭、もちろん応援団の活躍情報が入ってきます。わくわくですね~
頑張れえ~!

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昨日、朝のニュースの終わりに
「では皆さん、今日も一日お元気で」
と言うはずの阿部アナウンサーが、
「では今日はこれで失礼します」
という終わり方でした。おおいに違和感(いわかん)を持ったそのあと、阿部アナウンサーは、
「このあとがドキドキします」
と結んだのです。私はNHKの『あまちゃん』の始まりが、テレビを消す時間と決めているのですが、昨日は見てしまいました。
東日本大震災の、あの日の放映だったのですねえ。