実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

東京オリンピックⅡ  実戦教師塾通信二百十五号

2013-09-11 14:37:09 | 戦後/昭和

 戦後-昭和 


          

    ~東京オリンピックⅡ~


 1 その頃


 前回の記事がすこぶる評判よく、調子こいて続編(ぞくへん)をやる気になってしまった。と言っても、競技内容についてはもうそんなにタネが残っているわけではない。あの頃への思い入れはなかなかひと通りではない、ということだ。
 冒頭(ぼうとう)のポスターを覚えている方もいると思うが、以前、野田秀樹プロデュースの舞台『egg』について書いた時に紹介(しょうかい)したものだ。当代きってのデザイナー亀倉雄策監修(かんしゅう)で、場所はもちろん国立競技場。真冬に3時間かけて、在日米軍の元陸上選手や、メルボルンオリンピックの出場選手を使ったものだ。
 オリンピック前年である1963年は、この先の激動を予告するかのように、いろいろあった。
12月は、「アメリカへの復讐(ふくしゅう)」をやってくれた力道山が、赤坂のキャバレーで暴力団に殺されている。鍛(きた)え抜かれた腹筋(ふっきん)は、短刀(ドス)で無惨(むざん)にずたずたになっていた。
11月。「こんな記念すべき日に悲しいニュースを伝えねばなりません」という朝のアナウンサーは、ケネディ大統領の暗殺を伝えた。太平洋を越えた海底ケーブルで、日米同時テレビ放映(ほうえい)が可能となった、その朝の出来事。朝の布団(ふとん)の中、半(なか)ば起き上がって聞いたラジオのニュース。
「死んじゃったの?」
と、私は、同じく台所で耳をすませる母の気配(けはい)を感じながら聞いた。ニュースの解説者(かいせつしゃ)が、
「暗殺というのは、死んでしまったことを指すのだ、と何度も思いました」
と言ったのを覚えている。
10月。モータースポーツの幕開けを象徴(しょうちょう)する、第一回日本グランプリが、鈴鹿サーキットで開催(かいさい)される。
       
この頃の鈴鹿のヘアピンカーブである。見て分かると思うが、まだ出来上がったばかりのコースと、周辺のエリア。観客が信じられないほど近くにいて、中にはフェンスによじ登っているものさえいる。まさに、黎明期(れいめいき)だった。
 そして同じく、交通スピード化を背負っていた新幹線。名前も「夢の超特急(ちょうとっきゅう)」と呼ばれた。前も書いたが、新幹線は1964年10月10日のオリンピック開会式のわずか9日前に開通。その二年前にようやくモデル線区での試運転が始まる。そのモデル線区の、埼玉・蕨(わらび)に運ばれる車両。荒川を渡ろうとしているその新幹線車両を運んでいるのは、携帯でも分かるだろうか。蒸気機関車D51なのだ! 
              

 前回報告した皇太子・美智子妃殿下(ひでんか)の成婚パレードに、フジテレビもぎりぎりで開局する。なによりテレビ塔として君臨(くんりん)する東京タワーは、その前年1958年の12月に営業開始だ。この頑強(がんきょう)な鉄塔(てっとう)を作った材料は、朝鮮戦争でスクラップと化したアメリカの戦車だということを知っているだろうか。
 巷(ちまた)の本屋には、雑誌(ざっし)「平凡パンチ」が創刊(そうかん)。オリンピックの年だ(4月)。ファッション/食い物/ヌードばかりでなく、政治も語ろう的な「硬軟(こうなん)両刀使い」雑誌は、今でこそポストや現代などのようなもので、まったく珍(めずら)しいものでなくなった。そんな時代の変遷(へんせん)のおかげで、このパンチも後(のち)、廃刊(はいかん)を余儀(よぎ)なくされた。しかし、当時の若者はこれを買いあさった。グラビアの交換などをしては、男同士で
「これ『使って』ねえだろうな」
などと言い合った。
 下の写真はそういう部類に入らないと思われる。「お世話になった」男はいるのだろうか。時代も少しあとのものだが、時代を画(かく)したものなので登場してもらう。秋山庄太郎の秘蔵っ子(ひぞっこ)モデル。ハニーレイヌである。このポスターだけはモノクロで非売品だった。カメラ屋の店頭を飾(かざ)ったこのポスターに集合、男は年齢(ねんれい)を問わず求めた。中には5万円を提示(ていじ)したものもいたらしい。この頃のサラリーマン一月の給料だ。それでも店主は
「売れません」
と断(ことわ)ったという。
            

 まとめよう。戦争が終わって、新たな時代のうごめきが、日本中で起こっていた。あるものは命を終え、あるものは生まれた。なにかが終わり、なにかが始まろうとしていた。

「そしてひとつが終わり、そしてひとつが生まれ、
夢の続き見せてくれる相手探すのさ」

と歌った、内山田ひろしとクールファィブの『そして神戸(こうべ)』のヒットは、この4年後である。


 2 「夢の続き」

 開会式と女子バレーの決勝の視聴率(しちょうりつ)は、テレビ開局以来の85%という驚異的(きょういてき)数字をはじき出した(計算法で80%というデータもある)。ソ連(現ロシア)選手のオーバーネットで「東洋の魔女」が勝利する瞬間、東京の電話がその瞬間ではあるが、すべて使われていなかったというデータが残されている。
       
 私たちの毎日の学校での話題は、選手(今でいうアスリート)のことでもちきりだった。例えば、100m障害走で5位に入賞した依田郁子(よだいくこ)のスタート前のことで、
「依田さぁ、あれでいいのかよ」
みたいに、ささやきあった。彼女はこめかみに梅干しをはりつけて現れ、スタートライン前では、とてもほめられたものではない「バク転」をやったのだ。メンタルな理由でやったことは分かっていたが、私たちは
「勝負の世界の厳(きび)しさ」
より、勝手に別なものを見ていた。だから、女子体操選手に関しても、チェコのベラ・チャスラフスカを初めとする、欧州(おうしゅう)選手の均整(きんせい)のとれた身体を見たあとで、日本の選手を見るもので、
「ドラム缶みてえだな」
などと、へらない口をたたいた。小野喬選手の奥さんの小野清子だけは別だったのだが。
 オリンピックが終わって変なことが続いた。その象徴(しょうちょう)と思えるのが、「東洋の魔女」の監督(かんとく)大松博文が、そのトレーニングの激しさと理念を説いた『俺についてこい』を出版(しゅっぱん)したこと。「スポ根」の始まりが告(つ)げられる。そしてこの大松は、このあとの参議院選挙に立候補して高得票で当選してしまう。スポーツ関係者が政治に首を突っ込むという前代未聞(ぜんだいみもん)の出来事。まぁこの時の選挙は異例(いれい)続きで、放送作家の青島幸男や、作家で坊さんの今東光なども当選、ということもあった。今思えば、
「そしてひとつが終わり、そしてひとつが生まれ、
夢の続き見せてくれる相手探すのさ」
だったのだろうか。

 願わくば、国立の聖火台、残って欲しい。


 ☆☆
ことのついでに。知っている人も多いと思いますが、ケネディ大統領暗殺の犯人として、事件直前から
「ケネディを殺す」
と言いふらしていたオズワルドが、あのあとすぐ逮捕(たいほ)されます。しかし、このオズワルドは警察から護送(ごそう)される時、ジャックルビーに殺されます。なんとルビーは、警察署内で両手をつかまれたオズワルドに近づき、拳銃(けんじゅう)で殺害するのです。ソ連(現ロシア)と平和路線を進めていたケネディに対し、南部テキサスのダラス市では、とてつもなく腹をたてていました。ダラス市内をケネディがパレードするという、それだけでも癇癪(かんしゃく)を起こしていたといいます。
「なんだと、そのパレードをオープンカーで、しかも自分は防弾(ぼうだん)チョッキも着ないでやるってのは、いい度胸(どきょう)だ」
と息巻いたといいます。パレードのコースは、直前になって、ビルに囲まれるような道路に変更(へんこう)になりました。いろんな説がありますが、単独犯(たんどくはん)というのはありません。

 ☆☆
ついでをもう一つ。ハニーレイヌのこのポスターは16歳当時のものです。この20年ほどあとのことだったと思います。このハニーレイヌが、
「その後、どうしてるか知ってるか?」
と、先輩(せんぱい)が教えてくれました。なんと、酒屋(居酒屋ではなく、酒を売る酒屋ですよ)のおかみさんだというのです。
「もう完璧(かんぺき)なおばさんでさ」
と報告してくれた先輩の顔もがっかりしたものを漂(ただよ)わせていました。もうお孫(まご)さんもいるのだなあと、しみじみ思います。

 ☆☆
メディアはオリンピックが東京に決定するや、おずおずと「福島への気遣(きづか)い」を見せ始めています。福島のみなさんが「東京は安全だ」なる侮辱(ぶじょく)的発言をどう受け止めたのか、直接聞いてきます。地元の議員さんは、
「オリンピックをきっかけに原発のことも進めばいいのですが」
と言っていましたが、それと「東京は安全だ」発言は別でしょう。
勝手に「夢の続き」はねえぞ。