実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

東京オリンピック  実戦教師塾通信三百十四号

2013-09-08 16:23:20 | 戦後/昭和
 戦後-昭和

             
         1966年・横尾忠則のポスター『三島由紀夫』

     ~東京オリンピック~


 1 思いっきり『三丁目の夕日』(ただし原作の方)的


 朝のニュースはオリンピックの東京開催で持ち切りだった。その興奮(こうふん)ぶりに、私はたまらずテレビを切ってしまった。
 前回のブログを読んだ読者がおずおずと、あるいは恐る恐る(だと思えた)、
「オリンピックが嫌いですか」とか、
「東京でオリンピックがされるのはダメですか」
と私に聞く。いや、そうではない。誠実そうな入江君や、太田君の嬉しそうな顔を見て私は、良かったなと思えた。太田君泣いてたし。そんな彼らの晴れの舞台が東京で用意される。またレベルはW杯が上とは言うものの、サッカーの吉田や長友のプレーが居ながらにして(時差のないところで、という意味だ)見られる。そして、内村君のウルトラな演技が見られる。まあ彼らが7年後健在であることを前提にしてだが、それらがすべて一極集中で見られる、ということは信じ難いことなのだ。世界の強豪(きょうごう)がやってくる。
 テレビは消したけれども、私は1964年の映像が蘇って(よみがえって)来ることを禁じえなかった。
             
            写真は1964年当時の代々木体育館
 開会式は電気屋の友人の店先で見た。カラーだった! まだ試験放送のレベルで、その色は恐ろしく不鮮明(ふせんめい)だったが、澄みきった日本晴れの聖火台の階段182段を、当時大学生だったはずの、坂井君(と言っても私たちより年長だったわけだ)が一気に駆け上った。釣り竿(つりざお)のような棒の先に、ちょうちんのようにぶら下がっているたくさんのカメラが、その聖火台で世紀の瞬間をとらえようとしていた。
 ふたつのことを思い出す。この坂井君は広島出身である。当時、この日もだったか、彼が広島出身であることは繰り返し取り上げられた。それは「被爆国日本の復興」をクローズアップするかのように見えたことを覚えている。敗戦からまだ20年たっていなかった。
 もうひとつ、あまり知られていないことだ。ギリシアから送られてくるこの聖火が、香港(ホンコン)から沖縄に空輸(くうゆ)される時、台風のためその飛行機が破損(はそん)する。するとなんと、沖縄の定期便(ていきびん)にその聖火を乗せ変え、定期便の客は全員降ろされた、という話である。オリンピックが「一大事」だということを示していた。
 何度か言ったが、このオリンピックを逆上る5年前、皇太子と美智子妃殿下の結婚式で、テレビは前年の90万台を倍に伸ばして200万台となっていた。
            
          写真は成婚パレード。国会方面から四谷見附交差点
 そんなわけで、近隣(きんりん)の家々でもテレビが入っていた。もちろんテレビなど縁(えん)のない我が家なので、私や兄は隣の家でオリンピックを見ていた。でも、ある日、筋向かいの電気屋のおじさんが、
「これで良かったら、オリンピックの間だけでも使いなさい」
と、ボロボロのテレビを貸してくれた。電気屋と言っても、当時はスクラップ同然のモーターやラジオをなおして生計を立てるような家で、新品がガラスケースに並ぶような店ではない。ゴミのように電線や計器が路地(ろじ)まではみ出していた。そして作業場の奥では、その奥さん(おばさん)が、コロッケを揚げて近所に売りさばき、ダンナさんを助けていた。
 我が家でもオリンピック三昧(ざんまい)となった。
○水泳界のアメリカやカナダの美しい少女たち(と言っても年上だった)。
○スタジアム内の計測では「人類初の9秒台」を示していた、100m走でのヘイズ(アメリカ)。
○ローマのオリンピックに続き、マラソンはアベベビキラが優勝。前に書いたが、ローマは裸足(はだし)で走ったアベベの足に、オニヅカ(現アシックス)の靴がおさまるはずだった。しかし、土壇場(どたんば)でドイツのプーマにもっていかれる。
○悲しい悲しい、円谷幸吉(つぶらやこうきち)選手。写真は、国立に二位で入ってきた円谷。このあと後にいるイギリスのヒートリーに抜かれる。そしてこのあと、もっと悲しいことが円谷には続く。
       
○「体操日本」を世界中に示した日本の演技。初めて聞く「ウルトラC」。
○その時、けがを押して出場したキャプテン小野喬は、鉄棒競技で肩に痛み止めを注射して出場するも、着地で大きく崩れる。低い判定に小野が形相(ぎょうそう)を変えて審判席に詰め寄る。
○オランダのヘーシンクが、「柔道日本」の神永を破り、無差別級の金メダルに輝く。
○前も書いたが、町うち(近所と言える)の床屋さんの息子・岡野功が、柔道中量級で金メダルをとった。ちっちゃな町に金メダル。
○「東洋の魔女」が金メダル。決勝の相手はソ連(現ロシア)。この時のアタッカーが「ルイスカリ」だった。そう頭に刻(きざ)みこまれるぐらい、魔女を苦しめた。夜の試合だった。一年中で一番快適だったこの季節、開け放たれた窓から、長屋(ながや)のご近所(我が家もだ)の歓声がとどろいた。

 翌年(よくとし)、映画『東京オリンピック』が公開。試写会はさんざんで、関係者は口を揃(そろ)えて、
「これが記録映画か!」
「一体どういうつもりだ!」
と怒った。開会式では、入場する選手の靴が行進する様子をアップする。アベベの横顔を走っている間ずっとアップし続ける。閉会式は自衛隊のブラスバンドのかたわらで、指揮者(しきしゃ)よろしく傘(かさ)をタクトする選手、等々。
 しかし、巨匠(きょしょう)市川昆監督の名は、世界にこの映画が配給されてから響きわたる。世界中の観客が惜しみなく拍手(はくしゅ)を送り、スタンディングオベーションが絶えなかったという。なんと、カンヌ国際映画祭で受賞してしまった。私たちはこの映画を「学校行事」として見た気がする。多分この時はすでに、文部省推薦(すいせん)になっていたのだろう。
 あの数々の感動が再びやってくるのだろうか。


 2 またしても「箝口令(かんこうれい)」!?


              
        関係ないようですが、1964年に終わりを告げた『月光仮面』

 さんざんノスタルジーにひたっておいて今さらだが、気分は晴れない。まずこの間、招致委員会で話題にされたことを、メディアは福島に振っていない。福島県民のインタビューを受ける姿を、私たちは、少なくとも昨日までの時点で見ただろうか。
 大手メディアは、
「東京は安全だ」
「東京は福島から遠く離れている」(いずれも理事長竹田の発言)
なる「暴言」について、福島の「不愉快な思い」を伝えなかった。私は「安全」発言のあと、福島の仲間にすぐ尋ねた(たずねた)が、皆一様(みないちよう)に
「不愉快だ」
ということだった。当たり前だ。どうやら2011年の時のように「箝口令(かんこうれい)」が敷かれていたのかと思う。
「2020年までなんとかする」
とはどっかの首相発言だ。これを聞いて、ホントかよと思った人と、なんだ、やっぱりすぐには無理なんだと思った人に分かれたんではないだろうか。
「そんなに熱くなってどうしたんだ」
と、私をいさめた仲間もいた。
「結局、福島はここまで言われても、自分たちが前面にでないじゃないか」
「食えてるんだ、なんとかなってるんだよ」
と、私をいさめた。
 私は
「幸吉はもう走れません」
の遺書(いしょ)を最後に命を絶(た)った円谷選手が、福島出身だったということが、偶然(ぐうぜん)とは思えない。


 ☆☆
この記録映画『東京オリンピック』を、今繰り返しケーブルテレビの「日本映画チャンネル」でやってます。機会があったら見るといいですよ。

 ☆☆
ああ、ホントの日本人はどこにいるんだろう、と思ってしまったこの一週間でした。じゃ、オマエが思う日本人は、今どこにいるんだときかれたら、私は迷わず「ドナルドキーン」と「白鵬」をあげます。

 ☆☆
マー君、とうとう20連勝! やりましたね。
「田中投手と大谷投手の対決が注目されました」
の記者質問に、
「そうなの? 田中の20連勝を見に来たんじゃないのかい」
と、星野監督はざっくりと切ってしまいました。ルーキーといっしょにするんじゃないよ、という気迫が感じられました。見ましたか。