歳末 その3
忘年会 その2
1 干物屋再開へ
「東電からお金が降りるんだよ」
干物屋さんがそう言った。ダメもとで申請書を出してみたら、それが認可されたという。もういわきで干物を作っても、それが福島産だということで誰も買ってくれない、と抗議したのだ。補償金が認可されたのは
「ついこの間のことだよ」
12月上旬のニュースを覚えているだろうか。ブログでも触れたが、阪神淡路大震災の例をあげて、サービス業の損失の原因は原発に限らない、だから風評被害を補償しないと、東電はそれまで補償を拒んでいた。それが12月5日、賠償基準を見直すと発表したのだ。拒んでいた売上高の減少率3%を賠償することとなった。
「あきらめなくて良かったね」、私は言った。世の中そんなもんだ、が口癖の干物屋さんだが、実際はそうでもないところもあり、そこがいい。
しかし、そのお金は初期費用の一割にも満たない。残った数千万のお金は補助金として行政や銀行に申請する。その経過も書いてきたところだが、風向きが変わった。つまり、大手の銀行は焦げついてしまいそうな案件は、見向きもしないのだが、こういう時には地方の小さな銀行が力になるとは聞いていた。その通りだった。この29日の全国紙に記事が載っている。「福島の2信組資本注入」(読売)
窓口に相談に行ったらよ、まだ若い行員なんだけどさ、ちゃんと話を聞いてくれるんだよ。干物屋さんによると、その行員は、平地区には干物屋がない、会津にある「素材市場」といった需要もある、という認識だったという。本当は65歳を過ぎたら銀行は融資しないそうだ。干物屋さんは65歳だ。息子が跡をやる、というのが担保だ、そうなった。
今は暗闇に浮かぶ体育館のような干物工場は、道路側に傾くように崩れている。そこからまだ使える冷凍庫と冷蔵庫を運び出した。そして乾燥機を運び出したら、行政に解体を依頼するのだ。そのすぐそばに押さえてあるという土地は今度の津波にどう備えるのか、
「これから考えるよ」
干物屋さんの春が近いといい。
2 だからダメだっつーの
にわかに熱くなった私だった。
「原発がなくなって困る人だっているんだよ」
だからなんだ、ということだ。同席した人の半分くらいが同調することに私は興奮する。もう聞き飽きた「原発は怖くない」論がそれに続く。しかも、3号機が爆発した3月14日、いわきの空が北から真っ黒になって流れてくるのを見て怖くなって避難を始めた、という人までそう言う。
○自然被曝を自分たちは受けてきたのにびくともしない
○40年間、毎年4000円(一年分だ)を東電からもらってきた
○もう以前のレベルに近い
○誰が当時の数値を知っているというのだ
等々。
ここではすでに書いた項目なので、そのことは繰り返さないが、とりあえず「4000円なんて端金、40年間分、のしつけて返してやれ」とひとつ。そして「当時の数値」だが、それは発表されている。「広報いわき11月号」に放射線量の推移がグラフで載った。測定場所はいわき合同庁舎駐車場だ。3月13日が「0,09」のグラフは、ロケットが宇宙を目指すような角度をとり、15日に「23,72」を示す。そして21日が「6,00」となる(単位はマイクロシーベルト)。飯館村の「18」という数字に驚いた人々も多いと思う。しかし、それをはるかに上回る数値を当時のいわきの中心部で記録している。
ホントか、と干物屋さんも聞き返す。そんなことも知らないで安全だとか、原発も必要だとかいってんじゃないよ、と私は一気に返す。自分が言えるような立場かどうかと思う。でも言わないといけないとも思う。そして思う。
振り返る余裕すらなく、みんなある時は逃げ、ある時は佇むしかなかった。比喩でなく逃げる時に人をはねとばし、それすらあとで気がついて、今になって畏れ、悔いている。沿岸の人たちは数日間、わずかにラジオだけを頼りに情報を拾っていた。そのかすかな情報さえも、心ない「偽り」を幾重も羽織っていた。中には「誰か原発をどうにか出来るというのら、こっちが教えて欲しいくらいです」(12日の原子力安全・保安院記者会見)のような生々しい「真実」もあったが。
食物を確保し、寝る場所を見つけ、ガソリンを得るため並び、ということが当時の「生きる」ことだった。大切なことを見いだし、胸に刻みつけるという作業は困難を極めたはずだ。しかし、今から始めるしかない。
呑まない干物屋さんに、この日も湯本「ふじ滝」まで送ってもらう。来年はコトヨリさんどうするんだと聞く干物屋さんに、オレは話をすることしか出来ないけどね、と私は言う。少しは干物の宣伝もするけどさ、と。干物は作るけど、実際どうなるのかな、とやはり干物屋さんの話はいつもの場所に来る。
来年もよろしくね、そう言ってもらえてよかった。車を降りた私はそう思う。
☆☆
前も言いましたが、「紅白なんか見るもんか!」としてきた40年間です。でも、今年は気合入れて最初から最後までしっかり見さしてもらいます。松田聖子親子が『上を向いて歩こう』だったのには少しがっかりですが。
☆☆
ブログの読者のみなさん、ご愛読ありがとうございました。大変な年がやってきそうですが、少しでもいいものを目指し、少しでもいい方へと歩いていきましょう。
また来年もよろしくお願いします。
忘年会 その2
1 干物屋再開へ
「東電からお金が降りるんだよ」
干物屋さんがそう言った。ダメもとで申請書を出してみたら、それが認可されたという。もういわきで干物を作っても、それが福島産だということで誰も買ってくれない、と抗議したのだ。補償金が認可されたのは
「ついこの間のことだよ」
12月上旬のニュースを覚えているだろうか。ブログでも触れたが、阪神淡路大震災の例をあげて、サービス業の損失の原因は原発に限らない、だから風評被害を補償しないと、東電はそれまで補償を拒んでいた。それが12月5日、賠償基準を見直すと発表したのだ。拒んでいた売上高の減少率3%を賠償することとなった。
「あきらめなくて良かったね」、私は言った。世の中そんなもんだ、が口癖の干物屋さんだが、実際はそうでもないところもあり、そこがいい。
しかし、そのお金は初期費用の一割にも満たない。残った数千万のお金は補助金として行政や銀行に申請する。その経過も書いてきたところだが、風向きが変わった。つまり、大手の銀行は焦げついてしまいそうな案件は、見向きもしないのだが、こういう時には地方の小さな銀行が力になるとは聞いていた。その通りだった。この29日の全国紙に記事が載っている。「福島の2信組資本注入」(読売)
窓口に相談に行ったらよ、まだ若い行員なんだけどさ、ちゃんと話を聞いてくれるんだよ。干物屋さんによると、その行員は、平地区には干物屋がない、会津にある「素材市場」といった需要もある、という認識だったという。本当は65歳を過ぎたら銀行は融資しないそうだ。干物屋さんは65歳だ。息子が跡をやる、というのが担保だ、そうなった。
今は暗闇に浮かぶ体育館のような干物工場は、道路側に傾くように崩れている。そこからまだ使える冷凍庫と冷蔵庫を運び出した。そして乾燥機を運び出したら、行政に解体を依頼するのだ。そのすぐそばに押さえてあるという土地は今度の津波にどう備えるのか、
「これから考えるよ」
干物屋さんの春が近いといい。
2 だからダメだっつーの
にわかに熱くなった私だった。
「原発がなくなって困る人だっているんだよ」
だからなんだ、ということだ。同席した人の半分くらいが同調することに私は興奮する。もう聞き飽きた「原発は怖くない」論がそれに続く。しかも、3号機が爆発した3月14日、いわきの空が北から真っ黒になって流れてくるのを見て怖くなって避難を始めた、という人までそう言う。
○自然被曝を自分たちは受けてきたのにびくともしない
○40年間、毎年4000円(一年分だ)を東電からもらってきた
○もう以前のレベルに近い
○誰が当時の数値を知っているというのだ
等々。
ここではすでに書いた項目なので、そのことは繰り返さないが、とりあえず「4000円なんて端金、40年間分、のしつけて返してやれ」とひとつ。そして「当時の数値」だが、それは発表されている。「広報いわき11月号」に放射線量の推移がグラフで載った。測定場所はいわき合同庁舎駐車場だ。3月13日が「0,09」のグラフは、ロケットが宇宙を目指すような角度をとり、15日に「23,72」を示す。そして21日が「6,00」となる(単位はマイクロシーベルト)。飯館村の「18」という数字に驚いた人々も多いと思う。しかし、それをはるかに上回る数値を当時のいわきの中心部で記録している。
ホントか、と干物屋さんも聞き返す。そんなことも知らないで安全だとか、原発も必要だとかいってんじゃないよ、と私は一気に返す。自分が言えるような立場かどうかと思う。でも言わないといけないとも思う。そして思う。
振り返る余裕すらなく、みんなある時は逃げ、ある時は佇むしかなかった。比喩でなく逃げる時に人をはねとばし、それすらあとで気がついて、今になって畏れ、悔いている。沿岸の人たちは数日間、わずかにラジオだけを頼りに情報を拾っていた。そのかすかな情報さえも、心ない「偽り」を幾重も羽織っていた。中には「誰か原発をどうにか出来るというのら、こっちが教えて欲しいくらいです」(12日の原子力安全・保安院記者会見)のような生々しい「真実」もあったが。
食物を確保し、寝る場所を見つけ、ガソリンを得るため並び、ということが当時の「生きる」ことだった。大切なことを見いだし、胸に刻みつけるという作業は困難を極めたはずだ。しかし、今から始めるしかない。
呑まない干物屋さんに、この日も湯本「ふじ滝」まで送ってもらう。来年はコトヨリさんどうするんだと聞く干物屋さんに、オレは話をすることしか出来ないけどね、と私は言う。少しは干物の宣伝もするけどさ、と。干物は作るけど、実際どうなるのかな、とやはり干物屋さんの話はいつもの場所に来る。
来年もよろしくね、そう言ってもらえてよかった。車を降りた私はそう思う。
☆☆
前も言いましたが、「紅白なんか見るもんか!」としてきた40年間です。でも、今年は気合入れて最初から最後までしっかり見さしてもらいます。松田聖子親子が『上を向いて歩こう』だったのには少しがっかりですが。
☆☆
ブログの読者のみなさん、ご愛読ありがとうございました。大変な年がやってきそうですが、少しでもいいものを目指し、少しでもいい方へと歩いていきましょう。
また来年もよろしくお願いします。
私は買いますょ
私は買いますょ
まして不定業はいうまでもない。
繰り返す
業に二つあり一には定業二には不定業、
定業すら能く能く懺悔すれば必ず消滅す
何に況や不定業をや(可延定業書)