実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

続・民主革命  実戦教師塾通信五百五十九号

2017-08-04 11:26:58 | 戦後/昭和
 続・民主革命
     ~(続)父と母の歩んだ道~
      (後)「朝鮮戦争」


 ☆初めに☆
「戦後の克服」なる言葉で、太平洋戦争の実像を変え、平和憲法を「押しつけられた」としているのが、いまの首相です。このように、歴史上都合の悪いことを回避し、都合のいい部分を拡大する傾向を「歴史修正主義」と呼びます。実は、この傾向は保守派に留まりません。「日本共産党」のことを語らないといけない。
 ☆ ☆
このブログの読者には「どうしてそんなことをそんなに」という違和感があるかも知れません。でも私には看過(かんか)できない出来事なのです。

 1 朝鮮戦争
 第二次大戦後、朝鮮半島は北側がソ連(現ロシア)、南側をアメリカが占領。常に小競り合いを欠かさなかったこの「国境」を、大きく変えたのは北朝鮮だった。地図で国境の変化を見てみよう(高校の参考書です)。

上段左側の地図が示す通り、1950年8月は、釜山を残して北朝鮮が韓国を追い詰めている。これに対し「国連軍」が派遣され、国境を北上。すると、北朝鮮の援軍が登場する。それは前年に建国を承認された、中華人民共和国だった。
 1953年まで続く、この国境線の攻防が朝鮮戦争である。結局この戦争は「終戦」にいたらず、結ばれたのが「休戦」協定だったことは、このところ毎日のように流れているニュースで、私たちは知っているわけである。
 この戦争で、日本が特需景気に沸(わ)いたのは周知であるが、あまり知られていないことがある。この戦争に日本の軍人(退役軍人ということになる)が参戦している。死者もだしている。
「戦後、日本はどこにも参戦せず、誰も殺さず殺されてもいない」
というのは違っているようだ。

 2 平和革命から武装闘争へ
 日本共産党が占領軍を「解放軍」として歓迎した。その後、米大統領トルーマンは、日本を「共産主義の防壁」と位置づける。日本の民主化は、道半ばということになる。ここまでは前回に書いた。
 同じ時期、日本共産党は、世界の共産主義運動(「第三インターナショナル」のこと)から批判を浴びる。
「占領軍を解放軍とは一体何を考えとるんだ。正気の沙汰ではない」
ぐらい言われる。
 おさらいしよう。
①ソ連や中国を倒す上で、アメリカの優先するものは、帝国日本を打
倒=民主化することではなくなった。
②日本共産党は、ソ連を筆頭とした共産勢力から批判を浴びた。
 以上の理由で、共産党はコロリと変わる。平和革命をしまい込んで、いわゆる「50年(1950年)綱領」を提示。「武闘路線」が復活する。1952年に連続した、皇居前でのメーデー事件/大阪の吹田事件/名古屋の大須事件、そして、北海道の白鳥事件がそうだ。
 この1950年と1952年を結ぶものに、読者はお気づきだろうか。「武闘」はもちろん共産党の正式決定だが、この時、
「北朝鮮の戦いを支援しなさい」
という指示が、世界の共産勢力から日本共産党に出されたのだ。
 ソ連が日本共産党に調達したのはお金、そして武器と言っても拳銃/小銃である。しかし前回書いたように、日本はこの時、軍隊はもちろん、公安警察も解体されていた。朝鮮戦争が始まって、ようやく自衛隊の前身「警察予備隊」が発足する。そんな背景ゆえに、幼稚な武装でもなんとかなると思ったのかもしれない。
 信じられないことだが、これらは共産党史に残されていない。
「一部の左翼冒険主義者が過(あやま)ちを犯した」
と、たった一行記されているだけだ。文書は残っていても、外に出さない。そして、外に出ている著名な文書でも、復活しないよう力がかかっていることに、私は怒りを禁じ得ない。これはもう、立派な歴史修正主義だ。
 今の共産党が、北朝鮮を支持しているわけではないし、もちろん武闘を訴えているわけではない。しかし、歴史を清算することで未来のあるはずがないのだ。
 どうしてそんなにオマエは向きになるのだと言われても、私は引き下がらない。これは私の父の、いや、我が家の歴史だからだ。そんな我が家の歴史を、讃(たた)えようとも思うし非難しようとも思う。しかし、こういう体たらくでは、志半ばで亡くなった父も浮かばれまいという、そちらの気持ちがふつふつと沸き起こる。

 3 父の当選
 学生時代、私はこの「武闘」時代のことを、母に何度か確認した。何度聞いても、
 「違うわよ。武装を言ったのは一部の人じゃない。党の正式決定よ」
と、母は言うのだった。そして、
「もうあんなことは沢山よ。共産党が武装闘争路線をやめると言ったとき(1955年)は、どんなに安心したことか」
と続けるのだった。
 トラクターと軽機関銃を作っていた会社を、父は1948年にやめている。というより、この年、会社は解散となった。その前年、父は入党している。意外に遅かったようだ。
 そしてその後、驚くことがある。父は1951年、茨城県竜ヶ崎町の議員に立候補、当選している。しかし、まさにこの時、共産党は武装闘争路線の真っ只中にあったのだ。

これは、町会議員の当落を伝える当時の選挙公報。居並ぶ「無(無所属)」や「自(自民党)」のなかに、たったひとり「共(共産党)」の字。父の名前の上に置いたのは、この時の議員バッジ。私は今でも肌身離さず持っている。
 一体、どのような時代だったのだろう。そして、父と母はどのように生きたのだろう。私には、ようやく見えてきている気がする。


 ☆後記☆
今回の記事、生々しいというか、生臭いとさえ思った読者もいるかな。そしてずいぶん、しり切れとんぼになってしまいました。でも、終戦の日や2,26やらと、こうして両親を思い起こし、資料をあさっています。きっと喜んでくれているんではないか、と思っています。
また次の機会に続きを書きます。父の若かりし頃の「中国紀行」、書きたいと思っています。どうぞごひいきのほど、よろしくお願いします。

 ☆ ☆
明日は、手賀沼花火大会です。天気もなんとか持ちそうで、夜空の華を見上げてきます。次回のブログで、素敵なショットが紹介できると思います。

最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (泥子(小出一彦))
2017-08-22 12:49:12
1951年生まれの私ですから、まさにその頃のお話しですね。
ずっと社会党系で居ました私ですけど、共産党も事実は事実として総括しなければ信用されないかもしれませんね。
貴重なお話し、勉強になります。
返信する
満州 (琴寄)
2017-08-23 13:35:45
若い時の父親が、満州に行った時の写真を、いま探してもらってます。来年にはレポート出来ると思います。
返信する

コメントを投稿