実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

光格天皇 実戦教師塾通信六百五十一号

2019-05-10 11:44:43 | 思想/哲学
 光格天皇
     ~幕末との不思議な符合(ふごう)~


 ☆初めに☆
前回の後記の部分に、多くの方が興味を持ってくれたようです。アナタは天皇を支持するのか、はっきりしなさいという人たち。人民を支配する道具として天皇が機能してきたのをどう思うのか、とまあ石器時代的な意見です。反対に、オマエは結局「反日」じゃないのかという、今日びネトウヨ的かんぐりもいただいて恐れ入っております。
また、かくも人々の心に影響を与えた天皇について、もう少し展開して欲しいという人たちもいました。
 ☆☆
天皇個人の問題と天皇制は違うという前提ですが、今回は天皇制まで言及はしません。日本の民衆と歴史がたどった出来事から、今回の生前退位や私たちの持っている思いを検証してみたいと思います。
 ☆☆
この記事、大体出来上がっていたのですが、今週水曜のBSプレミアム「英雄たちの選択」に先を越されてしまいました。前半部分は、番組と重複する部分が多くなりました。ただし「千度参り」については、昨年夏にレポートしたと思います。

 1 前例のない行動
 生前退位の話題に伴い、私たちは何度か光格天皇の名前を耳にした。生前退位は幕末の光格天皇以来だった。

維新の百年前、この天皇はそれまで微力だった朝廷の力を大きくした。様々な要因があって朝廷は力をつけたが、そのひとつ「自然災害」が顕著(けんちょ)だった。天明の大飢饉(ききん)の後、幕府や藩のとった対策は農民からのさらなる取り立てだった。そのため日本中で餓死(がし)を中心とする、おびただしい数の犠牲者が相次いだ。
 京都御所の周りを数人の老人が回ったのは天明七(1787)年6月の始めだったという。しかし、その三日後には一万人(10日後には七万人という記録が残っている)の人々が集まり、御所にお願いをし南門の柵内に賽銭(さいせん)を投じる。幕府に訴えてもだめだと思った人々が向かったのは、御所だったのだ。当時の日本の人口が2500万人だったことから考えると、とんでもない数である。三カ月にわたって続いたこの御所参りは、お伊勢参りに重ねて「御所千度参り」と呼ばれた。
 これに前後して、全国で米騒動や一揆(いっき)が起こっている。幕府のお膝元・江戸でも大規模な打ち壊しが起こったことに、幕府の関係者は動揺を隠せなかったという。
 御所を訪れた人々に対し、公家(くげ)勢力はそっけなくするどころか、飲み水を供し果物を配る等の対応をした。そして遠方の伊勢や尾張、あるいは近江から御参りに来る人々の足を洗い、冷をとることが出来るように(夏の出来事である)、御所周囲のお掘りをさらい、水をたたえた。
 そして極めつけは、幕府に「この事態をどうにか出来ないのか」と、天皇(光格天皇である)が進言したことである。まさに、天皇が政治に介入する、幕府にもの申すという前代未聞の事件が起こる。もちろん極めて遠慮がちな物言いだったのだが、幕府はこの提言を受けて備蓄米を放出するのである。
 言うまでもないが、天皇の歴史は国を全面統治するところから始まる。それが豪族、そして大名の台頭で影が薄くなり、江戸時代のこの時、天皇の権威は形だけのものだった。それを光格天皇が覆(くつがえ)すのである。

 2 愛される天皇
 この後はご存じのように、「公武合体」か「尊皇攘夷」かと天下は二分(本当は二つではないが)する。いずれにせよ天皇の存在は、すでに政変に不可欠なものとなっていた。その朝廷(公家勢力)もまた分裂し、維新までの激動の時代に突入する。

 さて、読者もお気づきと思うが、この前段までのくだりは、東日本大震災と奇妙なまでの一致を見ている。平成の明仁天皇の東日本大震災における、そしてそれ以降の発言や行動を私たちはまだ鮮明に覚えている。
 震災直後の3月16日(第一原発の2号機が爆発した翌日である)、被災者を励まし原発事故を憂うメッセージに、それは始まったと思える。こんな緊急時に場違いな、と思う人たちも多かったようだ。しかし、この時天皇は「緊急時にはただちに放送を切り換えて欲しい」と願い出ていた。私にはそっちの方が驚きだった。そうしてあの、被災者に「膝まづく」慰問(いもん)が始まる。それを見た同伴の閣僚たちが動揺する姿は、テレビを通してはっきり伝わった。そして、この時の政権に対する民衆の不信感は決定的となる。人々は民主党に「無能」のレッテルを貼ったのである。まぁ、実際そうだったのだが。
 明仁天皇の様々な行動に、歴代政権はある時は驚き、ある時はおびえさえした。少し思い出しておこう。
 革命後の中国に訪問可能だった天皇は、当然だが今まで二人。その一人、明仁天皇が訪中した(1992年)時、
「我が国が中国国民に対し多大の苦難を与えた不幸な一時期がありました。これは私の深く悲しみとするところであります。戦争が終わった時………このような戦争を再び繰り返してはならないとの深い反省にたち」
と言ってしまう。これは天皇が、必ずしも政府外交の片棒を担(かつ)ぐものでもないらしい、という私たちの体験だったと思える。案の定、今も中国は明仁天皇に対しては肯定的評価をしている。
 同じく明仁天皇は、2015年の戦没者追悼記念式典において、
「………ここに過去を顧み、さきの大戦に対する深い反省と共に、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願い………」
と表明する。これが重要なのは、この前日、安倍総理が戦後70年談話の中で、
「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」
と「力強く」言った翌日の発言だったからだ。官邸周辺に不愉快な空気が流れたことは、はっきりしていた。
 そして極めつけは、今回の「生前退位」の希望表明である。明らかに憲法を揺るがすこの事件に対し、左右を問わず論壇から批判がされたが、国民のほとんどは好意的だった。天皇への圧倒的支持は、民主党政権の時がそうだったように、今の政権への不信と不満が結果しているとも言える。この点に限っては、幕末の天皇と一致を見るのである。

 実に興味ある展開だった。



 ☆後記☆
令和初日の産経新聞で、櫻井よしこがトップにコラムを書いてました。「十七条憲法から引き継ぐ日本の誇り」みたいな流れです。「我れ(天皇政府)必ずしも聖に非(あら)ず」という、実に相対的くだりを持つ十七条憲法のどこが「絶対」なのかと、舌打ちをした私でありました。
     
     すっかり新緑となった柏ふるさと公園です。
 ☆☆
大谷クンやりましたね! 二安打。少しじらされましたが、伝えられて来る本人のコメントが素敵です。特に復帰一日目で無安打に終わったあとのコメントに感心しました。参考になるなあと、プリントアウトしました。
そして、白鵬は残念ながら休場です。無理をして形を保っても仕方ない。それは多くの横綱が示しています。「オリンピックまで現役」という目標を、ぜひかなえてほしいですね。

     突然ですが、海中公園。鵜原理想郷からの眺めです。

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