実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

野田秀樹『egg』補記 実戦教師塾通信二百九号

2012-09-18 14:56:01 | 武道
 「生業」と「客の好み」



 「剣は心なり」ではない


 舞台『egg』の感想は次にゆずる。頭にひっかかっていることから書くとする。それで今回は「補記」となる。
 終演後、私たちはまた主役のひとりと楽屋で長い時間話す幸いな機会を得た。演劇の内容がいつもすぐにつかめないため、取り留めなく様々な話題をあちこちするのだが、またしても「いい役者」の話となった。どういじってみても、結局「客の好み」の問題として収斂してしまうかのようなこのテーマの回路はどこかでなにかを回避している、そんな気がした。
 「強いお相撲さん」と「いいお相撲さん」とは違う。朝青龍は強い横綱だったが「勝つことがすべて」のお相撲さんだった。相撲は「神事」「芸能」「武道」、みっつの営みを指している。「神が降り立つ場所」としての土俵だ、「神聖で汚してはいけない場所」だとは前にも書いたが、それらを学び、身につけたものが「いいお相撲さん」と言える。朝青龍は「悪役」として土俵を盛り上げたが、「いいお相撲さん」と評されたことはない。ここで『遠野物語』(柳田國男)の一節から、

村の馬頭観音の像を近所の子供たちがもちだし、投げたり転ばしたり、またがったりして遊んでいた。それを別当(坊さん)がとがめると、すぐにその晩から別当は病気になった。巫女に聞いてみると、せっかく観音さまが子供たちと面白く遊んでいるのに、お節介したから気に障ったのだという。そこで詫び言をしてやっと病気がよくなった。

神の鎮座する神輿に乗ることを許されるのは処女だけだ、という謂われと同じく、神は子どもたちの悪ふざけとともにある、という話と思っていい。無邪気な子どものようだ、と朝青龍を評したむきもあるが、注連縄(しめなわ)を張り、紙垂(しで)を下げた「土俵上の神」横綱を、神様がどう思ったか、についてはまだ興味の尽きないところだ。
さて、演劇ももとを辿れば田楽・猿楽・お神楽、また能・狂言、そして近世の歌舞伎に連なる。その流れの源は、やはり「神事」である。自然をたたえ魂を鎮める。と、そこまで考えたが話の方向がまずくなると思えた。「神聖なつとめ」であることと、そのつとめをどのようになしきるのか、ということとは別なことだからだ。武道で言えば分かりやすい。武道のみっつの柱「心」「技」「体」の一つ目、「心」があってこその武道だ、とよく言う。

「剣は心なり、心正しからざらば剣も正しからず、剣を学ばんものは心を学べ」(『大菩薩峠』より)
はっきり言うが、これは間違いだ。技と身体を磨き鍛練することで、相手や周辺との距離や気や流れを読むことが出来るようになる。これが武道で言う「心」だ。死を前にしてなお揺るぎない気と鎮まる気、それを「心」と呼ぶだけだ。戦乱が収まり平和な世の中になって、刀を使う機会は激減した。それで主君に仕える気持ちがどうでこうでだの、「武士はただ死ぬこととみつけたり」と、いい加減で出来合いの「武士道」が幅を利かせ、生まれたものが、後に出る。これはもとより「武道」でなく「武士道」だった。この「武士道」いうところの「心」であり、「剣は心なり」だ。こんな説教染みた道徳讃歌の「サラリーマン武士道」に武の道はない。
「なにごとも切る縁と思ふこと肝要なり」(『五輪書』)
と書き遺した武蔵が浮かばれまい。
演技とはなにかという問題と、演技をよくつとめる、とは別なことをはらんでいる。それがどんなことなのかをもっと考えたいと思ったのだった。


選ぶ、または勝負する

以前「子どもを好きな先生を『いい先生』というのです」と書いたところ、ずいぶんあちこちから反響をいただいた。端的でわかりやすいというものだ。しかし、これは「子どものためを思う」スタンスがまやかしである、という点においてわかりやすいだけだ。ここには困った問題があるからだ。子どもを全員好きになれるわけではないという問題だ。ひとりにしておいて欲しい、ひとりがいい、という子どももいる。こういう子には「必要な距離」というものがあり、こちらとしてはその距離感を好きということも出来るので、問題ない。問題はあちらがこちらを毛嫌いしていて、こっちもこいつは勘弁してくれ、みたいな場合だ。こんな時の「どんな子どもも分け隔てなく付き合えるのが教師というものだ」という間抜けでバカなご託宣は、未だに学校でまかり通っている。笑ってるお面でも被ってろよ。
こういうバカは放っといて、そんな時私たちは「勘弁して欲しい」子どもに確認する。「どうして」? それを繰り返す。そして詰問したり怒ったりする。違和感から始まるその作業は相手を「好き」になる手続きでもある。前も言ったが、実は多くのいじめはこの作業からスタートしている。今の子の多くが、その手続きを大幅に省くことで悲劇は起こっている。まあ、とにもかくにも、私たちの「子どもに耳を傾ける」作業とはそういうことを指して言うはずだ。「いい加減にしろ!」という言葉はそんな作業の後だったら許される、というか仕方のないものだ。
私たちは「子どもの声に耳を傾ける」
と同時に、
「ガキの言うことなんか聞いてられっか! 」

と勝負する時があることを知らないといけない。それ抜きの「子どもの声…」は、子どもを未熟な存在として認定・承認していない。子どもは絶対的存在ではないのだ。
さて、その選択は時として事態を一気に解決に向けることもあるが、悲惨な結果を呼ぶこともある。しかし、もともと客観的かつ絶対的な選択肢などないのだ。慎重は臆病に名を借りる時があり、大胆は事態放棄であったりする。自分自身と子ども(たち)の様子を見極めながら、そしてやっぱり勝負となる。

人びとがなにを思い、そこに自分がどう投影されているのか、あるいは自分がそこになにを投企していくのか、それが芸術表現主体の悩みどころであり、楽しみどころのはずだ。それは芸術活動すべてに言えることだ。たくさんの人に観てほしい、読んでほしい、買ってほしいという思いは、不純なものではない。しかし、生き残っている、というのは聞こえが悪いな、すぐれた表現者は、多くのラーメン屋やお笑い芸人があっと言う間に消えていく理由を、彼らがどのみち客の好みに振り回されてきたからだ、ということを知っている。そしてまた、大衆の好みというものが気まぐれであるということを知っている。
自分の流儀が人びとの好みに合うかどうかは、もう「運」と言っていい。しかし、自分は天才ゆえ誰にも理解されないという嘆きは独りよがりだ。今の子どもはおかしい、狂っているから叩き直せ、という先生に似ている。気まぐれな人びとの「好み」に振り回され廃棄されたラーメン屋は、勝手気ままな子どもたちに振り回される先生たちと同じだ。表現活動に揺るぎない正しいものなどどこにもない。同時に、人の数だけやり方があるように人の好みも様々だ、というようなふやけた場所からは何も見えて来ない。じたばたともがき苦しむ中で、結局「自分にはこの道しかない」というスタイルだけが残る。「じたばたする」作業とは、結果の善し悪しに自分がどう関わっていたのか、そして今後それらに手を加えることが可能であるかどうか、を見極める辛い仕事だ。思想家吉本隆明の、
「自分は大衆にもっとも敵対的である大衆だ」
という言葉の方が、もっと雄弁に上手に語り尽くしているかも知れない。


 ☆☆
団塊の世代なら、冒頭写真を覚えているはずです。亀倉雄策の手による1964年の東京オリンピックのポスターです。明らかにこのポスターをデフォルメ(パロディ?)したのが、今回の『egg』のポスターだと思われます。本来なら横にその写真を並べるのが当たり前ですが、下手くそなものですみません。次回載せます。私なりの解釈でいうと、この『egg(エッグ)』は、『エッ!?』をもじったような気がして仕方がありません。

☆☆
「ニイダヤ水産」の干物を、このブログで何度か登場いただいた大学時代の恩師であり、『ダムとの闘い』を続けている藤原先生に送りました。お礼の電話が来ました。40年ぶりでしょうか、先生の元気そうな声。今は群馬の方に行っているが、11月には(千葉に)戻ります、ということでした。「腹の立つことばかり多いね」と言う先生は、今回の原発事故で見直されているダムについて、どんなことを思っているのでしょう。「昔話もたくさんしましょうよ」と言ってくれた先生は、80歳(傘寿)を越えたといいます。