実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

<勝ちと負け> 実戦教師塾通信二百六号

2012-09-10 17:36:17 | 子ども/学校
 「いいも悪いもない」 その2(「<子ども>の現在」)

     ~<勝ちと負け>~


 「勝敗のない勝負」


 「いいも悪いもあったもんじゃない」場所は、他にもいくつか見つかる。ふだん気付かずに私たちは「裁断」し、競い合っている。
 羽根つきと言ってまだ分かる人はいるだろうが、実際にやったことのある人は、読者の半分にもならないのではないか。時候としては的外れではあるが、この羽根つきのことである。あの正月遊びに勝ち負けがないことを知っているだろうか。二人で行う遊びであるが、その両者の向こう側とこちら側を隔てるものはない。両者を隔てるネットはもちろんのこと、両者が交互に打ち合うことだけをルールとするこの遊びでは、アウト(外側)やらもないし、時に一方はとんでもない場所に羽根を打ち、他方は羽根を追いながら相手の後に回ることにもなったりする。「打ち続けること」、空に羽根を舞い続けさせる遊びだ。
 どちらかいうと女の子の遊びに属する、この羽根つきに業を煮やした男児連中は、向かい合う相手との間に綱を張ったりした。そうなると、お互い相手を攻略しようと、ゲームは「勝ち負け」の様相を露わにするようになった。しかし、女の子はそんなことに頓着しなかった。やはり両者の境界線を取っ払って、穏やかに楽しそうに遊ぶのだった。そんな女の子の不思議で魅惑的な世界に、私たちは少し違和感を覚えつつ憧れもした。四つ年上の素敵なアサヨちゃんと羽根つきをする時は、緊張と嬉しさで気持ちはたかぶった。終わるとやはり楽しかった。羽根つきはゲームの両者が作り上げるものである。両者を認め合うものである。
 さて、そこに羽根つきの西欧版、バドミントンが登場する。ラケットにはネットが張ってあり、羽根に代わるゴム製のシャトル。スピードと飛距離は木製の羽子板をはるかにしのいだ。しかし、一番の変化は両者を分け隔てたネットが作る「勝負」の世界だということだ。一方が稚拙ならば勝負は一方的なものとなる。羽根つきにあった「相手とどれだけ楽しくできるか」というポイントは、バドミントン(ネット)の登場であっと言う間に霧散した。まったく同じ例が「蹴鞠」対「サッカー」だろう。「勝ち負け」が登場したことで、相手との「優劣」「強弱」が発生することとなった。もちろん羽根つきでも、自分の実力のいたらなさに「情けなくなる」こともあったし、やっていても「つまらない」ことはあった。しかし、その原因の主要なポイントはどちらかがどちらかを「カバーする」包容(力)か、両者の「相性」だった。それで充足感は得られたし、楽しかった。


 戻る場所

 勝負の世界を否定するものではない。もちろん上手下手は存在するし、勝ち負けはないものの、勝負も存在するからだ。実力が伯仲したものどうしでの駆け引き・やりとりがそれだ。そんな時お互いが、
「行くぞ!」「かかって来い!」
と雄叫びをあげる。羽根つきでそんな場面があったかどうか自信はないが、キャッチボールでみかける場面ではある。バッテリー(もちろん蓄電池ではなく、投手と捕手のことだ)とはそんな関係にある。そんなわけで、実は野球の世界でもそんな「勝ち負けのない勝負」をやっている。
 バッテリーの数だけ、羽根つき相手のペアだけ世界ができる。実力の違ったものどうしで組んでまた世界が拡がる。しかし、その中で不可避に生ずる「優劣」や「上下」「有能無能」の問題に私たちはどう対処して来たのだろう。立ち向かって来る「慢心」や「卑屈」とどう相対して来たのだろう。いや、未だに対処しきれずに悶々とするから「勝ち負け」にこだわり、相手を「敵」視することにいとまがない。本当は人が生きるという世界は広いのに、狭い勝ち負けという場所に自分を追い込んでいることに気付かない。
 初めはみんな「真似=模倣」から始まった。憧れや驚きや感動で動かされて始める。お手玉や素振りやリフティング、運良く手ほどきを受ける環境があっても、初めはひとりで真似ることから始まった。伊達さんや桑田、そして白鵬など、一流の人はみんな壁にぶつかっている人に同じものを見ている。
「見えないものを相手にして空回り」
しているのが彼らの姿だという。自分と向き合える環境やアドバイスを与えてあげれば、彼らの焦りは取れるという。千本の素振りをやればいいものではないと言う桑田は、多分、人には自分にしかフィットしない素振り(技)があると言っている。そういう真似→創作の転移を言っている。羽根つきで近所の素敵なお姉さんたちがふだんに見せていた姿だ。釈迦力になるものではないよ、逆らわずに、楽しく、と。限界を感じてまで、つまらなくなってまでやるものではないよ、と。まぁ念のために断るが、ぎりぎりまで自分を追い込むことを否定するわけではない。自分を見失うことが「慢心」や「卑屈」につながると言いたいだけだ。
 私のことで言えば、天と地のエネルギーを介して自分の力を出す時、手が触れただけで相手が吹っ飛ぶ、という経験がまだ何度もないけれど、私の「戻る場所」だと思っている。そしてまた相撲で言えば、土俵というものが「神の降り立つ場所」である、魔物が入れない場所だということを信じたいし、忘れたくないこととしてある。
 本当は大きな場所から「真似」は始まった。


 ☆☆
建築の下請けをしている仲間が、小さい子がいる家庭の「除染」を頼まれました。専門家でもないし、市からの委託業者でもない、と断ったそうです。でも、不安だからやってくれということで仕方なく、0,2μシーベルトの庭と周辺の土を剥ぎ取ったそうです。でもその土は残土業者の会社に持って行ったそうで「あのあとどうなるんだか、これじゃ撒き散らしているようなもんですよね」とこぼしていました。

 ☆☆
私の地元自治会で「ニイダヤ水産」のことを提案しました。200あまりの世帯ですが、みんなに提案したらどうですか、とりあえず役員だけ(二十人ほどです)でも食べてみましょうよ、ということになりました。ありがたいです。