kotoba日記                     小久保圭介

言葉 音 歌 空 青 道 草 木 花 陽 地 息 天 歩 石 海 風 波 魚 緑 明 声 鳥 光 心 思

文学とコロナ禍 伊藤氏貴氏へ

2020年05月28日 | 文学
   

本日付けの中日新聞夕刊に
文月桾] 伊藤氏貴氏の記事

素敵な批評家の印象があるので
丹念に読む

新潮6月号の表紙が「コロナ禍の時代の表現」とどかーんと書いてある話から。
内容はそれに関する作品の目次があるわけではない、とも。
ただ二冊取り上げていたのは、
金原ひとみ著『アンソーシャルディスタンス』と
鴻池瑠衣著『最後の自粛』

どちらも「コロナ関連」の作品。

記事の中で
『ソーシャルディスタンス』を『フィジカルディスタンス』と言い換え、『フィジカルディスタンス』を金原作品に合わせて「フィジカルディスタンスシング』と言い換えている。

ソーシャルディスタンス → フィジカルディスタンス への言い換えは、
専門家会議の副座長、尾身茂氏の発案。
理由は「ソーシャルディスタンス」(社会的距離)より「フィジカルディスタンス」(身体的距離)の方が良いのではないか、という社会という大きな枠組みだと適切ではない。ということ。

尾身茂先生は、おそらく、さらに経済が落ち込み失業者があふれることへの配慮からソーシャル(社会)を外したと思わる。

というわけで伊藤氏貴氏は、そういう言葉への配慮をしっかりとらえて時評を書いている。
文中、鴻池作品を解説する際、阿部和重著「インデビジュアル・プロジェクション」を引用していて、あれそんな内容だっけなと、久しぶりに読む懐かしい題の内容を思ったけれど、思い出せない。ただインディビジュアル・プロジェクションがめちゃくちゃ面白かったのは覚えている。

記事を読み、文月桾]だし、コロナを外すわけにはどうしても書けないという批評家の悲哀さえ見える。無理をしてコロナと文学をくっつける意味の模索は新潮6月号表紙でも物語っているけれど、そこに伊藤氏は『くっつけられないもどかしさシンパシー』を得たに違いない。
それはほぼ大多数の作家が抱える問題です

ここで思い出すのは311

あの時、いとうせいこう氏の『想像ラジオ』という作品を生み出せないでいる作家たちの中で、
高橋源一郎が『恋する原発』を書いた。あれは最初、まったく意味がわからなかった。
そしてわかった。今でもおぼえているけれど、『恋する原発』という小説には、どのページにも、ゴチック文字で『おまんこ』と『ちんこ』が連発するのだった。それを地下鉄の中で読んでいて、さすがに人目を気にした覚えがある。
 あの時、何故高橋は隠語を連発するのか、それがわからなかった。
ぱっと判ったのは、「何を書いてもいいんだ」というメッセージ。
当時、同調圧力の中、新聞をはじめあらゆるところで検閲があった。見えないところであった。これは本当です。

このblogでも実際にあった話

原発反対のデモが名古屋であって、それを前日にURLを貼って、時間、場所の詳細が判るようにしていたのだけれど、
ロボットが動いた。
当日の朝には、そのサイトには飛べなかった。
友人のTwitterも数年後に完全に凍結された。
意味がわからん。それ以降、友人は一切、口をつぐんだ。

311の時、高橋が示した言葉の自由。あれは、まさしく時代を現わした作品であり、いとうせいこう氏のやり方とはまったく違う。どちらもあり。

そして今、わたしたちは、どうやって書くか、
ということを思う。
311の時、多和田葉子の近未来短編小説がコメント欄でひどく批判されていた。これは先行きが暗くなる作品だ、と。わたしは一番好きな作品だったから、読者の批判が信じられなかった。
そのアンソロジーには川上弘美が『神様』をアレンジした大胆な作品もあった。
音楽家の尾崎亜美が新作を出すのをやめ、すべて書き変えたとか、
映画界では園子温が急きょ、発表直前になって『ヒミズ』に311をぶち込まざるを得ない心情であったりとか、
本当にいろいろあった。

それを今回も思う。
きっと伊藤氏貴氏も同じ思いなのではないのかな、
とコロナと文学をくっつけるもどかしさを、感じるばかりです。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする