kotoba日記                     小久保圭介

言葉 音 歌 空 青 道 草 木 花 陽 地 息 天 歩 石 海 風 波 魚 緑 明 声 鳥 光 心 思

門倉まり著『鳥越城跡』

2023年01月25日 | ウクライナ戦争

『鳥越城跡』

読ませていただきました

2022年2月24日

ロシアがウクライナに攻撃した日です

あれから約1年弱

新聞もテレビもネットニュースでも

記事は小さくなり

まったく何も起きていないが如く

わたしたちは暮らしています

今 戦争が起きている

これだけはいつも頭の片隅にあり

この作品はウクライナ戦争を描いた戦争文学です

今 映像や記事は二次的なものしかなく

それもフェイク(嘘)ニュースであるとか

動画にしても作られているものだとか

どれが本当なのかまったく判らない

そこで『体感』を希求する作者は

地元金沢の鳥越城跡に小説の舞台を求めました

観光地としての場所であると同時に

戦国時代に最後の砦として農民が

対抗した場所だそうです

ーーー

暴力と残虐性において

わたしはまず三島由紀夫を想起

『憂国』は切腹を描いた短編小説でした

作者が三島由紀夫を読んでいるか否かは問題ではなく

血を書く作家であることは間違いない

しかも暴力の場面は北野武の映画を想起するほどの

現実性があり

何故ここまで人間の残酷が冷静に書けるのかが

面白い

死体が転がる描写も存分にあり

この作家の戦争への強い問題意識が

確実に言葉として表現されています

ーーー

三島由紀夫が暴力を否定しなかったのと同じく

北野武も暴力を否定しないどころか

積極的に映画化するのは何故か

それが判るまでわたしはずいぶん時間がかかった

北野武が執拗に何故あそこまで暴力を描くのか

それが欧米で何故 評価されるのか

北野武は暴力を肯定しているわけではなく

生物の根源には必ず暴力が存在することを

知っていたからです

作者もまたドフトエフスキーから

人間の根源の悪を学び続けただろうことは

想像できます

現在は死体を隠し

残虐の場面はテレビでは流さず

インターネットで探せば

見ることができます

作中でも描かれているのは

常にわたしたちが加害者になりうる

それも簡単に

という恐ろしい事実への問いです

それでいいのか

それを制御するため抑制するため

社会がある

法律があり

宗教があり

道徳がある

社会生活は常に暴力を否定し続ける

おそらく社会というものが消滅したら

または自身の中に社会性が一瞬でも消えた時

人は人を殴り 蹴り 汚辱する

さらに増長してゆけば

人間の体はただの『物』であり

壊そうがどうしようが

勝手となる

そこにあるのは快楽です

さらに家族の目が見ている場所で

残虐行為が行われる

何故か

家族が苦しむのが楽しいからです

被害者の苦しみだけでは飽き足らず

二次的な残虐殺戮と汚辱が始まる

それがウクライナの戦地で起きている

「戦争は人を狂わせる」

とみんな言います

違う

狂ってはいない

極めて正常

たとえばわたしたちの社会から

法律がなくなったとする

するとたちどころに

金品を奪い汚辱し殺戮し連れ去る

それに飽きると第三者に

「やれ」と命令し

嫌がればその第三者も酷い目に合わされる

その心的苦しみを見るのが

人間しか持っていない

大脳の快楽です

「恐ろしい」

恐ろしいです

善悪など実はない

音楽家の灰野敬二は

おそらく吉増剛造から影響を受け

即興で言葉を舞台で発します

その中で印象的だったのは

「人間って本当はしちゃいけないことなんて何もないんじゃないか」

と呟いたことがあります

まったくもってその通り

わたしは納得した

「戦場は狂っている」

正論

けれどわたしたちだって

社会生活の『社会性の隙間』に

言葉の暴力と身体暴力と汚辱が山ほどある

隙間

あまり人には見えない

それが隙間という秘された場所だからです

作中

派出所内で警察官らが泥酔した男に

暴力を振るう場面があります

この現実感を作者はどこから突起してきたのか

それはまさしく作者の中の

見える暴力と見えぬ暴力行使体験以外からは

あり得ない

それは作者だけでは実はない

わたしも含め

「見える暴力も見えぬ暴力も振るってこなかった

一度もそんなことはしてこなかった」

と答えられる人がいれば

「本当ですか」

と質問したい

ーーー

この作品はわたしにとって

たくさんのことを考えさせる

切り口はいくつもあり

どの切り口からでも

論じることは可能です

---

85枚の短編小説です

作品としてみれば

幻想場面を何故

主人公の病気の為

と作者は書いてしまったか

わたしは読んでいて

「惜しい!」

と声が出た

幻想は幻想で良かったのではなかったか

幻想を見ることに意味を与えてしまった作者が

常に意味の追求を必要としているのは何故か

極めて論理的なのは

実は欧米人脳の特質であり

日本人脳であったら

幻想は当たり前に幻想として

扱える

ところが欧米の文化には

必ず感性を論理化する思想体系がある

答を出そうとする

そして答を出す

日本文化は

答えない文化です

その違いが顕著に出てしまった箇所であるのは

間違いない

欧米人脳は虫の鳴き声は

ただの雑音でしかなく

日本人脳というのは

虫の鳴く音に

美しさと

もののあわれを感じる脳である

小説的つじつま合わせならば

致し方ないとあきらめる

ーーー

もう一つはロシアが侵攻したのは

事実ではあるけれど

何故ロシアはウクライナに侵攻したのか

NATOとアメリカの責任は

今 メディアからすっかり消えている

普通に誰もが考えられることですけれど

武器を他国がウクライナに調達すればするほど

戦争は長くなり民間人も両国の兵士の死傷者も増える

地理的にアメリカ大陸が

極めて侵攻されにくい国土面積と場所にあることを

裏の戦争責任者の追求と経過に至った元の原因を

わたしたちは注意深く監視し続けねばならない

それが『自分という広報』の責務である

いまこそ一元的な『大本営』に騙されてはいけない

それが作家の仕事の一つです

ーーー

それにしても

強烈な面白さが噴出する小説であるのは間違いなく

構成的にも実に見事としか言いようがない

読後

「面白かった」

と声が出た

言い過ぎかと笑われるかもしれぬけれど

わたしは言いたい

2023年 日本の戦争文学とは何か

門倉まりのことである

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

戸田鎮子著 『編集室の窓』

2023年01月12日 | 生活

編集室の窓

再読させていただきました

文はひらがなが多いです

これは編集責任者であり著者である『先生』の

特徴のひとつです

ひらがなが多いのは間違いないけれど

作家というのは妙なこだわりがあって

一般的にひらがなにする語彙を

あえて好き嫌いなのか長年の癖なのか

漢字にしている

それも注意深く読むと

楽しい

作者の文体は簡素極まりない

余分がない

比喩も暗喩も体言止めもない

いっさいの技術というものを

意図的に排除している節がある

その方法は極めて正しい

新聞記事に心象をさらりと

入れ込んでゆく技術のそれである

ただし

今回は百十回目の

最後の『編集室の窓』であり

当然に感傷的な感はまぬがれない

それが正しい

110号までの一冊一冊を思うと

この文字数ではもちろん足らず

だからとて

文字数を増やしたところで

それほど変わりはしないです

じゅん文学が送られてきて

最初に読むのが

この『編集室の窓(以前は、編集後記)』です

そんな同人や会員も少なくないと想像する

はて

すでに鬼籍に入った大谷 史氏(おおたに つかさ)の大叔母は

今何を思って鬼笑いをしておられるだろう

さらにまだ六十歳という若さで鬼籍に入った

長谷譲氏 コブギーヌン・イソヨ・マリネは

どんな思いで笑っているのだろう

知らされず鬼籍に入った関係者のみなさんは

今どんな思いで自作の小説が掲載された『じゅん文学』を

思っているのだろう

 

三十年弱の歳月は『じゅん文学』にかかわったすべての人に

等しく流れ

それぞれの人生の中に

『じゅん文学』という固有名詞は

確実に印として残っているに違いない

登山サークルやヨガ教室の如く

たくさんあるわけもないものが

文芸同人誌です

インターネットが当たり前に普及した昨今

文学の遺物と成りつつあると言ってもいい

極めて特異であり希有な存在形態

それだからこそ

各個人の中で

極めて彩色を放つ人生の印として

ずっと残る

もしかしたら

鬼籍に入っても

作品は良くも悪くも

遺作として残ってしまう

それが遺品の中で

極めて特異であるのは

亡き人が書いた

『小説』がそこに書かれてあるからです

亡き人はその年に

何を思って

このような物語を

人様に向けて発表する気になったのだろう

遺族はその小説さえ読んだことがない

そんな場合とて安易に想像できる

残された『じゅん文学』と書かれた

文芸同人誌の

目次には

亡き人の本名または筆名が書かれてある

遺族の中の一人くらいは

書かれた小説を読み

思いを重ねることだろう

その遺族がまた

もしかしたら

「わたしも」と思って

小説教室に通う日が未来にあるかもしれない

そのような有益な存在としても

『じゅん文学』はある

ページに挟まれた

新聞記事の切り抜きと照らし合わせ

「たいしたもんだ」

と誰それが思うかもしれない

名古屋市図書館には

文芸同人誌を並べるコーナを

設けている区図書館もある

在庫として書庫に保管もしてある

愛知県図書館とて

さらに大事に保管されていることだろう

そのような三十年弱の歳月は

重いようで軽やかだ

何故か

編集責任者であり作家であり本作の著者は

自他ともに認める

『淡々と仕事をする者』であるからに他ならない

長く続けるにはきっと秘訣があるのだろう

その一つに

何事においても

感情に支配されぬ冷静と知性を持ち

淡々と文字通り

するべきことをするだけの

著者の姿勢こそ

わたしたちの『じゅん文学』の真の姿に他ならない

著者であり編集責任者であり作家である

戸田鎮子氏を強い軸として

高き山

低き山の如く

空を飛ぶ名の知れぬ鳥の如く

名の知れぬ草草

木木

花花

雨雨

川川

音音

光光

言葉の

森羅万象に

最大級の敬意を払い

この文を結ばせていただきます

『淡々な仕事ぶり』を最後まで読ませていただき

ありがとうございました

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

楠 次郎著 『がんばれません・なにごとも』

2023年01月12日 | 生活

がんばれません・なにごとも

 

今読ませていただきました

久しぶりに調子の良い文体を黙読しました

作者は一口で言えば

文才がおありになる

文の調子と内容が合っている

これを文才という

いろんな方の文体をここ数日

読ませていただきましたけれど

どの方もそれぞれの魅力があり

この作者は飛び抜けて

明るい文をお書きになる

同じ内容でも

書き手によって

まったくもって陰な印象を持ちうる可能性があります

一見

テレビのバラエティ的な要素がないわけではないけれど

このような軽快な文は読んでいて

お山を登りながら

馬鹿話や猥談をしているのと同じように

愉快極まりない

楽しく跳ね遊ぶ

言葉たちの嬉々として声

読ませていただき

ありがとうございました

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秋乃みか著 『蓬仙人』

2023年01月10日 | 生活

蓬仙人

今読ませていただきました

この作者は何故

蓮を書くのだろうか

それを考えている

何故

蓮なのだろう

四季の中で

めずらしい植物なら

いくらでもありそうなのに

植物でなくとも

十五夜であるとか

すすきの金色であるとか

蝉時雨

脱け殻

吹雪の中の六道の地蔵

作中に出てくる小糠雨

日本の自然文化は

たくさんあるというのに

何故

蓮なのか

近所にあるからなのか

仏と関係があるからなのか

墓地と古代の種が咲かせた蓮が

一緒になった場所に

永遠と刹那を感じるためなのか

そして何故

爺なのか

おそらく私は判っているはずである

蓬莱という場所も

道教も仙人も

中国の古代は

永久であり

いつの世も

そこに先駆けと始末がある

わたしは判っているはずなのに

作者とまったく同じではないはず

重なることはあっても

はみだす領域がある

互いが知らぬ領域に

どんな花が咲くのか

それは少なくとも

蓮ではないはずだ

千差万別

この熟語を本当に

わたしたちは考えたことが

あっただろうか

ない

蓮を見る

同じ蓮を見る

ところが

千差万別の目が違う

見る角度が違う

見る時間が違う

知識が違う

経験が違う

感受が違う

目線も違う

同じ蓮を見ているはずなのに

千差万別

文字通り

まったく違うのである

蓮は遙か遠くまで

わたしたちを飛ばせる

そして戻る

空に仙人が飛ぶ

座る爺

あらゆる教えが書かれた

書物があり

思考の末というものは

どこにもなく

ただ

作者は蓮を見るのである

意味は最初からない

見るものが蓮だったからだ

その蓮の意味の大きさを

わたしたちは飛びながら

一つ一つ

飛ぶ鳥を数えるように

重ねては

ほどく

蓮の意味の大きさなど

モネに任せておけばいい

わたしたちは

さらに飛んでゆく

真っ青な空の

白き雲と

雲の間を

ゆく

戻る

ゆく

戻る


蓮を見るということ

目は蓮を見ているのに

目は蓮を見ていない

作者は風の中で

立っている

目に見えるものを

言葉で組み立て

映像化し

そこに思いという脚色を加え

口からこぼれるものがある

それを人々は

言葉と呼ぶ


極めて自然信仰から突起してくる

言葉の誘発性に長けたエッセイです

読ませていただき

ありがとうございました

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

立花樹香著 『開けた扉のしあわせ』

2023年01月09日 | 生活

開けた扉のしあわせ

今読ませていただきました

二十八年間

一度もじゅん文学を休まず

小説教室の講師としても休まず

淡々と仕事をされた戸田氏への

ねぎらいの言葉から

このエッセイは始まる

縁の不思議

空海いわく

悪縁というものはないらしい

高田渡氏の歌詞で

「一度も会わない人だっている

 すれちがいすらしない人だっている」

人と人の出会いの

巡り合わせの

確率について

歌っている

わたしは時々

精液の分泌について考えることがある

数億といわれる精子が射精によって

子宮まで必死にオタマジャクシとなって

泳ぐ

途中での生存競争は凄まじく

他の精子を押しのけて

または妨害して

ともかく子宮に辿り着こうと

必死で泳ぐ

その数は数億

その中でたった一つの精子が

子宮に辿り着き

運が良ければ

受精となり

現在のわたしがいる

選ばれた優秀な生存競争に勝った精子が

DNAを受け継ぐ特権を与えられる

動物の構造というのは

緻密に緻密を重ねても

説かれないほど

精緻である

人と人の出会いもまた

選ばれし人が

選ばれし人と会う

すれ違うだけでも凄い確率

同じ電車に乗っただけでも凄い確率

以前

インドを旅した時

あれはアグラという町で

現地のインド人と仲良くなって

アグラでの滞在期間はおよそ

一週間ほどだったと思うのだけれど

友達になったインド人の彼は

私たちが鉄道の駅から他所に向かう時

見送りに一緒に来てくれた

互いにまともな日本語も英語もヒンディー語も話せず

アイコンタクトと身振りで

互いが親和であることは伝えられた関係だった

その彼とわたしは

電車に乗り込む前

同時にこれが最後

二度と会うことがない

一期一会だと

胸の真ん中にある分け御魂が共振して

抱擁した

涙が出ていたかもしれないし

そうでないかもしれない

ただ抱擁する瞬間

これが今生の別れ

刹那である

という確信は満ちて

互いが同時に腕を

まわした

その記憶を

四十年近く経っても

覚えているのは

それが極めて

刹那だったからだろう

人はある時

誰かに出会う

または

本当に駄目になった時

誰かが現れるという

誰も現れないのは

本当に駄目になっていないということだと

最近は思う

長くいきれば年齢に比例して

出会う数は増えるはずなのに

出会ったとしても

軽んじてしまうのがよの常

作者は出会いこそ

暮らし

と書く

その通りだと思う

どんな出会いであっても

どちらかがどちらかに何かを与え

または互いに与え

その役割が終われば

いかんせん

別れが来る

別れは実は良いことだ

次の出会いがすぐそこで

待っている

人は人に出会って

成長してゆく

それは文学だけの話では当然ない

あらゆる可能性を人は秘めていて

それを引き出してくれたり

己が相手から引き出してみたり

様々です

神のみぞ知るという言葉が

未だに好きになれない

神とはそのような便利なものでは決してない

全知全能でもない

大事は

胸の真ん中にある

分け御魂と呼ばれる

自身の神と

他者の分け御魂である神と

天地の神との

密接な言葉なき会話であり

時に言葉ある会話にほかならない

人を痛めるということは

自身を痛めることに

まだほとんどの人が気づいていない

それに気づくのも

やはり作者のいう

出会う人そのものによって

得る特別な恩寵であるというのに

人は挨拶さえ交わさない

「今日は良い天気ですね」

天気の話こそ

人類のみではなく

万物の共通の話題に他ならない

ここでわたしが

110号という

じゅん文学最終号のため

一人一人の作品を読み

感想を記す

こうでもしないと

賜ってきた数多の恩寵に

応える術がない

それは作者とまったくもって

同感の極みなのです

いい思いのエッセイ

読ませていただき

ありがとうございました

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宇野健蔵著 『七間町八景』

2023年01月09日 | 生活

七間町八景

今読ませていただきました

言葉は常に音楽的である

ということを

ここまであからさまに表現した作品を

目にしたのは何年ぶりだろう

この小説で内容を爆破して

リズムだけ残し

それが最後まで続く

フリージャズの即興の如く

スピードと間だけに

言葉を賭けた作品となっている

ジェームス・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』は

翻訳不可能と言われて

英米文学者の柳瀬尚紀氏が

日本語に翻訳したことの功績は

帯を書いた当時の著名な文学者達をみれば

その比類なき野望と忍耐に感服するしかない

多言語で書かれ

意味不明の文が長編として刊行されている

さて

言葉の速度でもって

意味を消滅させる今作は

ジョイスのそれとは違い

スピードで意味を消滅させることの意図が

はっきり読み取れる

それが八景という題で

八景のどこからみても

景は景であるとばかり

高速なカットアップ法を用いて

読者を混乱させ

意味を消す

この作品に書かれてあるのは

こうでこうだから

と読むのは間違った読み方です

本作は音楽を聴くように

書かれてある言葉を朗読するに限る

それが最高の読書の楽しみ方の方法です

難解な書物であれ

意味不明の本作であれ

とにかくそこに書かれてあるものを読む

読むという行為自体が大事であることを

ここまで言い放った作者は最近いない

言葉は音であり

意味の表層を滑走するべく

言葉たちがばらばらになって

いっきに滑り落ちてくる

その爽快感は

再度申し上げるけれど

小説に意味を求める括りを

今一度小説好きな人たちは

いったん手から放し

書かれてあるおびただしい言葉の転がり様を

音読することで

体感するのが有益である

音楽はイヤホーンで聴くものではない

体全体で響きを楽しむものが

本来の姿です

同様に言葉も体で響かせてみると

今までとはまったく違った

八景が

体感できれば

この作品の良き読者となって

自己変化の愉悦に浸ることができるであろう

和音を無視した無軌道な音(言葉)こそ

本来の音(言葉)だと知るに至るまで

今作を何度も朗読する

言葉本来の姿が

意味というものを貼り付けられる以前の

音としての言葉の活き活きとした姿が

垣間見られれば

最高です

面白い作品でした

読ませていただき

ありがとうございました

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

猿渡由美子著 『逢瀬』

2023年01月09日 | 生活

逢瀬

今読ませていただきました

作者の小説の構成力と

人物配置

会話と無駄のない文体は

すでに定評となっています

この作品もその例にもれず

技巧は抜群の文才を発揮

それは誰しも認めるところだし

今回亡き人を扱うということにおいて

川上弘美著『真鶴』を想起

多分に影響されるのは当たり前だろうし

影響されていないかもしれない

いずれにしても

今作の亡き人の描き方は見事であり

多和田葉子も『三人関係』だったか

ある亡き作家だったか

とともに

話をしながら散歩するという構成の

作品がある

村上春樹の『羊をめぐる冒険』しかり

作者とわたしはほぼ同年齢なので

時々に読むものが重なることは当たり前

わたしとて

多和田葉子の模倣として自作を書いたことがある

ともかく亡き人と一緒に過ごすという構成は

特に新しいものではないにもかかわらず

この作者にとっては新鮮であり

技術を越えた冒険としてめざましい

最近 年配友人がコロナで急死したけれど

さりとて悲しいということがない

ただあの声がもう聞けないという事実だけが残る

生きるも死ぬもそれほど

変わらないのではあるまいか

とよく思うことがあり

死が以前ほど怖くなくなった今

死生の境が薄くなってきた

そんな個人的な心境で本作を読むと

極めてリアルな亡き人との散歩であり

会話でさえもあり得ると思ってしまう

サービスのよい作家だとつくづく感じるのは

最後の場面で

同僚の『つむぎ』と亡き妻の『舞子』を

陽と陰として描く両義性である

両義性はすでに最後

雑木林という空間の中で

義を消滅させ

両性として提示する

ここにこの作家の凄みがある

小説の見取り図としての

妹の菜々子の登場であるとか

見事としか言いようがない

artという言葉は

芸術という意味と技術という意味があることを

忘れてはならない

さらに義母である『セツ』が認知となり

主人公の後ろに娘の『舞子』を探す場面は

圧巻である

セツが台所に立ち続けることに

「怖い」と言わせるあたりは見事な

技術

実際は「怖い」とは誰も現実的には思わない

ただ作者の巧みとはここで

「怖い」と言わせて

台所に立ち続ける高齢女性の姿に

怖さを導入すること

その見事な技は文の芸であり

文学そのものの技術の一つであり

そのような詳細な技術ひとつひとつが

繊細な画家の細部の一つの如く

見る人が見れば

見事

だたし見るものが気づいてはいけないことも

作者は存分に承知の上である

常にこの作者には小さくまとまってほしくない

と切望する者として

今回は亡き人を出してきた

これで死への回路が繋がった

ということは現実の中に

幻想ではないリアルな死が導入されることによって

画家の筆はキャンバスからはみ出るほどの

『勢い』の筆致となる

可能性を秘めている

今回も良くも悪くも

期待を裏切らない作品であって

やはりこの作家はすでに完成へと向かっているのは

誰もが否定できないはずです

見事な作品を読ませていただきました

ありがとうございました

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

丹羽加奈子著 『赤い線』

2023年01月09日 | 生活

赤い線

 

今読ませていただきました

生きるとは何か

家族とは何か

介護とは何か

老いとは何か

冒頭はリストカットから始まるので

そのような物語なのかと思いました

リストカットは生活の中での行為の一つとして

描かれ特別に大きな意味は生じていない

ところがリストカットという象徴的行為によって

作者は主人公の生きる苦しみを描いてみせる

ヨブ記を想起する

ヨブは大きな石を一生懸命

山に向けて

押し上げている

神に問う

「何故、わたしはこんなに苦しまねばならないのですか」

神は答えず

ヨブは何度も神に問う

「どうして、こんなに苦しい目にわたしが合わねばならないのですか」

それでも神は答えず

何故、神は何も:答えぬのか

それはヨブが自問し悩み

考え続けることであること

これがヨブ記です

生きること

家族

介護

老い

それを作者は主人公に自問し続ける

答は出ない

最後に雨の中

神社の賽銭箱の前で手を合わせ

崩れる姿

ここに何の意味があるのか

自問の果ての神への問いである

けれど

神は答えず

数多の人が

現在この作品と同じような

辛苦の中にいる

その人たちに救済の手はあるか

ない

ないのだ

すべてがこの主人公の如く

自問の中から時折

垣間見える

次男が作ってくれるカップそばの旨さであろう

泥の中に蓮が咲く

日々の中で

最低最悪の日であっても

三つはいいことがある

寝る前に思い出してみるといい

今日たべたカレーパンがおいしかった

今日は晴れていた

今日は隣の人と挨拶ができた

些細な幸事が山ほどある

と気づいたのは

25年ほど前のこと

こんな絵はがきをいただいた時だった

文字が書かれあった

『星の数ほどある恵みに今日も感謝』

出典は聖書だろうか

その絵はがきをいただいてから

わたしは目覚めた

そして三つだけ寝る前に

今日良いことを思い出すような

習慣ができていた

おそらくヨブ記が書かれた理由は

このことではないかしら 小さなしあわせ

と推測する

そこに気づけば

神は答える

「良かったですね」

圧倒的な絶望と自己憐憫と家族愛が

渦巻く小説を書く作者

その作者こそ

自然

実は三つ良いことをすでに熟知している

ただ

なぜここまで絶望的な描写が覆っているかというと

誰かに甘えたいわけでも同情してほしいわけでもなく

他の人が読んだ時

ああわたしより気の毒な人がいる

これは太宰治的な悲しみと辛苦への愛である

主人公が愛しているのは

実はそのおのれの心象であり

実生活はあんがい強いからこそ

ここで作品として書ける

本当に絶望したならば

言葉を書くことさえできない

そこの作者の技を見逃していけない

悲しみを書く

辛苦を書くということは

作者が元気とまでは言わないまでも

書きたいという気力がみなぎっている証左であり

書かずにはおられない

負への愛そのものです

悲とは同時に喜である

陰陽がすべてを物語る

雨が負のイメージで描かれがちなのは

動物にとって

身体の冷えによって生命の存続にかかわることだからです

ところが植物にとってはどうだろう

雨は慈雨以外の何物でもない

森羅万象はそのように

陰陽の中で渦巻き

絡み合い

誰かが飢えることで

誰かが潤う

誰かが餓死することで

誰かが生きのびる

誰かが悲しむことによって

誰かが結果的に喜ぶ

競争社会ではそれが顕著である

作者は合理的選択を最後まで選ばない

要介護3ならば

当然

特別養護老人ホームでしか

あり得ないというのは

いまや一般的常識内であろう

ところが主人公は

自ら

背追うことを希望する

この小説の肝は

主人公の内心にこそ

見つけられる

それは極めて

太宰治的なものに違いない

 

よって

安心して読めました

読ませていただき

ありがとうございました

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

土田真子著 『いつものように』

2023年01月09日 | 読書

 

いつものように

今読ませていただきました

いつものような
日常の中に
パンデミックが
文字通り
いつものように
マスクをして
距離をとり
短時間の会食
そんな景が想像されます
さらに
パンデミックの収束は未だ見えず
いつものように
一変した暮らしの中で
世界中の人々は
淡々と暮らしている
たとえそれが
ウクライナで
爆撃があった町でさえ
やはり
人々は
淡々と生活することを
自然に選ぶ

世界でどんな惨事があろうと
メディアは別として
わたしたちは何もなかったように
今までとは少し違った生活様式を強いられ
細々
愚痴を言い
高齢に近くなる夫婦の
あれこれ
男女のあれこれに
思いを馳せる

生活は芸術だ
と言ったのは現代音楽家のジョン・ケージであり
暮らしを淡々と歌ったのは
高田渡というシンガーソングライターである

表現というのは表現者の生活を嫌でも反映する
この作品の「いつものように」

毎日がそれほど変わりなく過ぎてゆく

ところが昨日とは同じということは
あり得ない
昨日とは違う今日
そこに
作家は注目して暮らしてゆく
実はまったく昨日と違っているのに
人々は「毎日同じことの繰り返し」
と言う
違う
行動もさることながら
心象は常に移ろってゆくのだし
その細部はこの作品でも
極めて穏やかな文体で
語られてゆく
日常とは芸術であり
生活こそ
芸術そのものです

穏やかな日常が描かれいる中で
3年前とは違ったコロナ渦の捉え方が
時の流れの中で
ここまで変化するのか
と驚きさえあります

わたしは以前
目の前を老夫婦が

手を繋いで歩いてゆくのを
見た
その時のことは詩にしてあります

その詩の結びは
『手を繋ぐということ それは許すということだ』
と書いた記憶があります

歳を重ねれば
自然
言葉も少なくなり
喧嘩をする力もなくなり
恨み辛みがあったとしても
自然
許してゆくのが理想だけれど
そうもいかない

あの老夫婦は
冬の景の中に
消えていったのだけれど
やはり繋いだ手と
たった二人だけで歩く先に何があるかなしかは
思わず
冬の裸木
青い空
冷たい風
冷たい手
ニット帽に隠れた耳の温かさ
そんなきれいの景に
老夫婦たちは
馴染み
夫婦だけが手を繋いでいるわけではないかもしれない
自然界と手を繋いでいるのかもしれない
そんなふうにも思えるのは
歳を重ねた人々にしか
与えられない美しさです

それは作品の題である
『いつものように』であることは
間違いないのです

穏やかな作品で
短いけれど
きれいな思いが立ちました

読ませていただき
ありがとうございました

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鈴木友範著 『懐石と弁当と』

2023年01月08日 | 生活

懐石と弁当と

今読ませていただきました

この小説をどんな切り口で
言えばいいのか
建物小説への
『入り口』はあるように思えてないかもしれず
ないようにみえて
無限にあるかもしれない
そんなふうに思います

まず自由というのは
せいぜい40秒しか続かない
といった類いのことを
誰かが言っていた
40秒というのも曖昧な記憶です

つまり自由という概念を思想としてではなく
科学として捉えた素晴らしい言い方だった
その面白さ

もうひとつはやはり
時間の問題になってくるのですけれど
最近
61歳のわたしにしてみれば
現代文学としての
中上健次がいます

ところが最近
未発表の原稿が発見され
「近代文学の貴重な資料」
と新聞の見だしにあったように記憶しています

問題は
現代から近代へと
時代が変わったことへの認識
確かに30年経てば
現代は近代になり得る
そう納得した

現代というのは過去3年のことをいう
誰かがそのような言い方をしていた

時代の速さは
この作品で描かれている
インターネットの普及と比例する

大量生産大量消費という言葉も
聞かなくなって久しく
温暖化という言葉が
現代を通過している

それもやがて通り過ぎるであろう

知人の博物館学者が言っていたことが
想起される
「未来を知りたいのなら古い書物を読め」
ラディカルであればそうなるだろう

作者は現代日本にいる
そこが起点である
冒頭に言葉へに言及があり
久しぶりに言葉の小説を読んでいるという
喜びがあった
加えて
コミュニケーションの多様が
具体的に述べられ
『二次元』という流行言葉が出てくる

スマホとは極めて
非身体的な産物であり
それが日常を覆い尽くせば尽くすほど
人は本能のまま
身体性を希求することを
やめることができない
その確かな身体性さえも
作者はスマホ的な合理性の中に
吸い込まれてしまう
と警笛を鳴らす

証左はタイトルにある
懐石料理もスーパーの弁当も
極めて身体的な欲求であることを
見逃してはならない

構造主義には
当然身体性がない
むしろ
身体性を否定し
人類至上主義を否定するところから
構造主義が出てきた
対極にあるのは原理主義ではなく
現象がすべての思想を覆う

その現象の点滅は
スマホのディスプレイの点滅
または閃光に酷く似ている

10年前の小説を読むと判る
当時の固有名詞はすでに意味を失い
その覚悟の元で
作者は固有名詞を書く

それこそが点滅する現象だからです

常に変わってゆくという美しさが
この作品の低水に流れる音である
その音は水琴窟の如く
耳を澄まさねば聞こえないほど
微小の群の美しさです

わたしたちは作者同様
または主人公と副主人公同様
現代社会で生きている
そこに懐疑があったとしても
そう簡単に田舎に引っ越し
自給自足するわけにもゆかぬ

文明の先は闇だ
と言った人物は誰だったろう


シンギュラリティはあと22年後の
2045年である
それまで人類は人類のまま
この星に生存できているかどうかは
怪しい
悲観しているわけではなく
すでに
身体性を取り戻すしか
未来はない
とわたしは思うと同時に
時代は
後戻りできないのだから
形骸化し
無意味な望みと化す

言葉の問題として
考えれば
どうしても
言葉が持つ
言霊信仰に行き着く他にない

信のない構造主義は
今後も続く
それに変わる主義はない
何故なら
貨幣そのものが構造だからです

実は戦争などやっている場合ではないにも
かかわらず
人々はお金というものを生活の
中心にてやまない

するとどうなるか

温暖化がさらに進み
わたしたちは
未来に息をすることができなくなる
シンギュラリティも無効となる

その一端の現象が
この小説の意味するところであり
それは不毛でさえもなく
確実にわたしたちの暮らしを支える
スマホという名の
生命体であり
それはすでに
身体感覚をも
凌駕して
「人類が向かう闇へようこそ」と
この作品は啓蒙してやまない

未来に希望があるとすれば
それは個々人の解釈の中にあり
それもまた誠である


思考をうながす現代作品でした
未整理のままですけれど
このまま載せます

読ませていただき
ありがとうございました

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北原深雪著 『りんどうの影』

2023年01月08日 | 生活

りんどうの影

今読ませていただきました

素晴らしいですね素晴らしいです

最後にお母様が
素晴らしい存在感で
このお話を結んでゆきますね

日本は信仰がない不思議な国であるような気がしてしょうがない昨今

神道に仏教にキリスト教

それも表層的なものであり
形だけのものであり
形すらなぞってもいない
お祭りだけのものになっている

日本語の中には
仏教用語がとてもたくさんあって
実はそれはあまり知らずに
使っているのですけど
もちろん私もその中の一人なのですけど
日本語の中には
仏教の言葉がたくさん
散りばめられていて
言葉の中に
仏教が入り込んでいるのです


この小説は
二つの大きな
極めて仏教的な
象徴が
配置されています
さらに言えば
山を登る
谷を登るというのは
山岳信仰で修験道の世界でもあるので
あらゆる宗教的な意味を
内包した小説だと感じました

まず仏教的な二つの象徴というのは
りんどうの花と
誰しもが想像しうる
お母様の存在です

りんどうの花に限らず
花は極めて
此岸と彼岸を繋ぐ
大事な一つの要素です

人は生まれた時に花を贈り
人は喜びの時に花を贈り
人は悲しみの時に花を贈り
人は死んだ時に花を贈ります

それだけではなく
誕生日にも花を贈り
求愛の時も花を贈り
結婚記念日にも花を贈り
クリスマスであり
お盆であり
お正月であり
あらゆる冠婚葬祭
の中で
花は人から人へと繋がっていきます

さらに言えば
鬼籍に入った方を思い出している時も
彼岸では
鬼籍の方に
その頭の上から花びらが
舞うという
話を聞いたことがあります

思いというのは
それぐらいに
大切なことなのだと思います

花の意味というものは
まだ私には分かりませんけれど
ある方が言うには
花を買ってくると妖精がいるらしいです
野辺の花にも妖精がいるらしいです

花とは一体
何なのだろうかいつも思います

そして
卒寿を迎えるお母様の存在のお美しさ
既に人間以上の
分け御霊を持った方であるに違いなく
通俗的な言い方を許していただければ
菩薩様なんですよね

菩薩というのは
この世で一生懸命救おうとする仏様のようです
如来というのは実際に救う仏様らしいです

此岸から彼岸へ届く花と
菩薩の手が乗せられたその頭の表面には
目には見えない
わずかな光があったのではないでしょうか

この小説は
痛ましい
人の生き死を
扱っているようにみえて
実は
人が人を救済する小説だと感じました
それも
『赦し』
という極めて重要な
宗教的においても
極めて重要な
言葉を内包した
救済の物語です

どんなに辛いことや
苦しいことがあっても
いつか時が経てば
それは御仏の加護の中にある
そう感じた

最後に
山の中の谷の風景
その中に入っていく人間の業
それこそが山伏であり修験道の
『道』であります

舞台になっている場所はすぐ上に
秩父三山があります
秩父三山とは熊野に続く
修験の山であります

日本各地
アジア各地に
修験の山はたくさんありますけれども
大きな代表的な山岳の付近で
物語が紡がれてゆく
修験から
後に真言密教の代表的な開祖となる空海は
山奥で修験道の人たちとともに
真言を唱えて
荒行に次ぐ荒行を行い
学びます

また修験の所に鴉や狐が
教えを請い
鴉は天狗道になったり
狐は狐道になります
具現化されたものは
京都は伏見稲荷大社ですね

熊野も全く同様です
どこのお山も
山頂付近に行けば
神仏習合となってくる

そういう意味で考えると
作品冒頭の
場所さえ重大な意味を持つ
彼岸と此岸があり
紫色の花が手向けられ
菩薩に救われる

これは
優れた宗教小説といっても
よろしいかと思います

読ませていただき
ありがとうございました

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

有芳 凛著 『シュリン』

2023年01月08日 | 生活

シュリン

今読みました
面白かったです

最後の方になると
どうなるんだろうなと思ってたんですけど

カレーの鍋をかき混ぜている自分がいる

主人公が見る

そしてひかりの輪の中に
ランタンを持った老人の群れが照らし出される

時間というのは人間が便宜上作ったものです
本来は時の流れというのはないですね

この一瞬一瞬の連続の中で
時間という定義は社会必要不可欠の中の定義であって
異なった空間では
全く通用しない

この目が見たことが
本当であり
本人が
見た
感じた
触った
聞こえた
というのが真実です

ニーチェの言葉で

『真実はない解釈だけがある』

というふうに言っていまして
私は大好きな言葉です

この小説を幻想小説だ
と言ってしまえば
それまでであって

主人公が
というか主人公の目が
見たものが
本当の出来事なんです

みんな言葉の世界を
架空のものだと言うけれど

実は違う

作者本人が
架空のものであるというふうに
思って書いたものであっても

読んだ人が
それは本当だ
って思えば
それは本当になる

それが
個々人の読者の解釈です

『無何有の郷』

と言ったのは
老子だったか孔子だったか

つまり
桃源鄕と
同じような意味なんですけども
この漢字を
ご覧になってください

無何有の郷

何もなくて何でもある

これが東洋思想の深さです
儒教の色めきです


日本の禅を世界に広めた鈴木大拙は
ヨーロッパの大学で講義をしました
キリスト教についてです

エデンの園で
りんごを食べてしまった
禁断の果実を食べてしまった
アダムとイブは

エデンの
園を追放される

鈴木大拙は
キリスト教を主とする学生たちに問います

「だったらアダムとイブはどこへ行ったんだ」

誰も答えることができなかったそうです

鈴木大拙は続けます

西洋思想ではそこで終わる
ところが東洋思想というのは
もっと奥まで答えることができる

キリスト教なしでは
文化も何も言えないという
欧米において
東洋思想の凄さを説いたのです

この作品の中に
何が本当で何がそうでないのか
ということは全く愚問であり
大事は
その東洋思想の一風を
物語小説にした事の意味です

私はそんなことを
考えながら
社会で通用するモラルというものは

異なる世界では全く通用せず

新たな価値観であり
空間性であったり
瞬間性であったりする

この世で
偶然とか奇跡といわれるものは

異なる世界では当然の出来事

そんなことを彷彿とさせる作品でした

読ませていただき
ありがとうございました

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新年の挨拶

2023年01月04日 | 生活






あけましておめでとうございます

本年もどうぞよろしくお願いいたします

近況は

Twitter

Facebook 


更新しております

このブログは今後
短詩
長編叙事詩

作品公開に
限定させていただきます
どうぞよろしくお願いします



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする