チャコちゃん先生のつれづれ日記

きものエッセイスト 中谷比佐子の私的日記

着物が繋ぐもの 389

2020年11月25日 10時38分04秒 | 日記

昭和20年から私たちは「嘘」の世界にどっぷりはまっていたということが、この度のアメリカ大統領の選挙で理解できた

ありがたいことに

着物のことを追求し始めて「何か変」ということがたびたび起きた

東京の染織地図が一気に変わったのは「朝鮮戦争」だった

狭山地方はお茶畑にあふれていたが、その地方は養蚕の産地でもあった

村山大島は東京っ子の蚕が活躍していたのだ

初めて八王子の養蚕農家を取材した昭和30年代はあちこちに桑畑が在り、養蚕農家の作った繭を信州飯田の製糸会社に届けるトラックに乗って、ずっと桑畑を見ながらドライブした

その後40年代になるとその桑畑のほとんどは花畑に変ぼう、飯田界隈はリンゴ畑になった

 

絹にかかわる多くの人達が着物のもとである蚕の飼育を絶やさないようにとかなり頑張っていたのだが、農地に農薬を使うようになって次々に桑畑は閉鎖されてしまった

 

あの朝鮮戦争が盛んな時が蚕の受難の始まりで、ま夜中に立つ軍用機の音に蚕はおびえて繭を作らなくなったと聞いた

東京の蚕は朝鮮戦争の犠牲になった

村山大島の生産も廃れ八王子のウール生産や浴衣の生産も年々少なくなり、ほとんどは石油繊維にとって代わった

 

そういう東京の絹が無くなるのを憂いて、チャ子ちゃん先生無謀にも東京の絹50反を購入し「旅立ちの祝い衣」という企画を立て、東京友禅の作家たち20人に2枚ずつ中には三枚の方もいて、西行の「願わくば花の下にてーー」という歌をテーマに染めていただいた

新宿高野のギャラリーで企画発表をしたら連日満員、朝日,毎日、東京新聞に取り上げていただき、おかげで着物も8割売れて大きな赤字を背負うこともなかった

 

面白かったのは某国営放送、若い担当者は大喜びで取材をしたが「旅立ちというのが死に装束」ということで上司が激しく反対して没になった。すまなさそうな顔をして謝りに来た

しかしその方のおばあさまが「私の旅立ち用」にと求めてくださった

 

友人のお母さまが亡くなったとき、お棺の上に旅立ちの祝い衣をふわりと載せて、その日が満月の夜で、集まった方が西行の歌を詠んだ

 

国産の絹をみんなが身にまとうのも50年代が最後だったのかもしれない

着物のもとは農業、農業の変わり方が着物の世界にいち早く変ぼうをきたした

「何か変」という感情が日々強くなってこんにちがある

 

日本は自然との共存共栄に戻れるだろうか

日本人ほど自然とともに生き、自然を敬愛した民族はいないのだけど

アメリカの大統領選挙が世界をひっくり返し、「嘘」の通用しない世の中に代わっていく気がする

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする