千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  TB&コメントにも☆

ETV「東と西のはざまで書く~ノーベル賞作家オルハン・パムク」

2008-07-14 22:38:06 | Nonsense
読売新聞の購読者の方は、ノーベル賞受賞者によるフォーラムで大江健三郎氏との対談が紙面に掲載されていたからご存知であろうが、2006年にノーベル文学賞を受賞したトルコの作家オルハン・パムク氏が、5月にこの日本を訪問していた。7月13日にNHK「ETV」では、京都を訪問したり、大江氏や石牟礼道子氏と対談するパルク氏を追った特集が放映された。

ストライプシャツに濃紺のダーク・スーツを着こなすオルハン・パムク氏は、日本人の目から見たら、欧米人と区別がつかないだろう。しかし、パムク氏は、東西文化が交錯する首都、イスタンブールに生まれ、現在もこの町に書斎を構えている。ノーベル賞受賞のきっかけとなった代表作の「雪」(02年)は、国内では比較的最近出版されたが、世界49ヶ国で出版されている。評価の高い理由として、9.11後のイスラム過激派の動きを預言していると言われているところにある。また、パムク氏これまでタブーだったトルコ人によるアルメニア人虐殺を認める発言で、群集から危うく袋叩きにされそうになる映像も紹介された。

旅行に行くと必ず立ち寄るという古書店を、東京は神田の街を散策し、大好きな作家の谷崎潤一郎の本を早速見つける。政治の世界に背を向けて、ひたすら美しい様式に満ちた世界のみに耽溺した谷崎の文学に、自身の立場を重ねるところがあるのだろうか。移動中、デジタル・カメラでしきりに目にとまった風景を写真に撮る。日本に滞在中に、パムク氏が撮った写真は1000枚以上にも及ぶ。どの写真も、鮮烈な印象があり、パムク氏の知性と感性の鋭さにふれたような思いがする。若い頃、画家を志したこともある美術に関心の高いパムク氏によると「我、見る。ゆえに、我在り」ということになる。

京都では、襖絵の工房を訪問する。京都の伝統の奥の深さに、私自身もあらためて感じ入ったのだが、ノート・パソコン程度の大きさの型に刷けで色を塗って一枚一枚、紙に染色し、手作りで襖絵を制作する工房には、代々受け継がれたその型が640枚以上も備蓄されている。型の模様から、唐や、それこそもっと遠い異国の文明の影響がうかがえる。さらに、絵の顔料を売っているお店も訪れ、豊かな色彩の海の中から、鮮やかな紅を選び、その色が小さな小さな虫をつぶして色を出していることをあてる。
一躍世界的にパムク氏の名前を知らしめた出世作の歴史小説「わたしの名は紅」(98年)は、主人公を「紅」という色においたミステリー仕立ての小説であることが、紹介される。「わたしの名は紅・・・」と小説の中の数行がナレーションで流れたのだが、その文章の独創性と華やかさに、私はビールを呑んだ後の日曜日のゆるみきった脳髄を思いっきりしびれさせられたような気がした。
この本、絶対読まなきゃ・・・。

ドフトエスキーにとってのサンクトペテルブルグのように、パムク氏にとってはイスタンブールは特別の地になっている。
「私は現実の世界に閉じ込められた囚人」というパムク氏の言葉に、「雪」の主人公Kaや加賀乙彦氏の「フランドルの冬」を思い出した。そして、トルコの諺から「人は苦悩したときに何かを求めて旅をする」と「人は旅をしても何も変わらない」という言葉に、パムク氏の複雑な思いと諦観をみたような気がする。

■アーカイブ
・「雪」
・ノーベル賞作家パムクの政治小説
本題の主旨とは離れるが、売れる本を出版する幻冬社とは一線を画し、国内では知名度も低く確実に売れないとわかっていたオルハン・パムク氏の本を出版した藤原書店の社長、良質の本にこだわる藤原良雄氏に感謝を申し上げたい。

『近距離恋愛』

2008-07-13 11:17:19 | Movie
先日、大学時代の友人と久しぶりに呑んだ。いつもの辛口ガールズ・トークの話題が、いつしか残業で急遽欠席となってしまったAちゃんの学生時代の恋愛タイケンに・・・。あんなに親しかったAとD君が、結局友人以上にその関係は進展せずに、D君は卒業後、予定どおり家業を継ぐために実家のある地方に帰っていった。この事実をもっとも残念がったのは、Aの母親だったという、その隠された?真相をはじめて私は知ったのだが、友人曰く「友人以上、恋人未満って難しいのよね」
そうなのか?!

トム(パトリック・デンプシー)とハンナ(シェル・モナハン)は、大学時代からの親友。(以下、内容にふれております。)
大学時代からの10年来の友人としてのつきあいが続く。美術を専攻してメトロポリタン美術館の学芸員として地道に着実に仕事をこなす努力家のハンナと違って、病院長のパパをもつトムはちょっとした発明からえる知的所有権の対価の報酬から、時間とお金に余裕のあるモテモテのプレイ・ボーイ。「愛している」という言葉を大切にするハンナと違って、間違っても女性に「愛している」なんて絶対に言わないのが、トム流のルール。
そんな対照的なふたりなのだが、だからこそなのだろうか、とっても気があい、双方の親達からの信頼もあつい。しかし、トムの友人たちはそんなふたりの親友同士の関係に疑問をもっていた。ハンナはいい女だし。トム、本当に親友のままでいいのかっ?
そこへ、ハンナに6週間という長期に渡るスコットランド出張の業務命令。長年の夢を実現したハンナを待っていたのは、スコットランドの王子、公爵との運命の出会いだったのだが・・・。

男女の間で友情は成立するのか。

こんな人類の永遠のテーマとも少し違うと、私は考える。このテーマでの最高傑作は、メグ・ライアンとビリー・クリスタルが共演した映画『恋人たちの予感』だと思うのだが、本作品は長年の親友だと思っていた女性が自分の元から去っていくことになって、初めて自分の感情に気がついてしまった男の、その後の非のうちどころのない婚約者から彼女を奪い返すための奮戦記である。
ハンナは、とっくに自分のトムへの感情に気が付いていたのだけれど、ふたりの友人関係を壊したくないがために、気が付かないふりをして恋する感情を封印していたのではないか。まるで、D君のようなハンナ・・・。そんなハンナの心のゆれに鈍感Aと同様、全く無頓着で、次々と色ケもありおしゃれで連れて歩くには見栄えの良い女性たちと寝るトム。けれども、それほど美人でもないハンナの方がずっと魅力的に私にも思えてくる。素朴で品のよい服装、そして笑顔がよいのである。性格美人って、本当にあるよね。
舞台は、NY、本が壁一面に並ぶ夜景の美しいトムの部屋から、スコットランドのロマンチックな夏の古城へ。
知的なお仕事とお姫様願望という女子の願望を満載した映画だから、内容の深みはともかく、映画館は30度をこえる猛暑にふさわしい避暑地となる。また、米国人の考える伝統と保守、その一方で田舎くささというスコットランドのイメージも推察される。

『近距離恋愛』の映画に関連してアンケート調査の結果、「男女の間で親友ってあり得ると思う?」という質問に対して、87%があり得ると答えている。親友だった異性と付き合った経験という問いには54%がYESと答えた。
友達と恋人の違いは、60%の人が「キス」をするかしないかをわかれめとしている。
「キス」にもいろいろある!
私としては、厳密に言えば『フレンチ・キス』ぐらいまでは、友人としての臨界点としてゆるせると感じているのだが。

『12人の優しい日本人』

2008-07-10 23:20:59 | Movie
あなたは、人を裁けますか?
「平成16年5月21日「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」が,成立し,平成21年5月21日から裁判員制度が実施されます。
裁判員制度とは,国民のみなさんに裁判員として刑事裁判に参加してもらい,被告人が有罪かどうか,有罪の場合どのような刑にするかを裁判官と一緒に決めてもらう制度です。
 国民のみなさんが刑事裁判に参加することにより,裁判が身近で分かりやすいものとなり,司法に対する国民のみなさんの信頼の向上につながることが期待されています。国民が裁判に参加する制度は,アメリカ,イギリス,フランス,ドイツ,イタリア等でも行われています。」―最高裁判所のHPより

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もうじきはじまる裁判員制度。その裁判制度がスタートする18年前に「東京サンシャインボーイズ」による戯曲を映画化したのが、本作品である。日本にも陪審員制度(裁判員制度ではない)があったなら、という仮定に基づく法廷劇である。勿論、脚本があの三谷幸喜氏だから、『12人の怒れる男』で理想を描いた本家本元のような自由と民主主義の勝利を詠うパワフルな正義感溢れる映画、なわけがない!

事件の被告人は、若くてなかなかきれいだがどうも男運がないらしいヤンママ。被害者は、彼女の元ダンナ。偶発事故による交通事故なのか、それとも計画的な殺人事件なのか。無作為に選ばれた日本国籍で選挙権を有する健康な成人が12人、陪審員として一室に集められた。陪審委員長を務めるのは、陪審員1号、40歳の体育教師。(でも、女子高だから、妻は元教え子だろうか。)いかにもそれらしき髪型にブレザーを着て、日に焼けた肌に精悍な顔立ちに体格もよし。そして28歳の黒ぶちめがねのサラリーマンの2号、49歳の喫茶店店主から30歳のスーパー課長補佐まで、それぞれ勝ってなことをすき放題に言い放題。有罪か無罪か。激論、無関心、日和見主義、無責任、適当、同情、敵対心、被害者に対するもてない男の嫉妬、リーダー争いや逃亡を企てるものもあり、それぞれの感情がおさえようもなく、人格がかくしようもなくあらわれていく。会議は踊るというよりも乱闘もようの混戦状態。果たして、全員の総意が一致する合理的な結論はでるのか。。。

本作品は、優れた脚本とリアルな演技力、個性的な役者たちのキャラクターの勝利である。決して、民主主義の勝利、なんて間違っても勘違いしてはいけない。12人が全員、いるいるこういうヒト!という平凡で市井に生きる日本人の典型的なカオを演じているのである。61歳の元信用金庫職員の4号・・・ネクタイのかわり温泉のおみやげのようなループタイにめがね、ズボンのベルトの位置はちょい高め、かと思えば、体にあった軽めのスーツに趣味のよいアスコットタイをしめて理路整然と話す、気取った感じの51歳の歯科医の陪審員9号、甘いしゃべり方をして花柄ふんわりワンピースに大きな麦わら帽子のちょい太めの女性は音大でピアノを弾いていた団地妻・・・。職業とバックグランドが、個人を形成していくのか、或いは個人が職業を選択し、バックグランドを背負っていくのか。ここで私が感じた典型的のステレオ・タイプの日本人だからこそ、観客の共感性と笑いをすくいとる本になりうると考える。クリーニング屋を営む50歳の女性が、エルメスのバッグをもって被告人が無罪となる論理的根拠を堂々と論じて説得できたら、映画は失敗におわるだろう。トヨエツ演じる眉が細いサングラスの人物が最初は弁護士と偽って、その意外性が物語の中核となっていくのだが、結局、本当は役者だったという設定もお約束どおり。舞台人らしい、カタチからはいる演技に最初は慣れないが、気がつけば大笑い。うまい!さらに、みんなの共感性をつき、なんといっても巧みな人物描写をセリフにしたためた三谷氏は、誰よりも冷静な陪審委員長なのだ。

そして、結局、議論はつくされた。その結論が正しいかどうかはわからないが、あなたは人を裁けるだろうか。そして、米国のような陪審員制度ではなく、日本は裁判員制度を採択したのだから、有罪か無罪かだけでなく、量刑まで決めることができるのだろうか。
劇中で、「12人の民意は、ひとりの裁判官より優る」という会話があったのだが・・・。

『ロリータ』

2008-07-08 23:02:08 | Movie
「コンプレックスとは、無意識に存在して、何らかの感情によって結合されている心的内容の集まりが、通常の意識活動を妨害する現象を観察し、心的内容の集合を、感情によって色づけられた複合体(ユングが名づけた)を略して、コンプレックスという。(河合準雄著「コンプレックス」より)」

ある霧の深い日、パリからアメリカに移住した大学教授のハンバート(ジェームズ・メースン)は、新進作家のクィルティ(ピーター・セーラーズ)の豪勢な自宅をある目的をもって訪問した。ランチキ・パーティの後の乱れきった室内で、二日酔いの主人、クィルティを見つけると、ハンバートは尋ねた。
「ロリータを知っているか」
社会的にも認められ、教養ある知識人のハンバートの心の住人は、たったひとりの美少女ロリータ(スー・リオン)、彼女がすべてだった。ロリータと一緒にいたいがために、全く女性として魅力を感じていない中年太りの未亡人の母親とも結婚したのだった。やがて、ハンバートはクィルティに銃を乱射した。

世の殿方にとって完全に趣味の領域として認知された「ロリータ・コンプレックス」の原型となったロシア人作家ウラジミール・ナボコフのベストセラー小説を、スタンリー・キューブリックが監督して1962年に制作されたのが『ロリータ』である。あの!!キューブリック監督だし、しかも遺作となった『アイズ・ワイド・シャット』と同じ原作者ナボコフとの組み合わせときたら、私でなくとも当然18禁耽美派エロスを期待してもいいでしょ。ところが予想外にこの映画は・・・、実はコメディだった。禁断の性愛場面なんか、全くない。しいて言えば、義父と娘のふたりの関係がご近所からも不審がられるような共同生活を送ることになり、ハンバートがロリータの足の爪にマニュキュアをぬってあげるシーンが、唯一親子ほどの年の違いにも関わらず男と女としての愛欲生活が妄想、いや想像できる。

ハンバートの性格描写としては、生真面目、誠実、几帳面、しかし学究肌の学者にありがちな粘着質の偏執狂的な側面もある。ひとめ見て、15歳のまだ少女とも言えるロリータに狂ってしまったのだ。但し、このハンバートが日本人のオタクが情熱をもって愛するロリコン趣味とは少々違うのが、彼は離婚歴があり、それまでは成熟したオトナの女性と恋愛してきたのであって、少女専門というわけではない。たまたま恋に落ち、人生を破滅してしまった原因になった女性が、まだ少女だっただけである。ロリータが、中年女性になってもハンバートは彼なりに愛することができただろう。成人女性とちゃんと恋愛ができる自信がなく、肉体的にも精神的にも支配できるこどもしか相手にできない虐待するような犯罪とは全く別モノである。分別のあるいい年をした中年男性が、40歳の曲がり角で若さに固執する恋愛は、少女の方が上手だった。

そして、ロリータを演じた当時14歳のスー・リオンは、男性だったら誰もがハンバード状態になってしてしまうのではないかというくらい、ほっそりとしてとってもとっても美少女。重要な点としては、このタイプの美しさに名門進学校にご入学できそうな学力はあってはいけない。気ままで陽気な母親のひとり娘に育てられた環境からくる、その場かぎりの生き方、コーラを愛飲し、いつもガムをかみ、ランチをフライド・ポテトですませられるようななにも考えていない、精神年齢が幼くただきれいなだけの女の子。その一方で、性愛に関しては年齢以上にススンデイル。実生活のスー・リオンは本作品で一躍アイドルになったそうだが、その中身のない美しい容姿の危うさのとおり、17歳で最初の結婚をし、その後何度も離婚を繰り返し、結局、その外見をいかした女優として活躍することもなく、まさにロリータと同様、安定した幸福とは無縁の人生をおくった。

鬼才、キューブリックの手腕に感服したのが、少女に固執する中年男の異常と狂気を心理的にエロく描くのではなく、知識階級のヨーロッパの紳士がヤンキー娘に翻弄される哀れさをユーモラスに諧謔に満ちて描いた点であろう。冒頭のクィルティとハンバートがピンポンをしながらするかみあわない会話など、言葉遊びの巧みさと演出がさすがにキューブリックとこの場面を繰り返して観てしまった。
再会したロリータが妊娠をしていて、生活力のない若い男性と転職のためのお金をハンバートに無心する姿は、私からすると諸行無常の鐘がなる・・・趣がある。そんな少女ももう還暦の年齢をこえた。いかにも、というその後のロリータの姿である。

監督:スタンリー・キューブリック

「フランドルの冬」加賀乙彦著

2008-07-06 10:13:10 | Book
フランスの北部、ベルギーに近いフランドル地方の精神病院に留学中の日本人コバヤシは、医師として勤務しているうちに、異邦人としての孤独に陥り、この地を包む閉ざされた霧のなかで、狂気と正気の淵に落ちていくのだったが。。。

本書が出版されたのは昭和42年(図書館でかろうじて平成2年14版を発掘)、40歳を目前にひかえた加賀乙彦氏の処女作である。処女作でありながら、これほど人間の孤独な内省と根源を怜悧にえぐりだした作品は、国内の小説にはあまりないだろう。小さな活字が、行間もせまくびっしりと並んでいる480ページもの長編は、ページをめくるうちに読者までも緻密で深い彼らの心の動きとともにフランドル地方独特の空気の匂いすら感じさせて、非のうちどころのない完璧さである。

「さあおいで。子供たち(メ・ザンファン)」
クリスマスをひかえた朝、医長資格試験を突破して医長になったばかりの勤勉だが世俗的なかんしゃくもちの医師、エニヨンのこんなかけ声で物語ははじまる。やがて「広き空に雲のなき空はなし」という家庭夫人として充実している妻のスザンヌによる長男の発熱の心配、今夜のクリスマスの準備や招待客の選別を通して、登場人物たちがそれとなく紹介される形式となっている。この導入部分が、やがて登場人物の相関関係をひきだしながら彼ら、彼女らの孤独な魂と、きっちり最後の終焉に結びついていく。主人公のコバヤシがこの寂しい地にやってくるきっかけとなった唯我独善として世辞を超越している貴族出身の独身医師ドロマール、彼と同様、非現実的で形而上的な存在であり、行動しか信じず誰も愛さないミッシェル、利己主義的な欺瞞の仮面をつけているような同僚のブノワや、わがままで刹那的な美しい看護婦の恋人ニコル。
彼らや患者との交流を通して、コバヤシの内面は躁と鬱状態がくりかえし、何が正常で異常なのか、その乖離があいまいとしていくのだが、この小説で秀逸なのが、きっかけがひとり「外国人」であるという彼の異邦人としての立場からはじまるものの、現代に生きる者すべてが「異邦人」であるという永遠の普遍性につながるところである。圧巻なのが、ヨーロッパそのものの怪物のようなドロマールが、知恵の遅れた美少年を治療と称してひそかに抱いていて罪を問われた時の言葉である。

「この世界は、愚劣で無意味、退屈である。この世は巨大な牢獄で、わたしたちすべては無期徒刑囚なのだから。死という予測不能な終末までの時間を牢獄の陰鬱な壁の中に拘禁されている存在だ」

ドロマールは、長広舌を夢見るような微笑で語りながら、わずかながらも科学を愛し、少年を愛した事実を認め、愛の裏側にあるのは憎悪ではなく、ただ不安、永劫に癒されぬ人間の不安だと一気にまくしたて、また静かに研究のために顕微鏡を無表情にのぞきはじめた。精神科医として権威があり学識の深いドロマール、アルジェリア戦争で傷つき深淵に黒い炎をかかえるミッシェル、恋人のニコルすら、自己のアイデンテティを確立すればするほど、自己と他者の知性と魂は離れていく。これは、近代国家に生きる者の宿命なのだろうか。
この小説にあかるさや救いはない。あるのは、精神病院、家庭という収容所を何事も無事に運営していく知恵ばかりである。

「人類が消えた世界」アラン・ワイズマン著

2008-07-04 19:31:50 | Book
もしも或る日、人類が忽然と消滅してしまったら。核爆発、惑星衝突、氷河期の到来、致死的ウィルス、、、。いや、正確に言うと、人間だけが消滅したら、という仮定である。友人によると、完全に消滅することはなく、ほんのわずかな人間はたいてい生き残る”はず”なのだそうだが、SF小説でも映画でも、人類消滅までのシナリオはあるが、本書は誰も想像しなかった、むしろ人類が完全に消えた後の地球はどうなるのか、という科学的シュミレーションをした本である。

真っ先に水没するのが、ニューヨークの地下鉄である。毎日、地下鉄のトンネルが約5000万リットルの水に飲み込まれないよう定期的に監視してメンテナンスをしていた人間がいなくなると、あっけなく排水機構が停止して地下鉄が水没して、36時間以内に街全体は水浸しになるだろう。それもそのはずである。もともと起伏に富んでいたマンハッタン島を押し潰し川床に捨てて、土地を拡張してあの壮観なビルが林立する都市を形成していたのだから、閉じ込められていた水の報復がはじまるだけなのだ。やがてブルックリンの橋は落ち、ビルが劣化して火災が発生し、すべての建築物が崩壊して、雑草が生い茂り野生の動物がかえってくる。人類の痕跡は、ゆるやかに後退していく。
その一方で誕生して50年しかたっていないプラスチックは、プランクトンの6倍もの重量となって海の表層を漂っている。これらプラスチック原料のナードルと呼ばれる微粒子は、年間5500兆個、約1億1350万トン生産され、海鳥やクラゲが食料と間違えて体内にとりこんでいる始末である。プラスチックを分解できる微生物が登場するまで、10万年もの長い長い気が遠くなるような時間を要する。さらに441ヶ所に設置された原子力発電所は、しばらく自動運転するものの、次々とオーバーヒートして燃焼したり溶解していき、大気中や近隣の水域に膨大な量の放射能が拡散していく。残存期間は濃縮ウランの場合、地質的な長さに及ぶ。

これまで、人間が自然に対して大きな負荷を与えてきた実態が、明々白々となる。反省すべきことがあまりにも多し。しかし、本書が古来より日本人の健康と成長を維持してきた鯨肉を配送所から自己中心的に持ち出した「緑豆」なる環境保護団体や、流行としてブランドもののエコバッグを買いに走る奥様向けかと思いきや、著者がインタビューする様々な分野で働く人々や研究者の意識や発言は、実に多くの示唆に富み、また意表をつかされ深遠に満ちているのである。たとえば、生物学的時間が尽きてもなお一部のプラスチックが残る可能性について、環境におけるプラスチック分野の預言者とも言うべき研究者によると、隆起と圧迫によってプラスチックは別のものに変化することになる。
変化こそ自然の特質であり、変わらないものなど、なにひとつない」と。

「そして、皮肉なことに人が人工的に森や自然を管理して環境を保護するよりも、むしろなにも手入れせずに放置した方が生物や自然にとって好ましくありがたいという事実。管理されてこなかった森は、10倍もの生物の多様性があり、これは森そもののが何千年にもわたってみずからを完璧に管理してきたことを示している。このような自然の驚異の前には、自然を壊滅させていながら今度は”保護する”人類の驕りする感じさせられる。

また著者のリサーチは幅広く、人類の誕生から、数ヶ月に渡って辛抱強くオスを一頭ずつ始末して最後に縄張りとメスを手に入れるチンパンジーの生態から、人間の民族間の対立による虐殺の考察まで、ジャーナリストが科学する視点からなる小気味のよい刺激はユーモラスすら感じさせられて、読んでいて興味がつきない。
放射能汚染地帯に生息するハタネズミは寿命が短くなるかわりに、性的成熟と出産を早めて帳尻をあわせて、結果、生息している総数が減少していないというエピソードは、世界一の長寿である日本人女性の晩婚化や独身比率の高まり、出産数の減少を説明できるではないか。あんなに長生きできれば、なにも結婚という形態をとる必要もないし、高度な医療のおかげでひとりっ子でもこどもを失う心配もまず杞憂におわる。かくして我が国の娘は、なるべく長く姫状態を維持していくことになる。一方、ハタネズミのメスは日本人女性と事情が異なるから、自然は選択のスピードをあげ、次々と世代交代をくりかえし放射能により強い固体が生まれる可能性を求めているのかもしれない。

おおいなる自然に何度も感銘をうけるのだが、50億年の時が過ぎれば太陽が膨張してこの地球は燃え尽きて死を迎える。こうして、人類の軌跡は完全にとだえてしまうのか?人類が消え、地球も消滅して、その後はSF小説のような素敵な終わり方である。

本書は、「TIME」誌による2007年度ノンフィクション部門のベスト1に選出されたが、著者の世界中に及ぶ多くの専門家の意見を聞くフィールドワークによる発想の豊かさとが、通常のノンフィクションをこえる魅力となっている。しかも著者のシナリオは、単純な環境問題の善悪とは少し異なる。自然にとっては、そして地球にとっては、人類もひとつの生物種に過ぎないことを本書で悟るだろう。

自転車のように

2008-07-01 22:46:11 | Nonsense
先日、転職して職場を去った元同僚からメールがきた。
「R25」の今週号の石田衣良さんのエッセイを読みましたか。
私が、「R25」で真っ先に読み、また読ませられるのが最後のエッセイであることを覚えていたのだろう。先日の秋葉原無差別殺人事件の犯人が、まさに25歳だった。あの事件によせて、K君宛ての石田さんらしい若者を勇気付けてくれる理想的なエッセイだった。本当に、石田さんの文章はいつもうまく、しかも的をえている。けれども、私は今回はなかなか共感を覚えなかった。率直に言って、石田さんの論理は非のうちどころもなく正統であるけれど、こういう言い方は不適切で好ましくないが、「勝ち組」の説教をなんとなくうっとうしく感じてしまう。
石田さんは、元祖フリーターとして、雑誌の編集の仕事で食べていた。しかし、石田さんは大学を卒業して広告制作会社の正社員として、給料をもらいながら社員教育を受けて人脈を築き、準備を整えて自らのぞんでフリーターになったのだ。
「友達はみな正社員だった」
石田さんはそう言うが、昔は、中卒から喫茶店のウエイトレスになった人も一応正社員だった時代だ。石田さんは夢があったから、それを実現するために会社を退職した。石田さんたちの時代と異なる、3人のうちひとりが非正規雇用という時代で、「25歳の若者」というくくりで一概に語るのは、いかがなものかと。人生に不安を抱える非正社員の若者にとって「勝ち組」の理想論をかざした説教は、通用しないのではないだろうか。

ところで、私が愛読している「選択」に精神科医の遠山高史さんのエッセイが連載されていたのだが、「負け組も状況を変えられる」というタイトルにひかれて再読した。脳の伝達情報にグルタミンがあるが、この物質は標的となる細胞に対して矛盾するふたつの情報の伝達に関与する。受けての細胞は、相反する情報の間をゆれながら、いずれかの処方を決めていく。なるほど、生体は、かように複雑なバランスの上に成り立つ多面性のある平衡状態にある。しかし、現代社会は、多様な価値観を受容しがたく、○か×かをはっきりし、一方を排除しようという意識が高まっている。たとえば、メディアはドラマチックに一方で美談を演出しながら、その相反する適役探しにも余念がない。どちらかを賞賛すれば、一方を切り捨てていく。複雑で過密な社会においては、物理の法則のように互いが排斥しあい、人は、結局負け組になりたくないから、多様な価値観を捨て、勝ち組のその他大勢の単一の価値観に従がっていく、というのが遠山氏の感想である。
遠山氏は、趣味の絵のデッサン用に鼻の欠けた女神の石膏像を半値で買った。その鼻の欠けた部分を修復したら、平凡な石膏像がかけがえのないたったひとつの女神となった。生かしたのは、能動的な手作業だった。

私の率直な感想に、就職氷河期の真っ只中に世に出た友人は、それでも石田さんのエッセイのような「御伽噺」を支えにしなければやってられない、と返信がかえってきた。わかっちゃいるけれど・・・。
私たちの脳の神経細胞は、グルタミンの活動せよという信号に従っている。私は、素敵な石田さんの完璧な励ましよりも、遠山氏のこんなさりげない言葉の方がより現実的に身にしみるのさ。
「生き物の動的平衡は自転車のように前身する限り保てるものであり、その限りでいかなる状況をも一歩せんじることができる」とね。