千の天使がバスケットボールする

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『ロリータ』

2008-07-08 23:02:08 | Movie
「コンプレックスとは、無意識に存在して、何らかの感情によって結合されている心的内容の集まりが、通常の意識活動を妨害する現象を観察し、心的内容の集合を、感情によって色づけられた複合体(ユングが名づけた)を略して、コンプレックスという。(河合準雄著「コンプレックス」より)」

ある霧の深い日、パリからアメリカに移住した大学教授のハンバート(ジェームズ・メースン)は、新進作家のクィルティ(ピーター・セーラーズ)の豪勢な自宅をある目的をもって訪問した。ランチキ・パーティの後の乱れきった室内で、二日酔いの主人、クィルティを見つけると、ハンバートは尋ねた。
「ロリータを知っているか」
社会的にも認められ、教養ある知識人のハンバートの心の住人は、たったひとりの美少女ロリータ(スー・リオン)、彼女がすべてだった。ロリータと一緒にいたいがために、全く女性として魅力を感じていない中年太りの未亡人の母親とも結婚したのだった。やがて、ハンバートはクィルティに銃を乱射した。

世の殿方にとって完全に趣味の領域として認知された「ロリータ・コンプレックス」の原型となったロシア人作家ウラジミール・ナボコフのベストセラー小説を、スタンリー・キューブリックが監督して1962年に制作されたのが『ロリータ』である。あの!!キューブリック監督だし、しかも遺作となった『アイズ・ワイド・シャット』と同じ原作者ナボコフとの組み合わせときたら、私でなくとも当然18禁耽美派エロスを期待してもいいでしょ。ところが予想外にこの映画は・・・、実はコメディだった。禁断の性愛場面なんか、全くない。しいて言えば、義父と娘のふたりの関係がご近所からも不審がられるような共同生活を送ることになり、ハンバートがロリータの足の爪にマニュキュアをぬってあげるシーンが、唯一親子ほどの年の違いにも関わらず男と女としての愛欲生活が妄想、いや想像できる。

ハンバートの性格描写としては、生真面目、誠実、几帳面、しかし学究肌の学者にありがちな粘着質の偏執狂的な側面もある。ひとめ見て、15歳のまだ少女とも言えるロリータに狂ってしまったのだ。但し、このハンバートが日本人のオタクが情熱をもって愛するロリコン趣味とは少々違うのが、彼は離婚歴があり、それまでは成熟したオトナの女性と恋愛してきたのであって、少女専門というわけではない。たまたま恋に落ち、人生を破滅してしまった原因になった女性が、まだ少女だっただけである。ロリータが、中年女性になってもハンバートは彼なりに愛することができただろう。成人女性とちゃんと恋愛ができる自信がなく、肉体的にも精神的にも支配できるこどもしか相手にできない虐待するような犯罪とは全く別モノである。分別のあるいい年をした中年男性が、40歳の曲がり角で若さに固執する恋愛は、少女の方が上手だった。

そして、ロリータを演じた当時14歳のスー・リオンは、男性だったら誰もがハンバード状態になってしてしまうのではないかというくらい、ほっそりとしてとってもとっても美少女。重要な点としては、このタイプの美しさに名門進学校にご入学できそうな学力はあってはいけない。気ままで陽気な母親のひとり娘に育てられた環境からくる、その場かぎりの生き方、コーラを愛飲し、いつもガムをかみ、ランチをフライド・ポテトですませられるようななにも考えていない、精神年齢が幼くただきれいなだけの女の子。その一方で、性愛に関しては年齢以上にススンデイル。実生活のスー・リオンは本作品で一躍アイドルになったそうだが、その中身のない美しい容姿の危うさのとおり、17歳で最初の結婚をし、その後何度も離婚を繰り返し、結局、その外見をいかした女優として活躍することもなく、まさにロリータと同様、安定した幸福とは無縁の人生をおくった。

鬼才、キューブリックの手腕に感服したのが、少女に固執する中年男の異常と狂気を心理的にエロく描くのではなく、知識階級のヨーロッパの紳士がヤンキー娘に翻弄される哀れさをユーモラスに諧謔に満ちて描いた点であろう。冒頭のクィルティとハンバートがピンポンをしながらするかみあわない会話など、言葉遊びの巧みさと演出がさすがにキューブリックとこの場面を繰り返して観てしまった。
再会したロリータが妊娠をしていて、生活力のない若い男性と転職のためのお金をハンバートに無心する姿は、私からすると諸行無常の鐘がなる・・・趣がある。そんな少女ももう還暦の年齢をこえた。いかにも、というその後のロリータの姿である。

監督:スタンリー・キューブリック