千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  TB&コメントにも☆

理系作家の活躍

2006-01-18 23:23:35 | Nonsense
理系作家というカテゴリーで、なにかとセットで話題にのぼる両作家に、こんな朗報が届いた。

■瀬名秀明さん

「パラサイト・イヴ」などの著作で知られるSF作家の瀬名秀明さん(37)が、母校の東北大学で、工学研究科機械系の特任教授(SF機械工学企画担当)に就任することになった。16日付で着任する。
同大学の説明では、独自の切り口による研究内容の紹介記事を通して、瀬名さんから高校生ら若者に機械工学の魅力を伝えてもらう。また専門外の立場からの意見を、研究者の刺激にする。瀬名さん自身が講義を持つことはないという。
同研究科の清野慧教授は「私たちがアトムを見て夢を持ったように、子どもたちが追いかける新たなアトムを生み出してもらえれば」と話す。最先端の研究に触れることで、新たなアイデアの創作が生まれることも期待している。(06/1/13)

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■東野圭吾

「容疑者Xの献身」(文芸春秋)で直木賞を受賞した東野さんは昭和60年にデビュー。江戸川乱歩賞や日本推理作家協会賞を受賞し、ドラマ、映画化も多い。直木賞は平成10年の「秘密」以来6度目の候補入りだった。 受賞作は完全犯罪をめぐるミステリーで、選考委員の阿刀田高さんは「ミステリーとして90点以上の完成度」としながらも、「“小説力”を感じる」と実績重視を印象付けた。 東野さんは会見で、「落ちるたびにヤケ酒飲んで、選考委員の悪口言ってた。面白いゲームやったな。勝ててよかった。きょう? ヤケ酒飲んでた仲間と『直木賞はすごい』とホメながら飲みます」とチクリ。 また、選考委員の「トリックを主体にした推理小説での受賞は異例」との言葉に「自分としてはトリックより強烈におもしろい話を書きたかったので、賞の趣旨と違っているとは思いません」と自負ものぞかせた。 (06/1/18))

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東野圭吾さんは初期の作品から、推理小説らしい技巧をこらしたトリック主体だけでなく、不思議な余韻を残す人間のドラマに特徴があった。たとえていえば、こどもの頃友人たちと遊んだ後に、ひとりで家路に向かう夕日を眺めているような気分だろうか。同じように人間のドラマを描いた推理小説作家である松本清張氏が、人間の欲望や業、逃れられない過去という闇に視点をおき、社会性をもたらした作品を世に送りつづけたのとは異なり、東野圭吾氏は個人と家族、友人という小さな最小単位のコミニュティに閉じられた中で起こる、葛藤や友情、愛情を描いた。戦争を経験した貧しい日本と戦後の豊かな高度成長期という育った時代背景の違いもあるかもしれない。
「容疑者Xの献身」を読み終わった時、熟練工の集大成された作品のなにひとつ無駄のない機能美を見るような印象が残った。東野さんは、理系の知識を駆使して書いたと語ってはいたが、確かに数学を好きな者の共感は呼ぶ。
「最高傑作」と豪語していたのも、直木賞を意識しての発言だったとも思う。なにはともあれ、受賞記者会見で実に嬉しそうな顔だった。

そして瀬名秀明さんは、同じ理系出身者の中で最も理系の専門的知識を駆使して新分野を切り開いている作家である。処女作「パラサイト・イブ」こそ、ホラー小説というジャンルだったが、今ではSF、推理小説、ファンタジーが融合された”科学小説”という独自の分野を切り開き、活躍をされている。瀬名さんの近年の小説は、難解である。近著「デカルトの密室」では、哲学、ロボット工学、数学に興味がなければ、おそらく1/10も読むことができないだろう。誰もが読んで感動できる東野さんのような間口の広さはない。また人間性を描くというよりも、ハイテクで無機質な部屋にいるような乾いたタッチが、作品に近寄り難い雰囲気をもたらしているともいえる。しかし、最先端の科学と今後人類が迎えるだろう仮想社会を、誠実にドラマチックに書いた作品は、最後までつきあうことができたならば、大いなる知的好奇心を満足させてくれる。
東野圭吾さんが、「読者のためだけに小説を書く。これからも読者の期待を裏切らない。裏切る時は、いい意味で裏切りたい。」という大阪人的なサービス精神は、作品の多産と映画化、テレビ化に発揮されている。

作家の北杜夫氏や漫画家の手塚治虫さんのように、理系出身者がその経歴を活かして文芸もので活躍するという前例は珍しくない。今後も決して期待を裏切らないこのふたりの作家から、目が離せない。

「イツァーク・パールマン」ヴァイオリン・リサイタル

2006-01-17 23:20:06 | Classic
イツァーク・パールマンは、現存するヴァオリニストの中で間違いなく世界最高峰である。(せちがらい話で恐縮だが、チケット代も最高峰・・・)
更に付け加えるなら、最高のエンターティナーでもある。そういう意味では典型的なユダヤ人の風貌であるが、典型的なアメリカ人でもある。クラシック音楽に対する世間の一種の思い込みのはるか高みで、パールマンは極上の音楽を奏でている。昨夜のサントリーホールは、期待どおりにクラシック音楽という芸術の枠をこえた至福の時間を過ごす指定席になった。

パールマンに個性は、必要ない。それはベルリン・フィルに長い間君臨していたヘルボルト・フォン・カラヤンに、個性を求める必要がないことに近い。私がCDを最も多く所有しているヴァイオリニストが、気がつけばパールマンだったことからも、オール・マイティにすべての作曲家のどの曲に対しても、彼のアプローチと演奏は満足度が高いのである。どのCDを買っても後悔しないヴァイオリニストとも断言できる。どこまでも美麗で豊潤な音、どんな難曲もやすやすと弾きこなす巧みな技巧、そしてすぐれた人間性を包む音楽性。それはモーツァルトのような天上の音楽、ブラームスの深遠さ、ベートーベンの哲学にも表現されているのである。時に深刻な楽想や哀しい旋律でも、パールマンの魔法の手にかかるとなんともいえない”音楽する幸福感”が漂う。

そんな幸福感のオーラーに満ちた音楽家としては、最も聴きたいのがやはりクライスラーであろう。今年のジャパン・ツアーでは、後半を当日ステージ上で発表するクライスラー名曲集をプログラムに組んでいた。今回は、席がLブロックだったので演奏中のパールマンの表情がわからなかったが、背中ごしに何回もビデオで観た様子が想像つく。彼の手にのると、ヴァイオリンがまるでおもちゃのように見える。クライスラーの名曲を、次々と愛らしく、情感たっぷりに、ドラマチックに、ウィットをつけて、またあるときはチャーミングなユーモラスをふくらませて、楽しい時間があっというまに流れていく。聴いている人々も、次第にその幸福感のオーラに包まれていく。
すっかり白髪になり、眼鏡をかけた60歳になったパールマンを見守りながら、チケット代が多少高くてもいい、アンコールなしでもいい、健康で長く音楽活動して欲しいとつくづく願った。

ピアニストは、スリランカ出身のロハン・デ・シルヴァ。彼のピアノは、理知的というよりも叙情的である。パールマンとは、息もぴったりだったが、音楽性もあっていて優れた伴奏者である。

プログラム(1000円)は、CDつきである。後援は、富士ゼロックス。18日は非公開の演奏会が催されるが、その時の招待者のために、プログラムにCDがついていると思われる。

-------------------- 2006年1月16日 サンオリーホール-----------------------

J.S.バッハ:ヴァイオリン・ソナタ第4番 ハ短調 BWV1017
フォーレ:ヴァイオリン・ソナタ第1番 イ長調 op.13
フォス:3アメリカン・ピース

≪当日発表で演奏された曲目≫
クライスラー:クープランの様式によるルイ13世の歌とパヴァーヌ
チャイコフスキー/クライスラー:ユーモレスク
クライスラー:美しきロスマリン op.55-4
チャイコフスキー/クライスラー:アンダンテ・カンタービレ
クライスラー:愛の喜び
アルベニス/クライスラー:タンゴ op.165-2
ヴィエニャフスキ/クライスラー:カプリース イ短調


キッザニア東京

2006-01-15 22:23:47 | Nonsense
先日、一年ぶりに東京ディズニーランドで終日過ごすはめになった。
何回訪問しても、考え尽くされたこのテーマーパークの仕掛けと演出の見事さと、スタッフたちのゲストに対するサービス精神と笑顔には実に感心する。それでもこどものような”感動”に至らないのは、少々おとなになり楽屋裏を知ってしまったせいだろうか。
人工の埋立地にたったTDL、沼も大蛇も首刈族もすべてが人工の偽物。ここではまるで一年中雨の降らない映画「トゥルーマン・ショウ」を観ているようだ。そしてアメリカ大陸に移民して独立に導いた白人WASPによる白人のための遊園地だとも思う。誰もが健康な笑顔でいられるこの場所の価値を充分わかってはいるが、時々違和感を感じる時がある。デイズニー映画が大好きで、ミッキーたちを観て育った世代だけれど、足元のちりひとつ落ちていないコンクリートで固めた地面を見ていると、なにかがおかしいと感じる。

いつも私をなごませてくれるけれど、参考になる記事もアップしてくださるblueさまのブログで、「キッザニア東京」というテーマーパークに関する記事を発見。
私がこのテーマーパークに感じる部分は、すべてblueさまが言及されていると思われるので、紹介だけにとどめておきたい。
ただひとつ、非常によくできているシステムで運営された「キッザニア東京」ではあるが、こどもに夢を与えることがすべてきれいであかるく整った架空の世界だとは私は思わない。

「多重人格者の告白」CBSレポートより

2006-01-14 22:30:29 | Nonsense
小学生時代観た映画で、今でも記憶に残る映画がある。
「イブの三つの顔」

1951年、ジョージア州の小さな街に住む25歳の美しい主婦イブ・ホワイトが、夫につきそわれて精神科医のルーサー博士を訪問する。激しい頭痛に悩んで治療を求めてきたのだが、カウンセリングを受けても一向に改善しない。ところが或る日、カウンセリングの最中に突然イブ・ブラックという全く別の人格の人間が表れたのである。彼女の名前はイブ・ブラック。娘を持ち、生真面目で禁欲的な従来のイブを嘲笑し、自由奔放に欲望のままに行動する妖艶なイブ・ブラック。性格と考え方、好みも対照的な両者の対立と自己主張のせめぎあう中に、博士や家族の協力と理解のもと、やがてホワイトとブラックが統合された理知的で情感もかねそなえた魅力的な第三の人格イブ・ジェーンに変貌するまでのドラマが描かれている。
この実話に基づき、今から振り返ると精神疾患を安易にとらえた映画は、自分の中にいつのまにか生息していた全く異なる人格に、自分の精神とカラダがのっとられるかもしれないという自己喪失の恐怖が、のんびりとした小学生の興味と関心をひいたのであろう。

その後記憶の片隅に置きざりにされたが忘れていなかった「二重人格者」(正しくは、三重人格になるのかもしれないが)の存在を復活させたのが、一大ブームにまでなったダニエル・キースの著書「24人のビリー・ミリガン」である。
ジキルとハイドのような二重人格どころではない、1977年オハイオ州で連続レイプ犯として逮捕された弱冠22歳のヤサ男ビリーには、幼年から中年、男性から女性までの24つの人格をもっていたというノン・フィクション作品である。次から次へとスポットライトあびて登場する役者のようなその人格のあまりの複雑さに、かえって疑問がおこるばかりであった。
精神医学用語で説明される「解離性同一性障害」というこの症状を、私はなかなか理解できない。国内に同じような症例を聞いたことが無い、何故近年の米国だけに見られる病気なのか、別のヒステリーのような病のひとつの症状ではないか、またはビリーのような犯罪を犯した者による罰を逃がれるための詐病の可能性をも疑っている。

ところがCBSレポートで、世界的な中国研究者という信頼のおけそうな高い地位と教養のある実在の人物が、自分は多重人格者であるという告白ものを報道していた。えっ??精神疾患に関して、偏見をもっているわけではないが思わずこういう反応をしたくなるではないか。司会者のピーター・バラカンさんはいつもの満面笑顔で簡単な解説をされていたが、ご本人にしてみればさぞかし深刻な悩みだろう。

終始穏やかな微笑みを絶やさず、ユーモラスもあわせもつ誠実な学者そのもののロバート・オックスナーさんが多重人格障害を認識するまでには、苦しい精神の放浪があった。中国関係の研究も順調そのもの、アジア・ソサエティー会長の妻との生活も円満だったが、30代の頃から深刻な鬱状態に落ちたり、突然抑えきれない怒りがこみあげてきたり、毎日ふたつの感情がいったきりきたりしていた。まもなくアルコール依存、過食症、記憶喪失まで体験して、精神科に通院する。治療効果もあがらず、朝目覚めると知らないうちにやけどやケガを負っていたり、気がつくとグランド・セントラル駅を徘徊していたりと、悪化の一途だった。とうとうトランス状態になると、別の誰かの声で「この世で最悪な人間だ」という自分を非難する声が聞こえるようになった。そんな彼の転換点が、1990年ジェフリー医師との出会いだった。
医師との治療過程で、別の人格が次々と登場するようになり、「多重人格障害」(解離性同一性障害)と診断される。

彼には、11人の人格が宿っていたのである。別の人格が登場するときの様子を、「自分がフェイドアウトする感覚、麻酔がきいて意識が遠のく時の体がふわっと浮くような感覚」と表現している。前ブッシュ大統領の大事な講演会では、その中のひとりが人格を表し、「つまんない」と語りかけてきて抑えるのに必死だった。
こうした病に至る根本的な要因を彼は次のように分析している。

①幼少からのプレッシャー
彼の父は大学の学長、祖父はメフィスト派の司教で、世界教会協議会会長という環境からくる”常に成功しなければならない”という義務感の重いプレッシャー。

②幼少時代の虐待からくるトラウマ
家族に近い人物による虐待された事実。「お前は悪い子だ」と叱られた記憶と罰。

虐待としつけの分別はさだかではないが、興味深かったのは、彼の分析を裏付けるかのような現在は4つの人格に統合された人格である。
ローラー・スケート大好きな屈折した青年ボビー、怒りっぽい少年トミー、私には父系の権威主義を罵倒する象徴にも思える魔女ワンダ、そして彼らを公平に扱い代弁者であると認めるオックスナー本人。確かにこども時代に虐待を受けている時、叱られているのは自分ではなく”他者”であると思い込むことに逃避する傾向が、こうした病を招くという指摘もある。しかし、他人の意見に左右されやすい人物に、精神科医が暗示によって別の人格を植え付けていると米国の精神科学会でも議論が分かれている。

軽々とローラスケートに興じる青年ボビーの姿は、61歳の年齢が奇異にも見える。その一方でボビーが公園で出会った女性との一晩のアバンチュールを、妻が理解することは難しい。オックスナー氏は、常に妥協点を探り合っている3人の出入りのコントロールをようやくつかみかけているところだ。
人の心はなんと複雑怪奇で、あまりにも謎に満ちていることか。

おりしも今月17日は、22年前に起こった幼女連続殺人事件の宮崎勤の最高裁での判決が言い渡される。判決の要点を決定的に左右するのは、被告の精神鑑定結果だと考えている。朝日新聞と読売新聞では、この宮崎被告に対する見解は微妙に異なっている。現代社会のゆがみが生んだ鬼子的な部分を世の中全体で検討すべきだとは思うが、私は宮崎被告の犯行の原因を精神疾患に求めず、責任能力ありで厳罰になることを予測している。

『ぼくのメジャーリーグ』

2006-01-13 22:44:29 | Movie
友人に、ある球団に所属しているS選手の熱烈なファンがいる。投げる姿が綺麗だと惚れているピッチャーへのほれっぷりを、私はそこまでイケばもはや”ストーカー”の域と揶揄しているのであるが、なにしろ年間シートは勿論抑えていて、できうる限り試合のある日は、熱があっても球場にたどり着く。場合によっては、地方へも遠征する。球団主宰の高額な福袋も、指輪を買ったつもりで♪と家族にわけのわからない煙幕をはって説明して申し込み、見事当選。家族とS選手との大金のかかった写真を含めて、ツーショット写真を眺めるその姿は年齢を遡り、恐いくらい清純な恋する乙女に見える。
そんな彼女の恋バナで、私がいたく感動したのは、S選手の西武球場における重要な試合の時、彼女は試合中ずっと呑まず食わず(実際は呑めず食えずだったらしい)トイレも行かずに、一瞬の時も見逃すまいと視線がグランドにはりついていたというエピソードだ。

この恋は、本物だ。
私がGacktを好きなように・・・。

世に熱烈な野球狂は多い。友人は誰にも迷惑をかけず、仕事も家庭生活も実際は愛情をもってこなしているから、その追っかけぶりも含めて個性として認知されているのだろう。しかし、こんな野球狂の男は、どうだろうか。

その男は、高校数学教師。ちょっとふとめだが、真面目でチャーミングなベン(ジミー・フェロン)はボストンに住み、冬の公園で素適な女性リンジー(ドリュー・バリモア)とお知り会いになる。キャリアを積んで昇進する野心を持ち、尚且つジムでボディを整えるいけてる女リンジーには、可愛い結婚願望もある。欲望と願望が一致する年頃のふたりが、知り合いから体の相性も確認した”愛”に移行するのに、そう時間はかからないのは日本と同じ。いち高校教師と花形企業の役員近しという”身分”の差、収入の格差、育った家庭環境の違い、スリムなリンジーとの体重差を乗り越えて、友人の冷やかしもなんのその、彼らは一気にゴールインしそうな熱々ぶりだったのだが・・・。
春の兆しとともにふたりの間に、まるで嵐のような難問がやってくる。
プロ野球開幕だーーーっ!

この日を待ちわびている方は多いだろう。レッドソックスの熱狂的なファンである彼にとって、開幕戦とともにやってくる野球シーズンは、実に多忙な生活へと一変する。全試合を観戦すべく、カレンダーには予定がうまっていく。彼にとっては、このシーズンなによりも最も重要で大事なコトは、レッドソックスの試合である。

リンジーは、彼の趣味をはじめは寛大な気持ちで理解をしめし、歩み寄ろうと努力するのだが、その一般人の予測を超える熱狂振りに不安がこみあげ、最後には怒りが爆発する。リンジーの気持ちもよくわかる。部屋中レッドソックスのグッズに囲まれて幸福感を味わい、戦績に一喜一憂する男の幼児性と単純さにあきれ、こんな男だったら、出産途中も妻を放り出し、野球場にかけつけそうではないか。

もう、ついていけない。。。リンジーだけでなくても、私だってそう思う。
でも、でも、ふたりにとって、一番素適なことはなんだったのか、それを忘れられないのである。

「メリーに首ったけ」を手がけた自らレッドソックスファンでもあるファレリー兄弟の最新作「Fever Pitch」(ぼくのメジャーリーグ)は、典型的な今時のラブコメである。
男性よりも女性の方が社会的な地位が高い、収入も高くて高級なアパート住まい、男性が太めだが女性はスリムでキュートであるところがポイント。恋のアドバイスや相談にのってくれる本音で話せる何人かの友人グループは、競争の厳しい米国都心では必要不可欠。男が、にくめない変人である。電車男みたいだ。そんなごく普通の男性のささやかな願望を、少女漫画のようなノリで描いた映画である。
ニューヨークヤンキースの松井選手が、重要な場面でヒットを放つ場面や、本物のレッドソックスの選手も登場。
(日本未公開)

タイゾー君の今

2006-01-11 10:19:13 | Nonsense
日本の国会議員の安易な製造方法を嘆いていた私としては、その典型例として最年少(26)の自民党衆院議員、杉村太蔵クンを話題にすべきだろう。
「料亭に早く行ってみたいですね。国会議員の給料は2500万円。議員宿舎は、3LDKで楽しみ。JR乗り放題。しかも全部グリーン車!」
軽薄そのものの発言が、日本中から当然の如く袋だたきにあったのは、今でも国民は忘れていないだろう。こんな議員に、税金をかけてこれから”教育”すること事態、衆愚政治の典型だとは、私も思う。
けれども、このタイゾー君の”天衣無縫”さを、もう少し長い目で見ていたいと密かに考えている。本音を言ってしまえば、タイゾー君の非常識な天真爛漫さは、26歳だった自分にそっくりだ(もしかしたら、今でもそのまんま?)という憐憫と同調、応援したい気持ちもあった。

騒動後のタイゾー君の近況が、読売新聞朝刊で昨日と今日、「小泉チルドレン」としてとりあげられている。
タイゾー君は、筑波大学の体育専門学群を”推薦”で入学したが、中退。(世間ではあまり知られていないが、体育専門とはいえ国立大学なので、一般入試のハードルは高い。授業も講義が多く、学力水準が高いため、推薦組は”やばい推薦”と称されることもある。)裕福な家庭でテニスが上手というだけで受験も難なく突破、苦労知らずだったが就職試験にも失敗して、ニートになり下宿にひきこもる生活を送っていた。母親は泣き、父親から仕送り停止、死にたければ死ねという厳しい最後通牒を突きつけられて、脱出した。その後は、外資系証券会社の契約社員(フリーター)から、自民党の公募に軽いノリで応募したのは、既報どおりで周知の事実。

その経験を活かして、現在タイゾー君はニート対策に自分の生き残る場所と見出そうとし、また厚生労働省官僚も彼を役にたつ駒として使おうという動きが始まった。昨年のクリスマス・イブ、タイゾー君は彼女と過ごすわけでなく、大阪市内にある職業相談機関「ヤングスポットOSAKA」で講演した。最後に白板に、なんと自分の携帯電話のアドレスを記入して公表。
「困ったことがあったら連絡してください。なるべく返事はします」
というこの深く考えていないような軽いノリに、集まった若者はどっとわいたという。今までこんな政治家はいただろうか。マスコミに叩かれたときは、党でなんとかしてくれないかと泣きつき、広報から甘えるなと突き放され、謝罪会見でも遣いなれない敬語で必死に汗かいて精一杯自分の言葉で話そうというタイゾー君、もしかしたら等身大の若者の共感を呼び、彼らと同じ視線と位置にたち、努力と成長次第では、自民党にとっても役にたつ政治家におお化けするかもしれない。それには、彼をバックアップする有能な秘書も必要だ。

■我こそはという優秀な方は、「求む公設秘書」に応募しよう。

彼の鮮度も近頃は下降気味。所詮ジャンク債だったのか、もうしばらく見守りたい気もする。

世界で最も長い就職試験

2006-01-09 22:48:59 | Nonsense
大学生活も3年の終盤にかかると、そろそろ就職活動に本腰を入れる時期になる。氷河期からややあかるい春の兆しがみえてはきたが、以前厳しい状況にはかわりがない。けれども、「世界で最も長い就職試験」と言われるのが、英国の議会への就職、議員になるための道である。

現与党である労働党、野党の保守党の候補者選考は、基本的に各選挙区の党本部が決定権をもつ。
労働党では、労働組合の推薦者が有利ではあるが、各選挙区の当支部が厳格な候補者コンテストを行い、選別してたった一人の人間を”公認候補”として決定する。一方保守党では、候補者になるためにはまず党本部に経歴を送り、「承認候補者リスト」に載せてもらう。次に自分の立候補したい選挙区に書類を送って応募できる。(労働党のような推薦は、不要。)
しかし、まずこの候補者になるためには、党内の熾烈な競争に勝ち抜くというレースが待っている。

英国選挙事情を「世界で最も長い就職試験」と評した保守党エド・ベイシー議員の場合、97年総選挙で伝統的に労働党が強いブリストル東部選挙区から立候補して、あえなく落選。その後01年総選挙では、イアン・ダンカンスミス元保守党党首の選挙スタッフとして働き、党内での実績を積んだ。この時の実績が、のちの競争でいかされることになる。彼は昨年5月の総選挙で、議席を占めていた保守党の議員引退が決まったため、後継者として候補者に名乗りをあげる。200人を超す候補者から、書類選考で「ショートリスト」と呼ばれる18人に残った。次に一次面接で8人、幹部面接で「ファイナル・ショートリスト」の4人に入る。最後の難関は、選挙区の党員全員の前で行われる、政策に関する自分の考えとセールスポイントの演説と質疑応答である。

党員からは、実に多くの質問が飛ぶ。欧州連合と英国の関係をどう考えるか、環境、医療、年金問題から、ブレア政権のキツネ狩り禁止に賛成か反対か。ここでのワンステージ選挙区の党員1000人から秘密投票で200人が投票して、最終的にたったひとりベイシー議員が、公認候補者として決定された。選挙の前に、なんという厳しいプロセスを経て、候補者になるのだろう。

英国の選挙区は、伝統的に労働党が絶対的に強い指定席が1/3、保守党が絶対的に強い指定席も1/3という”セーフ・シート”があり、残りが浮動選挙区である。つまりこの浮動選挙区を制することが、党の趨勢を決める。
ブレア首相も、最初は候補者にもたどり着けなかった。82年ロンドン西部ビーコンズフィールド選挙区で候補者になるものの、落選して惨敗。しかしこの最初から勝ち目のない保守党のセーフ・シートで、いかによく闘ったかという実績(選別をクリアーする)を残すことによって、党内の評価を高めて幹部に印象を残すことに成功した。翌年には、労働党のセーフシートのセッジフィールド選挙区から、ショートリスト、ファイナルショートリストと候補者に選ばれて当選した。

かの国、英国では、かようにテレビでの知名度、単なる議員の妻やこどもという血筋でなく、厳しい事前選考というプロセスを戦い抜いた、本当にプロフェッショナルな政治家しか、議会の舞台を踏むことは不可能である。日本は、政治の仕組みを英国に見習っている。しかし肝心の政治家になるための”プロセス”が全く異なっているために、その中身はまるで違っていると言えないか。英国でもまれに議員の子息や妻も議員というケースもある。しかしそれは、長く党員として活躍し、同じ過程を経て候補者の席をつかんで議員になっているのである。選考過程において、情実や世襲の意識は選ぶ党員にも、立候補する本人にもいっさいない。
二世議員、タレント議員、弔い合戦、こんなことばが新聞で当り前のように見かける日本の選挙の現状を、私は心底”ださい”と恥じている。

『歓びを歌にのせて』

2006-01-07 11:29:29 | Movie
北欧スウェーデンの更に北部の片田舎、ノルランド地方の村ユースオーケル(架空の村)へ向かって、タクシーがどこまでも続く雪原を走っていく。終着地は、小学校の廃屋。乗客は、かってこの土地で幼少年時代を過ごした世界的に活躍する人気指揮者ダニエル・ダレウス(ミカエル・ニュクビスト)。いや、彼の肩書きは”元”指揮者である。世界のトップを走る指揮者の誰もが経験する何年先もうまった過密なスケジュールのわななくような幸福とひきかえに、常に鋭い批評にさらせれるプレッシャーと厳しい競争の果てに得たものは、ぼろぼろになった心臓。音楽家として寵愛されながらも、深い孤独をかかえて、彼は現役を引退して第二の人生をこの地でやり直すことにした。

音楽との関わりを断つことによって、静かに生活するつもりであった。それが彼が癒され、穏やかな日々をおくるための最も要の条件だった、・・・はずなのに、村の牧師スティッグ・バーゲン(ニコラス・ファルク)になかば強引に頼まれて、小さな聖歌隊の練習の見学に行き、そこで出会った人々の音楽への親しみの原点にふれ、自分が本当に望んでいた音楽と音楽への愛情を彼らとともに取り戻していく。

母国では、5人にひとりはこの映画を観たという記録的な映画だ。
監督・脚本家のケイ・ポラックは、前作がスウェーデンが公開された夜に、当時の首相オロフ・パルメがストックホルムで暗殺された事件に、深い衝撃を受けて18年間もの長い沈黙に入る。国中を旅し、個人の発達に関する講義やセミナーを主催しているうちに、聖歌隊のメンバーだった妻を通じて関わりをもつうちに、人間性や聖歌隊の意義というものに興味をもち始め、一気に脚本を書き上げた。

このさえない小さな聖歌隊に集う人々は、個性的である。最初はとまどった熱心で理論的なダニエルの指導と音楽への情熱が、次々と彼らと周囲に化学反応を起こしていく。謹厳実直だが、神への忠誠心ばかりの牧師の権威主義を暴き、妻へ暴力をふるうことで彼女を支配することしかできないトラック運転手の心の弱さ、場をしきることで親分気取りだが、万事自己中心的で人を見下すことで優位にたつ自動車屋の欺瞞性、未婚女性の生真面目だが心の狭さ・・・表面的にはうまくつつがなく、けれども他者への関心と本当の思いやりの欠けていた人々の封印していたリアルな魂が、ついには破綻するが、やがて仲間と音楽によって最後は救済されていく。
そこに福祉国家であるが、離婚率の高いスウェーデン人の感動を呼ぶのだろう。何度も結婚と離婚を繰り返し、未婚の母も珍しくないこの国においては、日本的な”家族”とは違う形態の”聖歌隊”や”コミュニティー”によって、広義の家族的なつながりの”家族愛”を求めているのだろう。

「ダニエルには、ニュクビストしかいない」監督にこう言わしめた俳優ミカエル・ニュクビストは、ご当地では実績のある人気俳優とのこと。実力のある俳優であることは、冒頭の指揮のふり方を見れば俄然。その主役の人気俳優よりも、もっと存在感をもって重要な役を演じたのは、新人のフリーダ・ハルグレン。彼女は聖歌隊の中心メンバーで、誰に対しても人の本質をとらえて正しいことをまっすぐに発言する厳しさをもっているが、慈母のような懐の深さとあたたかさをもつレナの役を見事に演じている。この映画におけるレナは、重要だ。次々と男を替えるレナは、男に復讐しているのだが、この彼女の存在があってこそ、ダニエルも愛を信じて再生していくのである。またレナも尊敬できる男性と本物の愛を見つけていく。フリーダ・ハルグレンは、完璧な歯並びとジムで整えた体型で挑むハリウッド女優にはない、生活者としてのリアルな質感をもっている。全然美人でもないし、背も低く体型も太めである。だからこそ、現実にはありえないような理想の女性に近い役も、彼女が演じると胸にせつなくせまってくるのだ。

ストックホルムは、北欧の中でも大変美しい街である。デパート売り場に並ぶたくさんの蝋燭が、この国の冬と夜の長さを物語る。人のぬくもりを求めて、あたたまりたい方に、この映画はお薦め。

麦畑で、少年ダニエルがヴァイオリンのお稽古をしている回想シーンがある。曲は、幼稚園児の甥も今練習しているヴィヴァルディの協奏曲。
「音楽は、すでにそこに在る。それをつかまえるだけだ。」
遠い記憶に残るのは、麦畑の穂のさざなみの音とヴァイオリンを奏でる音。そして人はいつもそこに還る。純粋で素朴な音楽がただそこに、在るだけだから。

中国流ODAのゆくえ

2006-01-06 23:47:40 | Nonsense
1956年12月18日に、日本が国連に加盟してから今年は50年になる。ご承知のように我々の血税から、米国に次いで二番目に膨大な援助金が発展途上国へと流れている。年間ひとり当たり8000円。この金額を国際協力機構理事長の緒方貞子さんの言うように、確かに安いと思えるから、ODAが着実に活かされているならば、たとえ国民のひとりひとりが、626万円の借金王になろうとも耐えていきたいと清々しい気持ちにもなれる。

そう考えると、中国ほど日本からのODAを”有効活用”した国は、ないのではないだろうか。この国は、79年以来日本から総額3兆1330億円以上のODAを受けとってきた。中国のインフラ整備、技術支援、人材育成とハードとソフトの両面で、我が国の善意は大きいといっても過言ではないだろう。そのおかげで、香港を含めて05年には、中国は外貨準備高合計8379億ドルと、日本の約8340億ドルを抜いて世界一を実現した。

この積み上げた巨額な資金は、どこへ流れているのか。北朝鮮をはじめアフリカやアジア諸国へ、もうひとつのODAとして”援助”されていたのである。2000年には、中国は400億円以上をアフリカやアジア諸国へ供与していた。さらに04年には、総額300億ドルもの大金をアフリカ投資に向け、40件以上の原油供給契約を結んでいる。医療チームも派遣して、なかには無料で医療品を提供してエイズ対策支援もしている。しかしこれらを美談としてとらえられるほど、単純な思考をあいにくもちあわせていない。中国のアフリカ諸国への、”善意”の真の目的はなんなのか。

①アフリカでの資源取引
人口の高い中国で資源確保は、今後の経済発展への不可欠項目である。遅れてスタートしたために、欧米への対抗手段として巻き返しに必死である。しかし人権抑圧に対して、国際的な非難が高まっているスーダンやジンバブエなどにも資金援助しているため、こうした中国の節度の欠けるふるまいに対して、悪しき独裁政治の延命の手助けをしていると批判も挙がっている。

②同じ価値観をもつ仲間の育成
ニューヨーク・タイムズ記事の分析によると、なにかと人権、民主化などでお騒がせして問題を起こす中国が、「国内問題不干渉」にするために似たような国とつるむことにメリットを見いだしているとのこと。まるで、不良が徒党を組んで勢力を増大しているかのようだ。
「中国は永遠に途上国の一員であり、途上国との団結と協力を強化することが中国外交の基礎である」
昨年ジャカルタで開催されたアジア・アフリカ首脳会議での胡主席の表明である。麗しい友情だ。

そうして彼らは、友情の証を求めて日本の国連安全保障理事会常任国入りを阻止すべくたちまわる。
勿論、こうした事態をふまえて日本ものんびり手をこまねいているわけではない。北京オリンピックが開催される08年の協議を最後に、新規の円借款を中止することを決めている。「円借款はいずれ返済するもので、贈与ではない」と”解釈”する中国は、日本が20年間で合計6400億円のODAをつぎ込んで来た国有鉄道の株式を、密かに公開して海外市場で上場を目指しているらしい。これは、あきらかにODAは個別企業に供与しないというルール違反である。中国は恩知らずというだけでなく、恥も知らなかったようだ。
このような中国流外交戦略が、今後及ぼす効果を冷静に知るべきであろう。

『ベルリン、僕らの革命』

2006-01-04 21:39:34 | Movie
旧東ドイツのベルリン、ミッテ地区には、自称芸術家たちが古いデパートを占拠した「クンストタヘレス」が、今にも崩れ落ちそうな風情で建っている。そこでは映画を上映したり、アート製作品を即売しているのだが、まるで大学ロックアウトを彷彿させて、全共闘世代の人々の郷愁をそそるかのような様相である。
「ベルリン、僕らの革命」は、そんな無秩序で混沌とした吹き溜まりから飛び出たような若者3人が、いかにして”革命”の旗を振り上げたかという皮肉な寓話である。

生真面目で理想家のヤン(ダニエル・ブリュール)は、15年来の親友ピーター(スタイプ・エルツェッグ)とベルリンのアパートで共同生活をしている。ピーターの恋人ユール(ジュリア・ジェンチ)はレストランでウエイトレスをしているが、家賃を滞納して立ち退きを迫られている。実は、彼女は保険切れの車を運転中に不注意からベンツにぶつけてしまい、高額な賠償をするために毎日生活に追われていたのである。せっかく楽しみにしていたピーターとのバルセロナ行きの旅行も、失職とアパートの立ち退き作業が重なり断念する。
後に残ったヤンと二人で壁の塗り替えをしていた時に、ヤンから彼らの秘密を打ち明けられる。なんとヤンとピーターは、資産家の留守宅に忍び込み、家具を積み上げて芸術作品を創り、「ぜいたくは終りだ。財産があり過ぎる」とメッセージを残す、巷で評判の”エデュケーター”だったのである。すっかり意気投合したふたりは街に繰り出し、調子に乗ったユールは、交通事故の被害者であるハーデンベルグの豪奢な別荘に侵入することを提案する。
やがて別荘に忘れた携帯電話を捜しに再び侵入した彼らはそこで、ハーデンベルグと遭遇してしまい、窮余の策として彼を誘拐して山荘へ逃げ出した。
そして無産階級の若者たちと資本化である熟年ハーデンベルグの対話に、ユールをめぐる彼らの三角関係をからめて映画は、佳境に入っていく。

奇跡のようなドイツ統一後16年の歳月がたつが、東西間の経済格差はなお隔たり、また失業率も高い。そんな厳しい経済状況から、ドイツは再び分裂するのかという懸念が生じるくらい社気主義へのオマージュが波立っているのは事実である。ヤンとピーターは、今の社会の不平等を正す”革命”をめざしている。しかし彼らは、マルクス主義のような明確な論理をもちあわせてはいない。レジスタンスの風の向くまま、飛んでいるだけである。そんな彼らをハーデンベルグは、従業員13000人を抱える会社の経営者らしく落ち着いて諭していく。
「自分もかっては、学生運動の闘士だった。しかし或る日、変化が突然やってくる。古い車より新しい車に乗りたくなる。結婚して家庭をもち、こどもができる。こどもを育てるには、金がかかる。」

ハーデンベルグのプールつきの豪華で洗練された別荘と、彼らの住まう汚いアパートでは天と地程の差がある。しかし、スタート地点は同じだったのだ。ハーデンベルグもまた、吹き溜まりのような大学構内で生活していた青春時代があったのだ。彼らは、高慢だと思っていたハーデンベルグの述懐に、少しずつ親しみがわいてくる。
「現代では、”革命”もTシャツの絵柄のように商品化されているではないか。資本主義は、革命も陳腐化して、エネルギーを閉じ込めている。」
ハーデンベルグの交通事故の賠償請求を差し止めるという説得にも、警戒しながらもこころを開いていく彼ら。若者と熟年、失業者と資産家、対立する両者が歩みより、理解することは可能なのだろうか。

所詮もてる者はもたざる者を支配するという世の中の構図を斬るような、最後の胸のすくような痛快な結末と演出に拍手をおくりたい。