宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

神田明神の花見

2009年04月05日 | 神社

            
長かった冬が終わり、桜が咲く季節となった。まだ夜は寒いのだが、日中は暑いくらいだ。
 
毎年恒例の神田明神・貸し切り花見パーティーが挙行された。十数年前に有志が集って始まった宴会は、年を追うごとに大きくなり、今回は200名を超える参加者があった。大安吉日と重なったため、今日一日で10組もの結婚式をこなした神田明神。予定を大幅に超過してのスタートとなった。
   
神田明神は、江戸の総鎮守。神々の世界では、「東京ヘッドクオーター」といったところか。東京十社にも名を連ねる。平安の昔、京都の朝廷に敢然と抵抗した関東の英雄、平将門が祀られている。

今から千年以上も昔、まだ原野と森林が広がる辺境の地だった関東。平将門は、優雅な文化と高い教養を誇る京都の平安貴族に対抗すべく、「新皇」を称して新国家を樹立しようとした。ただちに討伐軍が派遣され、奮戦もむなしく、額に命中した矢により、あえなく絶命。
 
この平将門の乱の鎮圧を祈願するため、京都朝廷は僧を東国に派遣して不動明王を祀らせた。それが、かの有名な初詣の名所・成田山新勝寺。深川不動もその流れをくんでいるので、神田明神とは対立勢力ということになる。実際、昔の江戸では「神田明神を参拝するものは、成田山には行ってはならない」という言い伝えがあったそうな。両方とも行ったのは、まずかったか・・・。
 
ライトアップされた朱塗りの門や社に照らされて、夜桜が闇夜に浮かび上がる。江戸の昔には、夜桜は提灯の光に照らされて、かすかに見える程度だっただろう。21世紀の今は、国際化も進んでいる。今回はモンゴル人の留学生が大勢参加しており、馬頭琴の演奏も聴かれた。江戸は遠くなりにけり・・・ 。
    


深川不動の護摩焚き

2009年04月05日 | 神社

    
門前仲町(もんぜんなかちょう)の深川不動に行った。
  
ここは、関東屈指の初詣の名所・成田山新勝寺の流れを汲む。

平安の昔、東国に創建された成田不動。江戸時代には成田山への信仰熱が高まり、続々と参拝客が訪れた。歌舞伎役者の市川団十郎も成田山の信者だった。今でも、歌舞伎座では大向こうから「いよっ、成田屋!!」と声がかかるのは、ここに由来するという。今で言えば、「大物俳優が○○教に入信」といったところか。いわば、教団の広告塔。

とはいっても、成田は遠い。成田空港ができて久しい今でさえ、成田があまりに遠いので、ブーブーと不平が絶えないのが実情だ。まして、交通機関も発達していなかった江戸時代の庶民には、「成田に行きたしと思えど、成田はあまりに遠し」という状況だったのは、想像に難くない。そのため、江戸の下町につくられた出先機関が、深川不動である。
  
深川不動では、先祖供養のお札をもらおうと受付に行ったところ、徳の高そうな坊さんが供養してくれた。
 
護摩焚きまではしばらく時間があるので、「八十八箇所めぐり」のコーナーに行ってみた。ここは、四国八十八箇所のミニチュア版。手軽にお遍路さんが出来る、ありがたい存在だ。筆者は、例によってイメージトレーニング。四国をトボトボと歩くお遍路さんと化した自分が、イメージの世界に姿を現した(笑)。
 
そうこうしている内に、いよいよ護摩焚きの時間。善男善女がお堂に集ってくる。幸運にも最前列のVIP席に座れた。静寂の中、「ブォ~・・・」というホラ貝の音が廊下から鳴り響き、僧侶たちが登場。見ると、さっきの先祖供養の坊さんが中央の護摩台の前に座っている。

凄まじい鐘や太鼓の音が轟くなか、「ノウマク サンマンダー バーザラダン・・・」という真言や、読経の唱和が鳴り響く。特に、巨大な和太鼓の連打は、耳をつんざく轟音だ。「音響」なんてものではない。衝撃波で戸棚のガラスがビリビリと鳴り、振動がズシンズシンと腹にこたえる。この勢いで、悪霊も退散するという。 
 
坊さんが焚く護摩の炎は、天井近くまで吹き上がりつつ、火花を散らしながら崩れ落ちる。次々にくべられる護摩により、新たな炎がまた吹き上がる。火蝶が舞い飛び、屋根を焦がさんばかりの勢いだ。
 
終わってからも、しばらく余韻が冷めやらない。現代人にとっても十分に刺激的な、護摩焚き。ましてや、江戸の庶民が熱狂したのは、無理からぬことと思われた・・・。