<クリシュナムルティの講演録からの引用>
私たちは死という言葉で何を言わんとしているのでしょう?
その言葉で、私たちは明らかに継続を終わらせることを指しています。
そうですね?
肉体的な死があります。そして私たちはほんのわずかそれについて心配しますが、もしも私たちが何かちがった他のかたちで継続性を与えることによってそれを克服できるなら、それは問題にならないのです。
それで私たちが死について尋ねるとき、私たちは(違ったかたちでの)継続があるかどうかということに関心を寄せます。
それで、継続するものとは何でしょう?
明らかにあなたの肉体ではありません。なぜなら毎日、私たちは死んだ人が焼かれたり埋められたりするのを目にしているからです。
それゆえ、私たちが指しているものは、五感を超えた継続、心理的な継続、思考の継続、魂または何であれあなたがその種のものとして名づける人格の継続性(=存続)です。私たちは思考が継続するものかどうか知りたいと思います。
そこで、私たちの問題とは、死にもかかわらず、どのようにして継続性を得るかと
いうことなのではありませんか?それであなた方は私から保証をもらいたいと思っています。
あるいは、もし私があなたに保証を提供しないなら、あなたは他の誰かのところへ、あなたのグルのもとへ、あなたの書物へ、または他の様々な気晴らしや逃避へと向かうのです。
セルフは記憶の束であって、それ以上のものではありません。
「私」という実態、あるいは「私」とは別の霊的実態は存在しません。
なぜなら、あなたが「私」とは別の霊的実態が存在すると言うとき、それは依然として思考の産物だからです。それゆえ、それは今なお思考の領域内にあり、そして思考は記憶なのです。
継続を求めるのは愚かな人です・・・
生の豊かな感覚を理解する人なら誰でも、継続を求めることはないでしょう。
生と死の間に境界はありません。
その区別を立て、自分の肉体を、自分のちっぽけな存続を気にかけるのは愚かで無知な人です。そのような人たちは生まれ変わりの理論を自分の恐怖を覆い隠す手段として、自分の愚劣なつまらない存続(継続)を保証してくれるものとして用います。
思考が存続するのは明らかなことです。
しかし確実に、真理を捜し求めている人は思考には関わりません。というのも、思考は真理につながらないからです。
「私」が生まれ変わりを通じて真理へと向かって存続するという理論は誤った考えです。それは真実ではありません。「私」は記憶の束です。それは時間であり、たんなる時間の継続はあなたを時間を越えた永遠なる物へと導くことはありません。
J.クリシュナムルティ「人生をどう生きますか?」より