宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

究極の真理、「縁起の理法」

2009年10月22日 | 釈迦 ~ 輪廻転生からの卒業
 
1. 無明(むみょう)     何も分からないこと。これが、すべての苦しみの原因 →

→   →   →

→ 12. 老死(ろうし)      楽しいときは、ホンの一瞬だった・・・。人は老いて死ぬ、ああ苦しい
 
 
十二縁起は、「無明」からすべてが始まる。そして、「老死」へと至る。

無明から行が生じ、行から識が生じ・・・生から老死が生じる。

この順番で、苦が生じる(順観)。

逆に、苦を滅するときはどうするか。

老死を滅するためには、生を滅しなければならない。生を滅するためには、有を滅しなければならない。・・・行を滅するためには、無明を滅しなければならない。

という風に、苦を滅する道を、逆の順番でたどる(逆観)。
 
なぜ、人は生まれ、老いて死ぬのか。その原因と結果が、はっきりと示された。
 
結局のところ、「無明」(何も分からないこと)こそ、輪廻が起きる原因。輪廻を終わらせるためには、「無明」を滅すればよい。
 
つまり、釈尊の「菩提樹下の悟り」とは、「輪廻が起きる原因」と、「輪廻を終わらせる方法」という問題に対する、最終結論だったのだ。

実にシンプルな話なのだが、世間の一般人にとっては、これが分かりにくい。古代インド人たちと、根本的に発想の基盤を共有していないのだから、仕方がないのだが。やはり、こればっかりは、輪廻思想に空気や水のごとく慣れ親しんできた、精神世界ファンにしか分からないものがある・・・(笑)。
 
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解き明かされた、輪廻の秘密

2009年10月21日 | 釈迦 ~ 輪廻転生からの卒業
   
どうやら「十二因縁」というのが、お釈迦さまの悟りの核心部分だったようだ、というのは分かった。次は、「十二因縁って何・・・?」ということになるだろう。
 
ひらたく言えば、「十二因縁」とは、人が生まれてから死ぬまでの、原因と結果の連鎖のこと。・・・と言ってしまえば、なんでもないようだが、ここにはブッダが初めて解き明かした、重大な「輪廻の秘密」が含まれているのである。でなきゃ、二千数百年前のインドで、ブッダがあれほど有名になるはずもない。現代人にとっても、目からウロコが落ちる発見だ。
 
十二の因縁を並べると、下記のようになる。並べる順番もキッチリと決められていた。この順番を入れ替えることは、仏弟子にあるまじき大罪。仏弟子たるもの、絶対に順番を入れ替えてはならない。
 
無明 → 行 → 識 → 名色 → 六処 → 触 → 受 → 愛 → 取 → 有 → 生 → 老死
 
これを順番に観ずることを、「順観」と呼ぶ。これは、原因と結果が生じる順番。「これがあるから、あれがある」という話。無明があるから、行がある。行があるから、識がある。・・・生があるから、老死がある、という調子で続く。
    
順観の逆を、「逆観」と呼ぶ。今度は、「あれがないから、これがない」という話。老死がないから、生がない。生がないから、有がない。・・・行がないから、無明がない、という具合に続く。順番は、さっきと逆になる。これまた、順番を勝手に入れ替えることは厳禁。仏弟子にとっては、人を殺める(あやめる)以上の大罪だ・・・(!)。
 
ここで、ひとつひとつの内容について検討しはじめたら大変なことになる。そういうことは、仏教理論の専門家にオマカセだ。
  
ここは、仏教に詳しくなることより、ブッダが解き明かした「輪廻の秘密」を知ることに意義がある。これこそ、精神世界ファンならではの強みが生きるところ。なんたって、古代インド人と同様、輪廻思想に空気や水のごとく慣れ親しんでいるのだから(笑)、古代インド人の話を理解する上で、これほどの強みは他にない。
 
ここは、要点をザックリとつかむに限る。そこで、「十二因縁」が持つそれぞれの意味をザックリ書けば、こんな感じ。
 

1. 無明(むみょう)     何も分からないこと。これが、すべての苦しみの原因  
 
2. 行(ぎょう)        前世のカルマ
 
3. 識(しき)         生まれる前の、人間のモトができた
  
4. 名色(みょうしき)    母の胎内にあって、胎児が成長
 
5. 六処(ろくしょ)     母の胎内で、目鼻がついた。さあ出よう

6. 触(そく)        赤ちゃん誕生。 o('@')oバブウ  あちこち触って、この世にコンニチワ!! 

7. 受(じゅ)        ものごころついて、感受性が発達

8. 愛(あい)        性欲が目覚め、異性を求める  
 
9. 取(しゅ)        自分の求めるものに執着

10. 有(う)         執着こそ、生きる原動力!! また、カルマを作っちまったい  

11. 生(しょう)       この人生のカルマのおかげで、また将来、生まれ変わる トホホ  

12. 老死(ろうし)      楽しいときは、ホンの一瞬だった・・・。人は老いて死ぬ、ああ苦しい  
 
 
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ブッダの最終結論

2009年10月21日 | 釈迦 ~ 輪廻転生からの卒業
     
ブッダが菩提樹下で考えていたことは、何だったか。これについては、いろんな人が、いろんなことを言ってきた。
   
でも、仏典を読んで額面どおりに受け取るならば、わざわざ議論するまでもなく、一目瞭然なのである。解脱したブッダが菩提樹下でやっていたのは、「十二因縁を順逆に観ずる瞑想」だった。
 
十二因縁。「縁起の理法」(原因と結果の法則)の神髄だ。これこそが、ブッダの悟りの核心部分。
 
これに対して、禅僧は(もちろん、全員がそうだというわけではないが・・・)、異論を唱える。いわく、「学者は、何かといえば『縁起の理法』がどうのというが、釈尊の悟りは、そんな小難しい理屈などではないのである」。
 
彼らは、釈尊が菩提樹下でやっていたのと同じように、ひたすらに座禅を組んで瞑想してきた。そこで到達する「心境」を、何よりも重視する。禅の道は、真剣勝負。過去も未来もなく、この一瞬に全存在を賭ける。やがて到達するのは、「無我」の境地だ。「自分」がみるみる小さくなり、やがて消え失せる。残るのは、大いなるすべて・・・。
 
でも、仏典を素直に読めば、たしかに釈尊の悟りとは「縁起の理法」であること、少なくとも、それが核心部分であることに疑う余地はない。これは、どちらが正しいかということではなく、両方とも真実なのだろう。すなわち、釈尊が悟った内容は、「縁起の理法」。悟ったときの心境は、「無我」。この2つは別々のものではなく、深いところでつながっている。

ただ、「縁起の理法」というのは、名前からして、なんだか小難しい理屈に見えるというのも事実だ。実際にはそれほどでもないのだが・・・。中身は、いたってシンプル。

もっとも、こんなエピソードがある。あるとき、釈尊は、仏弟子のアナンに聞いた。「どうだ、『縁起の理法』は難しいか?」。アナンは、「いえ、別に。難しくはないですよ」と答えた。すると釈尊は、「いや、あれは難しいのだ。甘く見てはいけないよ」と言ったとか。
 
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「菩提樹下の悟り」の内容

2009年10月20日 | 釈迦 ~ 輪廻転生からの卒業
   
お釈迦さまは、菩提樹下(ぼだいじゅげ)で解脱した。長くて苦しい修行のあと、ようやく開いた悟り。気持ちよく、その境地を何日も楽しんでいた。

原始仏典によれば、お釈迦さまは、こう思ったという。「この悟りの内容を、世間の一般人に教えるのは、無理だろう。私が教えを説いたとしても、もしもほかの人々が私のいうことを理解してくれなければ、私には疲労が残るだけだ。私には憂いがあるだけだ」・・・。

それを見ていた梵天が、大慌てで飛んできた。梵天は平身低頭、「なにとぞ、教えを説いて世の人々を救ってください」と懇願する。もはやあらゆる執着を失い、そのままフェードアウトするつもりだった釈尊は、やっと教えを説く気になったという。

これは、仏典の有名な一節だ。これを見ると、なんだか、釈尊の悟りの内容は、世間の一般人にはトテツもなく理解困難なんじゃないかと思えてくる。

実際、「釈尊の悟りは、同じ境地になってみなければ分かりません」という人は少なくない。つまり、「われわれ、凡夫には分かりかねます」というわけだ。それだけなら良いのだが、「私は、<お釈迦さまの生まれ変わり>だ。私が菩提樹下で悟ったことが何だったか、シモジモのお前たちに教えよう」というような新興宗教の教祖までいるのは、ご愛嬌・・・(?)。

これに関して、禅僧は言う。「釈尊が悟ったのは、<無我>の境地である」と。

我は無い。ただ、全体あるのみ。この、「究極のワンネス」とも言える境地、「無我」こそが、釈尊の悟りだというのだ。

釈尊と同じように、ひたすら座禅を組み、深遠な瞑想を続けてきた禅僧の言葉は、傾聴に値する。釈尊と同じとまではいかないまでも、それに近い心境に到達しているだろうからだ。

だが、実際のところ、「菩提樹下の悟り」の内容を知るために、「釈尊と同じ心境に達する」必要などない。何十年も座禅を組む必要もないのである。なぜなら、釈尊が菩提樹下で何を考えていたかは、仏典にハッキリと書かれているからだ。しかも、例によって「これでもか」と言わんばかりの繰り返しつきで(笑)。

仏典によれば、釈尊が菩提樹下でやっていたのは、「十二因縁を順逆に観ずる瞑想」である。


最初の正しい目覚めにいたったゴータマ・ブッダは、ウルヴェーラー村の、
ネーランジャナー河の岸辺にある菩提樹の下で、あらためて七日間に及ぶ、
解脱の悦びを享受するための禅定に入った。
 
その日の初夜(夜を三分割したときの最初の時間帯)に、ゴータマ・ブッダは、十二因縁を順逆に観じた。

そのあと、つぎの環境の詩節(ウダーナ)を唱えた。

「努力して瞑想しているバラモン(清らかな修行者)にもろもろのものごと
(が因果関係の鎖をなしていること)が露わになったとき、
彼はもろもろの原因を持つものごと(ものごとは原因があって生ずること)
を知ったので、彼の疑念はすべて消え去る」

中夜に、ゴータマ・ブッダは、さらに十二因縁を順逆に観じた。
そのあと、つぎの感興の詩節を唱えた。

「努力して瞑想しているバラモンにもろもろのものごとが露わになったとき、
彼はもろもろの原因(縁)の滅を知ったので、彼の疑念はすべて消え去る」

最後に、ゴータマ・ブッダは、さらに十二因縁を順逆に観じた。

そのあと、つぎの感興の詩節を唱えた。

「努力して瞑想しているバラモンにもろもろのものごとが露わになったとき、
彼は、太陽が天空を照らすかのように、悪魔の軍勢を打ち破って立つ」

このような禅定に七日間ひたったのち、ゴータマ・ブッダは菩提樹の下を出て、
アジャパーラニグローダ樹の下へと移動した。
 
(マハーヴァッガ・・・出典:宮元啓一著『ブッダが考えたこと』)
 
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輪廻転生の終焉

2009年06月08日 | 釈迦 ~ 輪廻転生からの卒業
 
お釈迦さまは、「輪廻転生が発生する原因と、それを終わらせる方法」を、何十年もの歳月をかけて、われわれに指導してくれた。なんとも、ありがたいことだ。

仏教において(というより、インド哲学において・・・)、輪廻転生は、はてしなく広がり続ける、迷いと苦しみのチェーン展開みたいなもの。「人生は明るく楽しいので、ボクは何度でも繰り返したい」と考えているような修行者は、残念ながらいなかった。かといって、「我々は、地球で厳しい魂修行を重ねることにより、永遠に進歩発展向上していくのだ」というような、輪廻転生を前向きにとらえる発想もまったくなかった。

仏教において、輪廻転生は、単に長くて苦しいだけ。無明(むみょう・・・まっ暗で、何も分からないこと)が原因で、それは延々と続く。目を覚ませば、それは終了する。

輪廻転生の終焉、つまり、「どこにも生まれ変わらない」というのが、人間として最高の幸せ。「天国に生まれ変わる幸せ」というのも素晴らしいのだが、どこにも生まれ変わらないのは、それすらも上回る幸せだ。

これを見て、「人生はそこまで苦しくないよ? 確かにツライこともあるけど、楽しいことも一杯あるじゃないの。働いたり、遊んだり、結婚して子供を育てたり・・・。生き甲斐は、いろんなところにあるものさ」と言う人もいるだろう。

確かに、その通り。かの高名なロバート・モンロー氏も、体外離脱して出会った高次の存在から「輪廻転生からの卒業」の話を聞かされたとき、そのように言ったという。

ところが、高次の存在によれば、それは錯覚であるらしい。というより、「そのように錯覚させることによって、延々と輪廻転生を続けさせる」というのが、地球生命系にビルトインされたシステムなんだそうな・・・。現代人も、大半がその罠から抜け出せずにいる。
 
どうやら、お釈迦さまも、それに近い考え方だったようだ。「魅力あふれる美女が、腐乱死体になって、白骨になる姿をイメージする瞑想」とかを、弟子たちに一生懸命やらせていた。輪廻転生を終わらせるため、人によってはまず、「この世は楽しいところじゃないんだ」と思うところから始めなければならない(笑)。
 
ブッダがアチコチで有名な師匠を訪ねて修行していた頃、修行者たちは皆、「輪廻転生を終わらせるにはどうしたらよいか」を、一生懸命に探究していた。

古代インドは、輪廻転生思想の本場。日本の新興宗教の教祖には、「ブッダは古代インドにおいて、『あの世はある。人は生まれ変わる』ということを人々に教えたのです」という人を見かけるのだが、それはまったく事実に反する。古代インド人たちにとって、輪廻転生は当たり前の常識であり、誰にとっても前提となるスタートラインにすぎなかった。「何が原因で輪廻転生は起こり、どうすれば終わらせられるのか」というのが、彼らの探究対象。ブッダも、そのラインに乗っている。

「どうやら、煩悩を滅尽すれば輪廻を終わらせられるようだ」というところまでは、すでに先人がたどりついていた。煩悩とは、食欲・性欲・金銭欲とか・・・その他もろもろの欲望とか。

それを実現するために、「一切の思考を止めて、完全なる無念無想の境地になる」という修行のメソッドも、ある高名な師匠によって確立されていたという。ブッダはさすがに優秀で、あっという間にそれをマスターした。でも、さんざんやってみたけど、「これじゃ何かが足りない・・・」という違和感を抑え切れなかったという。どうやら、「一切の思考を止めて無念無想になった」というだけじゃ、まだダメらしい。

その後、紆余曲折を経て、ブッダは気づいた。「輪廻転生が発生する、本当の根本的な原因」に気づいた。

それを一言で言えば、「根源的な生存欲」だということだ。

食欲・性欲・金銭欲・・・その他もろもろの欲望の奥、さらに一段と深い奥底には、根源的な生存欲がある。あまりにも我々の意識に深く刻み込まれているが故にふだんは意識することもない、生存への執着。「生きていきたい」という、あらゆる存在者が持つ根源的な本能だ。
 
古代インド思想と近代ドイツ哲学を統合した異色の哲学者・ショーペンハウアーに言わせれば、「生きんとする意志」といったところか。

万生万物の「生きんとする意志」が、炎となって燃え上がり、すべてのものの存在原因となっている。人生は苦しい。ショーペンハウアーによれば、芸術、特に音楽によって、その苦しみを癒すことはできる。だが、それは一時の癒しにすぎない。「生きんとする意志」を克服しない限り、最終的な解決にはならない・・・。

言われてみれば、確かにその通り。だが、これはコロンブスの卵。誰かが言ってくれない限り、凡夫には永遠に気づきそうもない。

ありがたや。合掌・・・・・。
 

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薪が尽きたとき、火も燃え尽きる・・・

2009年06月04日 | 釈迦 ~ 輪廻転生からの卒業
    
「火が、薪(たきぎ)から薪へと燃え移る」というのが、仏教における輪廻のイメージです。

やがて、薪は尽きて、火も燃え尽きるときがくる。

それが、輪廻転生の終焉。ブッダは、「輪廻転生の終焉」を説いた。というより、「輪廻転生が起きる原因と、それを終わらせる方法」を説いた。
 
現代日本人の目には、あまりにも奇異に映るテーマなので、それを最初からハッキリと言ってくれる人がなかなかいない。そのため、「ブッダのメインテーマはそれだった」というスタートラインにたどりつくだけでも、かなりの時間と労力を要することになる(笑)。
 
それはともかく、ブッダは「輪廻転生が起きる原因と、それを終わらせる方法」を説いた。でも、残念ながら(?)、「輪廻転生を終わらせた人がどこに行くのか」については、教えてくれませんでした。ブッダによると、「どこかに行くというワケでもないし、どこにも行かないというワケでもない」んだそうな。

これを聞いて、すっかりワケが分からなくなってしまった人が、「どういうことなのか説明してください」としつこく食い下がった。すると、ブッダはこのように説明したという・・・。

ヴァッチャよ、私はさらに、汝(なんじ)のために説こう。いま私が、汝に問うから、思いのままに答えるがよい。ヴァッチャよ、もし汝の前に、火が燃えているとしたならば、汝は、火が燃えている、と知ることができるか。」

「無論である。」

「では、ヴァッチャよ、この火は何によって燃えるのであるかと問われたならば、汝は何と答えるか。」

「それは、この火は、薪(たきぎ)があるから燃えるのだと、私は答える。」

「では、もし汝の前で、その火が消えたならば、汝は、火は消えた、と知ることができるか。」

「無論である。」

「では、ヴァッチャよ、かの火はどこに行ってしまったかと問われたならば、汝はいかに答えるか。」

「世尊よ、それは問いが適当ではない。かの火は、薪があったから燃えたのであり、薪が尽きたから消えたのである。」

そこで、世尊は、うなずいて、説いていった。

「ヴァッチャよ、まったくその通りである。そしてそれと同じように、かの色をもって人を示す者には、色が捨てられ、その根は断たれる時、その人はすでになく、また生ぜざるものとなるであろう。その時、ヴァッチャよ、人は色より解脱したのである。・・・そして、ヴァッチャよ、受についても、想についても、行についても、識についても、また同じである。」  



輪廻転生は、永遠に続く苦の連鎖。果てしなく続く、迷いの生存。

でも、一切の執着を断って煩悩を滅尽すれば、薪が尽きて火も消えるように、輪廻転生は終わります。

ありがたや。合掌・・・・・。
 

ミリンダ王の問い

2009年05月30日 | 釈迦 ~ 輪廻転生からの卒業
 
釈尊は、霊魂を否定した。単純な「生まれ変わり」論を退けました。でも、ここで根本的な疑問が生ずる。それは、「霊魂がないのなら、何が輪廻するのか」というもの。

それに対する回答が、かの有名な「ミリンダ王の問い」にあります。
 


「ブッダは再生を信じたか?」 ギリシア人のミリンダ王は尋ねた。
ナーガセーナは「然り」と答えた。
「それは矛盾していないか?」 
「否」とナーガセーナは言った。

「魂がなくても再生があるのか?」 
「もちろんです」
「どうしてありうるのか?」

「たとえば王よ、灯火から灯火に火を移せば転生というでしょうか?」
「そんなことはもちろん言わない」
「霊魂のない再生とはそういうものです、王よ」

「もっとよく説明せよ、ナーガセーナよ」
「子供の頃教師から習った詩句を記憶していますか、王よ」
「記憶しているとも」
「その詩句は教師から転生したものですか?」
「もちろんそうではない」
「転生のない再生とはそのようなものです、王よ」

「魂というようなものはあるのだろうか、ナーガセーナよ」
「究極においてそのようなものは存在しません」
「見事である、ナーガセーナ」
 
(以上、『ミリンダ王の問い~ インドとギリシャの対決』の一節)
 
 
古代の大征服者・アレクサンドロス大王の東征により、遥か東方のインダス川流域あたりまで、ギリシャ人の勢力が広がった。古代の西北インドには、その流れをくむギリシャ人の王様たちの時代がしばらく続きました。「ミリンダ王の問い ~ インドとギリシャの対決」は、ギリシャ的な知性を極めたミリンダ王と、インド的な知性を極めたナーガセーナ長老の、哲学的な対話です。ともに、観念的な知性としては世界の最高峰と言える2人による、一種の頂上対決。

ここでナーガセーナ長老は、「霊魂は無い。だけど、人は生まれ変わる」という、仏教の根本教義を明快に説明しています。

つまり、仏教の輪廻は、単なる「原因と結果の連鎖」にすぎない。「輪廻する主体」が、スッポリと抜け落ちている。まったく、主体性のカケラもない。

それが、実によく分かる。まさしく、「見事である、ナーガセーナ」というところでしょうな・・・。
 

不連続な輪廻転生

2009年01月21日 | 釈迦 ~ 輪廻転生からの卒業
 
川の水は、百年前も、今も、同じように流れ続けている。百年前の水と、今の水は、同じなのか、違うのか。同じだと思えば同じだし、違うと思えば違う。

輪廻もまた、それと同じようなものです。過去世の自分と、現世の自分。さらに、未来世の自分。そこに、なんらかの連続性は認めるものの、同一の主体とは認めない。

「輪廻」というのは、本来そういうものです。「ダイヤモンドのようにハードなコア(真我)が、転々とアチコチに転生している」といった、ベタな生まれ変わり説は、現代の精神世界論では主流とは言いがたい。それは、自我への執着を強め、逆効果となりかねません。
  
「同一の主体が転生しているわけではない」というのは、大昔の原始仏典にも明記されています。
 
正確には、「現世の自分と来世の自分とは、同じというわけでもなく、違うというわけでもない」。

「不常不断の中道」にブッダが直接言及した部分として、古来から論拠とされています。
 


  (現世で)行為をする者と、(来世で)カルマを受ける者とは、同じであるとするのが、 カッサパよ・・・これは常住であるという見解に到達する。

(現世で)行為をする者と、(来世で)カルマを受ける者とは、違うものであるとするのが、 カッサパよ・・・断滅するという見解に到達する。

カッサパよ、これら二つの極端に近づくことなく、中道によって如来は法を説くのである。


 
(サンユッタ・ニカーヤ 12・17) 引用部分の出典:石飛道子著「ブッダと龍樹の論理学」
 

人は死んでも、魂が永遠に生き続ける。・・・このような考え方を、「常見」(常住論)といいます。

一方、人生は一度きり。人は死ねば無になる。・・・このような考え方を、「断見」(断滅論)といいます。
 
ブッダは、この両方とも、「偏った見方である」として退けた。
 
正解は、どちらでもない。これを、「不常不断の中道」といいます。
   
これは通常、「『永遠の魂は有るか無いか』というのは、どちらとも結論の出ない問題なので、ブッダは論争を避けるために断定を避けたのである」という風に解釈されているのをよく見かけます。でも、それには違和感を覚える。
 
というのも、上の引用部分をどう見ても、ブッダは「現世の自分と、来世の自分とは、同じというわけでもなく、違うというわけでもない」と言っているにすぎないから。永遠の魂は有るとか、無いとか、そういうことを言っているようには見えません。
  
現世の自分と、来世の自分。この2つは、同一人物ではないのだが、かといって、別人物でもない。ここが、微妙だが重要なところ。
 
ここで連想するのは、「シルバーバーチの霊訓」に見られるような、近代スピリチュアル的な「トータルセルフ」の考え方です。

シルバーバーチによれば、過去世の自分、現世の自分、未来世の自分・・・は、あの世のどこかで見れば、ダイヤモンドのように集って一体になっているという。美しくカットされたダイヤモンドのように、無数のカット面が光を乱反射している。その、ひとつひとつのカット面が、過去世の自分、現世の自分、未来世の自分・・・というわけ。これらは、同じであって、同じでない。かといって、別々のものとして分けられるものでもない。
 
もちろん、仏教に「トータルセルフ」という考え方はありません。でも、何か根底に通じるものを感じる・・・。
 

霊魂がないのなら、何が輪廻転生しているのか

2009年01月21日 | 釈迦 ~ 輪廻転生からの卒業
 
「我はない」というのが、お釈迦さまの教えです。ここでいう我とは、「永遠の魂」を意味する。

もちろん、「自分」は現にいます。でなきゃ、今ここで掲示板やブログに向かっているのは、一体誰?・・・ということになる(笑)。

そうではなくて、その自分が、永遠に続くわけではないということです。つまり、「自分」はいるんだけど、「永遠に続く自分の実体」はない・・・ということ。

ここに、ひとつの疑問が生じる。それは、
 
「霊魂(真我)がないのに、何が(過去に)輪廻転生してきたのか?」

というもの。

これは、単なる素朴な疑問じゃありません。古代インドの昔から、仏教界の哲学者たちがさんざん語ってきた、最大の論点のひとつです。極端な話、「仏教哲学とは何か。それは、上記の疑問に対する膨大な回答である」という人までいるくらいだ。やがて、それは「唯識論」の壮大な哲学体系に結実した・・・。

でも、実際のところ、難しく考える必要はありません。
 
早い話が、仏教では、輪廻転生を 「火が、薪(たきぎ)から薪へと燃え移るようなもの」 と考えているのです。
 
薪が燃えているから、火がある。薪が尽きれば、火も尽きる。別の薪に燃え移れば、また燃え続ける。

では、最初に燃えていた火と、別の薪に燃え移ってから後の火とは、同じものなのか、違うものなのか。

これは、なんとも言えません。同じだと思えば同じだし、違うと思えば違う。

実際、ブッダがこの質問をしたとき、弟子は「それは、まったく無意味な問いであります」と答え、ブッダは「その通りだ。これは、まったく無意味な問いなのである」と言ったという。

同じだと思えば同じだし、違うと思えば違う。ブッダによれば、輪廻もまた、そのようなものなのだという。

過去世の自分と、現世の自分。

そこには、なんらかの継続性が認められる。それは確か。そこまで否定しているわけじゃありません。

ただし、この両者には同一の実体があるのかと言えば、そういうわけでもない。「同じだと思えば同じだけど、違うと思えば違う」という程度のつながり。継続性といっても、その程度。
 
「永遠に続く自分の実体」(つまり、霊魂)を認めないのが、仏教の特徴です。そもそも、永遠に続くものなど何もないというのが、仏教の根本思想。永遠に続かないものの中には、霊魂も含まれる。
 
「輪廻転生は否定していない。でも、転生する実体は認めていない」

というのは、そういうことです。
 
そして、薪から薪へと燃え移ってきた火にも、最後に燃え尽きるときがくる。すべての薪が燃え尽きたとき、火もまた燃え尽きる。

それが、解脱。言い換えれば、輪廻転生の終焉。

仏教修行者に共通する目標です。

ありがたや・・・・・。
 
 

霊魂はない。だけど、輪廻転生はある

2009年01月21日 | 釈迦 ~ 輪廻転生からの卒業
 
「我は無い」(無我)というのが、お釈迦さまの教え。

ここでいう「我」とは、単なる自分ではありません。それは、「生まれ変わり、死に変わり、永遠に生き続ける自分の実体」。「真我」とも言います。要するに、「霊魂」。

つまり、「霊魂は無い」というのが、お釈迦さまの教えです。

一方で、「輪廻転生の終焉」が仏教の主題であることは、よく知られている。「目覚めた人は、もはや生まれ変わらない。すべての生存を滅尽する」。こういったフレーズが、原始仏典には数え切れないほど登場する。

「目覚めた人はもはや生まれ変わらない」ということは、下記の2つを前提としています。

① 目覚めた人も、過去には生まれ変わってきた。

② まだ目覚めていない人は、これからも生まれ変わる。

これについては、その通りに仏典にも明記されています。仏典にいわく、

「釈尊には、超人的な目(天眼通)が生じて、次の3つの事実が見えた。 ①私は過去に無数の生存を繰り返してきた。 ②生きとし生けるものたちは、生まれ変わり、死に変わっている。 ③私は解脱した、もはや生まれ変わることはない」・・・。

これが何度も出てくるところを見ると、生前の釈尊は、本当にこのように語っていたのだろう。
つまり、「霊魂はない。だけど、輪廻転生はある」というのが、釈尊の教えということになる。

コレに対しては、強力な反論があります。

それは、「釈尊は、『輪廻転生は無い』と考えていた。つまり、輪廻転生そのものを否定することが、釈尊の真意であった。だが、あまりにも当時のインド人が輪廻を固く信じているので、方便として『輪廻転生の終焉』論を説いたのである」・・・というもの。

この考え方にも、それなりの説得力があるのは事実です。かなり、無理な解釈ではあるのだが・・・。でも、ここはやっぱり、額面どおりに受け取りたい。つまり、

「霊魂はない。だけど、輪廻転生はある」。

それが、お釈迦さまの教え。

ありがたや。

合掌・・・・・。