旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

パリ~朝のモンマルトル、

2023-02-14 10:25:05 | フランス

↑青空のモンマルトル。サクレクール聖堂のもとへ↑
バスをつかって行きましょう↓一日券モビリス8.45ユーロも買ったし(^^)



フランスの朝ごはんは多様なチーズと焼きたてのバゲットがあればそれでじゅうぶん。
オペラ座裏のオスマン通りのホテルを出て近くのバス停へ↓
↓途中でビルの間から朝陽に照らされたサクレクール聖堂が見えた

↑きのうは夕陽が当たっていたっけ

朝9時過ぎ、幸い空いたバスに乗れた。

バスに乗ったらチケットを↑この機械にとおす

すいすい進んで、09:30にはパリを見晴らす丘の上のバス停に到着

オペラ座裏からは遠くに見えていたサクレクール聖堂のドームが

路地の向こうにびっくりするほど大きく見えた。

↑画家たちが似顔絵の店を出すテルトル広場↑

朝十時前は観光客も画家もまばら。

↑ドッグランで近所の犬たちが集会(^^)

↑あ、今日はバレンタインデーだっけ。

朝早くだったので行列せずに大聖堂の中に入れた。

ビザンチン風の巨大なキリストのモザイク画が見下ろしている。
1871年にプロイセン(今のドイツの一部)にパリまで攻め込まれた敗戦の際の、多くの犠牲者を追悼するために建設された。

「モンマルトル」とは「殉教者の丘」という意味である。

ドームと、もうひとつは鐘楼↑

↑丘の裏側へ降りる長い階段↑

↑「ラパン・アジル」でピアノを弾いていたエリック・サティが住んだ家↓



画家たちが住んだ家は「モンマルトル美術館」になっている。

↑こちらの塔は給水塔


↑右手奥に、今も営業しているシャンソン酒場「ラパン・アジル」の赤い壁

↑ユトリロがこの構図で描いていたっけ

広い階段をゆっくり降りてゆく。

振り返るとメリーゴーランドと青空とサクレクール聖堂

モンマルトルの丘のふもとはちょっとごみごみしている。
しかし、ちょー安い衣料・雑貨・お土産の店がいっぱいで見て歩くのは楽しい。
ロートレックの時代から現代までいわば「パリの歌舞伎町」。

↑大通りに出たところで地下鉄アンヴェール駅に降りる↑ギュイマールがデザインしたアールヌーボーの入口↑

まだ午前11時過ぎ。
「セーヌ川にかかるいちばん美しい橋」に行くことにした。

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パリ車窓観光でゴジラなみに巨大な草間彌生を見上げる

2023-02-13 13:24:40 | フランス
ゴジラなみに巨大な草間彌生がルイ・ヴィトン本店に水玉を貼っていた。


南仏ニースから雪山を超え、午後一時過ぎにパリに到着。
2/8に日本から到着したのと同じシンキさんにお迎えいただいた。

オルリー空港はパリの南17キロに位置している。

久しぶりのエッフェル塔(^^)
機内で先行上映していた映画「エッフェル塔」を見ていたので、またちがってみえてくる。
※こちらに書きました

セーヌに沿って走る。
↑東京のお台場にもやってきた「自由の女神像」

↑地下鉄がいちばん上を走るビルアーケイム橋。

↑ダイアナ妃が事故死したアルマ橋近くのトンネル↑上に見えている金色の炎はNYの「自由の女神像」の持っているのと同じ大きさ。

↑ロシア皇帝の名前がつけられたアレクサンドル三世橋

↑旧のオペラ座(ガルニエ宮)

↑今回はオペラ座の内部見学を予約した↑かつてはいついってもすぐに入れたが、近頃はけっこうな行列。
ナポレオン三世が馬車で入るための入口の下から入場

地下には「オペラ座の怪人」にでてくるような、公開されていない池もあるのだとか。

一階に上がる階段

さらに壮麗な大階段を登って客席入口までいく。

↑「オペラ座の怪人」の怪人の座っていた席はここ↑
今日はリハーサルがあって客席が見られないのが残念

社交場でもあったからホイヤーこそがこのオペラ座の見せ所と言えるだろう。

ベルサイユ宮殿の「鏡の間」をモデルにしているという。なるほど。

このクラシックなデザインが19世紀後半定番の美しさだった。

このオペラ座の設計者のガルニエは、当時台頭してきていた印象派が大嫌いだったそうな。

天井に窓があるのもこの時代の流行。

ここのお土産屋さんでしか売っていない↑オペラ・ガルニエ宮の屋上でつくられたハチミツ↑

バレリーナの絵本↑オペラ座とはいうもののガルニエ宮は今はバレエをメインに上演している。

↑後ろから見たオペラ座

↑近くの老舗トーシューズ店

バンドーム広場のナポレオンの柱がみえてきた↑

柱の下部分↑向こうにはダイアナ妃が最後の食事をしていたホテル・リッツ。

↑何のお店?

↑パリ市庁舎

↑パスカルが気圧の実験をした「サン・ジャックの塔」は16世紀初頭にフランソワ一世によって建設された。ということは、かのレオナルド・ダ・ヴィンチも見たことがあったはず。フランス革命中の1797年に元あった教会は取り壊されこの塔だけが残された。サン・ジャックはスペイン語でサンチャゴ。サンチャゴ・デ・コンポステラへ向かう巡礼たちの起点になっていた場所である。

遠くに見えるのは↑ソルボンヌ大学に属する天文台↑

火災に遭って再建中のノートルダム大聖堂↑ファサードは昔のままのようだが、身廊部分の上に立っていた塔が崩れ落ちた。

↑パリ学士院=アカデミー・フランセーズ

↑アンヴァリッド(廃兵院)

エッフェル塔のすぐちかくに↑★モスクが新しくできていてびっくり。こんな建築物も新たに建設がみとめられるのがパリ。



そして凱旋門

コンコルド広場へ向かう二キロのシャンゼリゼ通り

その途中右手に、冒頭写真の「ゴジラなみに巨大な草間彌生」が見えてきた↓

「観光客でいっぱいのシャンゼリゼ通りになど足を向けないパリジャンも、これが見たくてやってくるほど話題のスポットになっています」とガイドさん。

有無を言わさぬ草間彌生

究極の表現は自分自身の存在なのだと、思い知らされた。


↑シャンゼリゼ通りの突き当り=コンコルド広場にはエジプトからもってこられたオベリスク↑

コンコルド広場の北側に↑左側クリヨンホテル(日本の総理大臣定宿)、右側フランス海軍省。

↑ブランド街=フォーブール・サントノーレ通り↑エルメスがちらりと見える

↑ピアフのホームグランドだったオリンピア劇場
オペラ座をまわりこんでオスマン通りに入り、ホテルに到着する直前に↑通りの間からサクレクール聖堂が夕陽に照らされていた↑
**
夕食はホテルのダイニングを席だけ予約してもらっていた。
それぞれメニューから注文するほうが楽しい。

↑小松がいちばん「また食べたい」と思ったのが↑南イタリアの生チーズ「ブッラータ」をキノコとルッコラを炒めた上にのせたもの。ナイフをいれるとチーズがいっきにひろがるのです(^^)
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ニース旧市街散歩とカーニバル

2023-02-12 12:01:51 | フランス
カーニバル観覧席への入場口

旧市街入口にある市立劇場。

1776年以来この場所にオペラ劇場があるが1881年の上演中にガス爆発が起きて火事に。
ネオ・クラシックで再建された↑

↑すぐ前にある建物は「イタリア方面遠征軍司令官だったナポレオンが滞在した↓

すぐ先のサレヤ広場には黄色いミモザの花が春を告げている。

柑橘類も、野菜も、

突き当りのビルの最上階はマティスがアトリエにしていた↓



旧市街の細い道にはいっていくと、

↑貴族の宮殿が内部公開している看板が目についた↑
ラスカリス宮殿。古楽器の展示をしている。

入ってすぐの天井に紋章が↑

↑日本語の解説リーフレットによると、「17世紀中ごろに第57代マルタ騎士団団長の甥であるラスカリス・ヴァンテミリアが一族のために建てた」とのこと。フランス革命期の1802年に売却され荒れ果てていたものを1942年にニース市が購入した。
クラシックな食器と楽器のコレクションがずらり。

肖像画の部屋にはマルタ十字をつけた男たち


聖ヨハネ騎士団(=マルタ騎士団)はマルタ島に本拠地を移す以前、ニースを本拠地にしていた時期がある。
1522年にオスマン・トルコによってロードス島を追われた後マルタ島に本拠地を得るまでの8年間ヨーロッパ各地を転々としていたのだが、フランスの有力貴族が多く在籍していた縁で1527年11月23日から1529年6月14日までの本拠地がニースだった。
このラスカリス宮殿はその時期よりは後に建設された建物だが、マルタ騎士団となってからも縁者はたくさん行き来していたにちがいない。


モーツァルトがヨーロッパ中を旅していた時期、ここはラスカリス・ヴァンでミリア家の邸宅だった。


↑天蓋付きのベッド↑壁全面を覆うタペストリーにその時代を感じる。


***
お昼時になりカフェでランチ


肉を野菜に詰めたファルシ、定番のムール貝の白ワイン蒸し

カーニバルを見に来たとおぼしき遠来のお客で満席。
****

チケットと持ち物検査

「花合戦」は15時スタートだが一時間近く前からがんがん音楽をかけてDJがもりあげている。

やがてはじまり、仮装と山車がつぎつぎにやってきた。


ムーランルージュ?

タヒチ?

よくわからないコンセプトの集団もたくさん


↑巨大な龍にのったのは中国勢だった

↑南インド?

「花合戦」とはいうものの、コロナ禍でミモザの花を投げなくなったのはひょうしぬけ。
※2013年の「花合戦」の様子をこちらに載せています

山車のサイズも以前よりは(これでもだいぶん)小さくなった
※2006年の様子をこちらに載せています


それでも、青空の下一時間半のパレードを楽しんだ(^^)
*****
夕食は軽く…となるとレストランではなくカフェかバーになる
スペイン風のメニューが出ていたお店にはいると

カリブ海?

なんとキューバ風(^^)ならば、モヒートを注文しなくちゃ↑

タパスは充実していた↑メキシコ風のケサディーリャ、しし唐の素揚げ

南仏のワインと共に
生演奏がはじまる前に出た
******
翌朝、ニースの空港へ向かう。

空港のすぐ西に川がながれていて↑1860年以前はここが国境↑こちら側はイタリアだった。

パリへ向かう飛行機が離陸すると、プロムナード・ザングレの続く「天使の湾」がきれいに弧を描いている。
雪をかぶった山々をみながらパリ・オルリー空港まで一時間ほど。



コメント (2)
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ニース海岸散歩~ネグレスコホテルの前より

2023-02-12 09:26:48 | フランス
ニースの海岸にピンクのドームが映える

前日夕方、ニースへ向かう道。カンヌのある湾が見えてきた。

正面は「鉄仮面」が幽閉されたマルグリット島だろうか。

二月のフランス内陸部は凍りつく寒さだが、
地中海岸にでてくると気温はいっきに10度を超えていた。

ニースのある「アルプ=マリティム県」はその名の通り雪山と海の両方がある。

カーニバルがはじまるので道路規制。
中心部のホテルにチェックインして、食堂街へ夕食へ。

良い感じのお店でした(^^)

ネグレスコホテルの夜景を横目に見ながらホテルに戻る。

朝7時。最上階8階の朝食会場の扉が開くと朝焼け。

パンが温かくてうれしい。

やがて朝日が屋上を照らしはじめる。

海の方を見ると↑ネグレスコホテルのピンクのドームが突き出してた。
**
9時にガイドさんと歩きはじめる。

海岸に出るとマセナ美術館↑
ナポレオン配下のマセナ将軍の一族の屋敷だった建物。

すぐ近くにネグレスコホテル。
ニースのシンボルになっているこの建物は、ルーマニアからやってきたアンリ・ネグレスコ(本名Alexandru Negrescu)によって1912年に開業。

折り悪く二年後に第一次世界大戦がはじまり、世界経済が失速すると経営破綻。
終戦時には病院として使われていた。
戦後ベルギーの会社に売却され、ネグレスコ自身は二年後にパリで死去(52歳)。
1957年に有名な女性オーナーとなるジャンヌ・オジェの父であるメナム氏が買った。足の悪い妻のために車いすが使えるホテルを探していて、即決だったのだそうだ。
ジャンヌは2019年に亡くなるまでこのホテルに住んでいた。

入り口わきに置かれたニキ・ド・サンファルのマイルス像↑
このホテルはダリからエルトン・ジョンまで数多芸能人に好まれてきた。
2003年には「フランスの歴史的建造物」に認定されている。


ル・ネグレスコの前の海岸線を7キロにわたってのびているのが「プロムナード・ザングレ(イギリス人の散歩道)
19世紀後半に富裕なイギリス人たちが滞在していたことでこの海岸線の道がつくられた。

ゆったり広い歩道。
暖かい陽射し。
読書する人、走る人、犬を散歩する人。

砂浜を金属探知機で探る人↑
清掃活動ではなく、お宝探しなのだそうです。

カーニバルの看板。今年は150周年。

2013年に訪れた時にはこの海岸線の道が巨大な会場だったのだが、今はマセナ広場エリアに移動している。
この記念碑は2016年に起きた暴走車によるテロの鎮魂碑。

↑巨大な彫刻が印象的なファサードは「パレ・メディテラネ(地中海宮殿)」1940年ごろの建物?
長く廃墟になっていたがファサードを残して改築され1980年代に巨大ホテルとなっている。



↑1860年にニースがフランス領になったことを記念した碑↑住民投票は2500対260の大差だった。
この時期のイタリアはまだイタリアとして統一されておらず、経済的にも政治的にも混乱していた。

↑マセナ広場のカーニバル会場がちらりと見えてニースの旧市街に入っていく。

↑ボーリバージュホテルはロシア人作家のチェーホフや
若き日のマティスも滞在した
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アヴィニョンでメリーゴーランドに乗る、市場を覗いて食材散歩

2023-02-11 12:46:09 | フランス
大人もほんとは乗ってみたい(^^)
アヴィニョン市庁舎前広場の常設のメリーゴーランド

正午になり、市庁舎の仕掛け時計を見守ったがやっぱり動かなかった。

広場に面してずらりと並んだお店のひとつでガレットやオニオンスープを食べた。

レトロな本格的なメリーゴーランドが明るい昼の光に輝いている。
「のってみたーい」

一回2.5ユーロだが、六回なら12ユーロ。旅の女性メンバー全員のれますね(^^)
もって帰りたくなるようなチケット

三分ぐらいまわったかしらん(^^)
**

法皇宮殿の裏側の路地を歩くと

↑建物の基礎はローマ時代のアーチだったとわかる。

突然開けた広場にあるサン・ピエール教会↑
ここは七世紀の司教でありアヴィニョンの守護聖人である聖アグリコラが葬られた場所。
1358年に再建され、1495年の鐘楼をもち、ファサードは1511-24年に完成。
※案内看板より
↓その扉に1551年にはめこまれた木製彫刻(アントワーヌ・ヴォラール作)は一見に値する↓

↑いかにものルネサンス彫刻↑
***
入口は修復中のレ・アール市場を覗いてみよう

↑肉売り場は大きく・いろいろな種類のいろいろな部位を売っている。日本人のサカナへのこだわりに似ている。

↑フランスはチーズの国↑

ポテトも多彩だが、ジャガイモは18世紀にパルマンティエが普及させたもの※2007年のブログに書きました

キノコ、おいしそう!

そのまま食べられる総菜も売っている。
ここでお昼もよかったかも(^^)

↑タプナードソース(黒オリーブとアンチョビなど)が目に留まった↑
味見して思わず買っちゃいました。けっこう塩分が濃いからオリーブオイルで薄めてハーブかバジルを足してパスタソースにしよう(^^)


街へ出て歩くと

↑不思議な寿司屋も目につく

↑本格的そうな日本的ラーメン屋さん

ギョウザ7ユーロ、ラーメン12ユーロ。
これを高いと思ってはいけない。
日本が安すぎるのではないかしらん。

↑向かいの店は日本関係の書籍などを積極的に扱っていた↑

↑こちらはアヴィニョンのお菓子屋さん

↑レモン菓子がいちばんの売り。南仏ですねぇ。
*****

南仏のシンボルのひとつは蝉↑日本のとはぜんぜん違う鳴き声なんですが。

ローヌ川沿いのバス駐車場に集合する前にしばし自由時間。
すぐちかくが有名な「アヴィニョンの橋」なので、ちょうど行く時間になる。

入場料を払うと日本語のイヤフォンガイドも借りられて、これがなかなか詳しいのです。

バスのところから橋の上を歩く旅メンバーを見ていたら、なにやらカラフルな格好の人物とお話してましたが…
こんなピエロさんだったのですね(^^)

バスの駐車場を出て、対岸の写真スポットへ向かう。
地元ガイドさんが道案内してくれたから行けたけれど、ハンガリーからのドライバーさんだけだったらむずかしかっただろう。対岸と書いたけれど実際は中州のビューポイントから、「アヴィニョンの橋」と旧法皇庁宮殿、ドンの岩山がきれいにみえた


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