旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

《手造の旅》尾道と瀬戸内の島々~なかた美術館、松翠園、商店街ウォーク

2021-04-20 16:30:13 | 国内
尾道でフジタのこんな薔薇の絵が見られる。間近で見ると日本画のような味わいだ。

「墨で描かれた線です」と言われると、なるほど納得↑

なかた美術館のコレクションはそのために尾道へ行く価値がある
※今回は「花を描く」展覧会を開催中


↑ひと目でシャガール(^^)

↑鳥海青児の「ばら」しましまの花瓶との対比がおもしろい

↑梅原龍三郎「マジョルカ壺に牡丹」 壁も花も赤(^^) マジョルカ陶器の黄色も飲み込まれる赤

↑北川民次「薔薇」 メキシコの「壁画運動」に参加してディエゴ・リベラとも交流があった作家だと記憶していたので、イメージの違いにきょとんとした。メキシコの民衆運動で絵画が果たしたような役割は日本ではありえなかった。
※メキシコで「壁画運動」に圧倒されたときのブログをこちらに書いています


ポール・アイズビリ「マンドリンのある風景」

同じくアイズビリの「黄色いバックのブーケ」

アイズビリの息子ジル・ゴリチの「窓辺の紫陽花のブーケ」
この父と息子へは生前の中田氏が直接後援をしていたのだそうだ。

ポール・ギヤマン「キンケイカ」 デザイン化された花と青色がすっきりしている(^^)

↑千葉房総の風景を描いたこの作品は日本の田舎風景をよくうつしとっている
「外房州」中村琢二

室内楽などのコンサートにもちょうどよい空間。

※2020年3月に訪れた時のブログをご覧ください。フレンチレストランとそこから見る日本庭園も見事です。

ランチは高原誠吉食堂さんにお弁当をつくっていただき、特別に美術館で食べさせていただいた。
※こちら食べログのページです

「軽く」とおねがいしていたけれど、器をかえればそのままお店での豪華ランチ(^^)

みんなで写真を撮って入口をみると、あ!あの新尾道駅のロータリーにあった大理石彫刻をつくった人の作品だ↓

↑※翌日に作者ご本人にお会いできるとは、おもってもいませんでした(^^)
***
きのうご案内いただいた尾道の空き家再生をてがけておられる豊田さんに、今日は尾道駅裏の高台にある「松翠園」でスライドトークをしていただいた。ここはかつて尾道の「旦那衆」が会合していた場所。

「旦那衆」も登っただろう階段の先に↑
粋な空間が待っていた。
※こちらにわかりやすく解説しておられます


***
商店街ウォークも尾道の楽しみ

三つに分かれ長さ1キロに延びている、駅に近いところに林芙美子記念館がある。

こぢんまりした展示だが内容は濃いし、熱心な商店街のボランティアガイドさんたちの解説でよく理解できる。

今回も興味深い解説でした(^^)

奥には彼女の住んだ家が再現してある

ほど近いところにある元の商業会議所が展示室になっていて、二階の議会はそのまんま。
※3月の下見の時のブログをこちらからごらんください

さぁ、ベラビスタへ帰ろう(^^)
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《手造の旅》尾道と瀬戸内の島々~鞆の浦から船で尾道へ

2021-04-20 11:06:34 | 国内
かつて瀬戸内での「道」とは、海路のことだった。
この旅でそれを感じてもらいたくて、鞆の浦→尾道で船をチャーターした。


朝、車でベラビスタを出て09:30過ぎに鞆の浦に到着。

「対潮楼」からの眺めは、江戸時代の「朝鮮通信使」が「日東第一形勝」とたたえただけのことはある。
↑対岸の仙酔島を行き来する船は「いろは丸」を模してつくられた↑
皇室の紋入りの欄間。

↑対潮楼の入口気になる仁王様があったけれど由来はわからない


「しお待ちガイド」Yさんの詳しい解説で、鞆の浦を理解することができる。

「瀬戸内の潮の流れは約六時間に一度東西に変わるので、かつての船はそれを利用して航行していました。鞆の浦は良い潮を待つ港でした」
なるほど、なるほど。

対潮楼の下には八世紀に大伴旅人が万葉集に遺した歌が刻まれている。
還暦を過ぎてから大宰府行きを命じられ、任地で妻を亡くした。
「我妹子が見し鞆の浦のむろの木は 常世にあれど見し人そなき」
往路いっしょに見たむろの木はそのままなのに、復路に妻はいない…と慨嘆している。


↑坂本龍馬が隠れた屋根裏部屋がある家。
昭和の終わりごろ天井板を突いていて見つかったのだそうだ。
海援隊の荷を積んだ「いろは丸」が鞆の浦の近くで紀州藩の船と衝突して沈没。その賠償交渉をする間に滞在していた場所。
当時の龍馬は幕府から危険人物とみなされていたので偽名を使っていた。
※「いろは丸」の模型がある展示館は今回コロナ禍で休館していて残念
※下見の時のブログに、展示館外観と常夜灯の灯篭の写真を載せています
事故直後、鞆の浦での紀州藩との交渉は七回行われ、五回目は「対潮楼」で行われた。
龍馬は「才谷梅太郎」と変名を名乗っていたが、最後の交渉で本名を明かした。
「こいつがあの龍馬か」と思わせる効果を狙ったのかしらん(^^)
三週間後、長崎で継続交渉。
紀州藩は土佐藩を通じて賠償金を支払うこととなった。

2005年、第四次水中調査。
龍馬が積んでいると主張していた「最新式ミニエ銃四百丁」はそのかけらさえ見つからなかった。
当時の潜水技術ではわかりっこないと思った龍馬が賠償額をふっかけていた疑惑が証明されたことになるかもしれません(^^)
※こちらに(財)京都市埋蔵文化財研究所・京都市考古資料館の詳しい調査が掲載されています。写真もあってたいへんおもしろいです。

鞆の浦は古い家が多く残されているが、修復してその姿を復元したものも多い。
「崖の上のポニョ」のアイデアを練るために長期滞在した宮崎駿監督は↓この家の再生デザインを担当したのだそうだ↓

↓こんなふうに生まれ変わっております↓

この家が再生されたのは、ここが「いろは丸」の賠償交渉を五回やった場所だから。
龍馬ゆかりというのは大きいのです。


↑江戸時代は石垣の下までが海だった↑海沿いの車が通れる道は昭和30年代の埋め立よってできた。
この「対仙酔楼」は鞆の浦の豪商大坂屋の屋敷だった。頼山陽が「日本外史」の執筆で滞在し、この名前をつけたそうな。

※今回の旅では竹原でも頼山陽の話を聞き、現代にも語り継がれるその影響力を知った。

●保命酒は鞆の浦の名産

十六の材料を使ってつくられた健康酒。今も四っつのメーカーが生き残っている。

備後福山藩の庇護を得て独占的に発展した。
江戸末期に政変で京を追われた七卿が滞在した中村家も保命酒の蔵元だった。


杉玉の下の屋根から生えているのは「爪蓮華」=ラテン語名Orostachys japonica
シーボルトが江戸参府からの帰りに発見して世界に発表したのでこの名前になったのだった。

古くからの港に出た↑龍馬も見ただろう常夜灯の灯篭が見える↑
足利尊氏や義昭の時代の港もここだったのかしらん?
「室地幕府は鞆にはじまり鞆に終わる」というお話は興味深かった。
また次回にもっと詳しく伺いたいです(^^)


港の小さな祠。

そこに力比べで持ち上げていた「力石」が置かれている。

近くの別の祠に彫られた龍がなかなかカワイイ(^^)
**
海上タクシー「第八白兎」が迎えにきてくれた。

汐待ちガイドYさんに見送られて出航!

「第八白兎」の名前は船長の山河さんがウサギ歳だからなのだそうだ(^^)想定外のお答え

そして、いつも末広がりの「第八」(^^)八艘目ということではありません
※山河さんが十年前に志をもって小さな島の海上タクシーをはじめた話がこちらに載っています

今回、船から見ていただきたかった景色の代表が「阿伏兎観音」

※陸路で訪れた時の様子をこちらに載せています
広重は自分の目で見たのかしらん?

↑↑きのう夕方に田島のテレレへ行くときに渡った内海大橋↑途中で曲がっているのを不思議に思い調べてみると、海峡の途中にマナイタゾワイ(俎板の意味とおもわれる)岩礁があり、そこに足場をかける構造にしたため。これは秀逸なアイデア。船が岩礁にぶつかる危険も防げるし、橋の強度も増す。長くなっても費用はこちらの方が安くついたのだそうだ。デザインも美しい。建築の賞もうけている。※こちらに広島県のページがあります

大小の造船所が次々に見えてくる↑

↑これはアフリカはリベリア船籍のカーゴ船だった

↑我々の滞在しているベラビスタが見える↑もとは常石造船の迎賓館だった場所。


↑尾道と向島を結ぶ二つの橋が見えてきた。
手前が無料の尾道大橋(1968)、向こう側が有料のしまなみ海道・新尾道大橋(1999)

抜けて、左側の向島に日立造船の看板。尾道の街も見えてくる。

商工会議所のビルの向こうに千光寺の「玉の石」。
車のない時代、旅人の目に尾道という街はこんなふうに見えてきたのか。

晴れた穏やかな海をゆっくり航行しても四十五分ほどでした(^^)
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