旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

《手造の旅》尾道と瀬戸内の島々~因島水軍城、白滝山、「一本松」の記念碑

2021-04-21 11:31:40 | 国内
フェリーに乗りこむ寸前で車が停止した。
「この車、高さが2.6メートルなんです」

「たくさん乗ってるからだいじぅようぶだよ(笑)」
車は慎重に動きだし屋根をこすることなく乗りんで出航。ほっ。
瀬戸内を感じていただくためにできるだけ船をつかう行程にしたが、思いがけないことがあるものだ。
バス会社を下見した時に見たもう一台のHINOのバスは車高が高かった。
今回このTOYOTAを指定していなかったら、フェリーに乗れていなかった。
ほっ。

向島から因島に入る

↑今回の旅企画でいちばん発見が多かったのがこの因島
※下見の時に手に入れて読み込んだ冊子を載せました


最初は誰もがイメージする村上水軍について、水軍城で今井さんに解説していただいた。
この「城」はそのカタチをした博物館。もともと城があった場所ではない。
が、村上水軍の概略を知るには適した場所だ。

↑水軍の三種類の船。面白いのは右の中型船の先端。敵の船に突進して穴をあける突起がある。

↑船上の戦いで鎧武者は不利。陸戦用の防具をつけた相手なら↑この道具でひっかけて海に落とせばよい


↑村上水軍の祖は南朝の要請によって長野からやってきた村上氏、熊野水軍の応援をうけ瀬戸内の覇権をにぎると、三兄弟が三つの島に分かれて支配をはじめていた。
その血筋は受け継がれ、現在の因島村上氏の当主は女性
この場所から海は見えない。因島の中に二十四建てられていたという砦や城塞のあった場所ではないのである。

↑ここの次に行く白滝山の上からはぐるりと見晴らせるのだけれど↑
降りて、駐車場の近くで無料のみかんをいただきました(^.^)
**

白滝山(226m)からの絶景

↑因島村上氏の本城だった「青木城」は手前の丘・標高50mほど。
古くから修験道の修行場だった白滝山には観音堂が建設されていた。

そこにおびただしい数の石像を出現させたのは江戸後期十九世紀はじめの柏原伝六。
※三月の下見でそのいきさつを書きました

白滝山の「極楽」に登るには、八合目の駐車場から階段を登らなくてはならない。

なので、一般的なツアーには入らないことが多いのだが

登ればそれだけの価値がある場所だ。
観音堂の前でデコポンがふるまわれていた(^.^)

かつてはふもとからこの階段を登っていたのだから、楽になったものだ(^.^)

山頂に突き出していたのだろう巨大な岩石をそのまま彫り出し、尾道から呼んだ石工たちに名刺代わりの佛を刻ませ多宝塔をのせた。

別の巨石の上には修験者を表すのか、天狗たち↑

この巨石の端には異人のような顏が突き出している。堂守をしておられる峰松さんの祖先も、かつて山上の極楽を出現させるのに尽力した一人だったそうだ。

伝六亡き後、その仕事を完成させた柏原林蔵が自らの姿を自らで彫ったと伝わる等身大より大きな立像↑

三月に見た時よりも今日の方が表情がよくわかる光だった↑

↑昭和二十年代にこの場所を整備するために出資した人々の名前が刻まれた碑↑
いちばん左の「村上勘兵衛」という名前、因島を除虫菊栽培の中心地にした人物↓

山を下り、車で★一本松というところで↑柏原林蔵さんの子孫の林造さんと待ち合わせ。
かつてはここまで小さな川が流れ込んでいた。長い年月どれだけの土地を埋め立てていったのか、人々の苦労がわかる。
↑ここに「村上勘兵衛」に捧げられた碑がある↑林造さんのまとめらた「ふるさと重井」にそのいきさつが書かれていた。
※村上勘兵衛さんがどのように除虫菊栽培を因島にもってきたのかが書かれたページをこちらに載せました


因島からとなりの生口島(いくちじま)へ向かう。

建設中の橋が遠くにみえた。


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