【岩崎俊夫BLOG】社会統計学論文ARCHIVES

社会統計学分野の旧い論文の要約が日課です。

時々、読書、旅、散策、映画・音楽等の鑑賞、料理とお酒で一息つきます。

吉村昭『ふぉん・しいほるとの娘(上)』新潮社、1993年

2008-11-17 23:58:10 | 小説
吉村昭『ふぉん・しいほるとの娘(上)』新潮文庫、1993年

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 鎖国の江戸時代、1823年に日本の出島に来航したシーボルト。

 シ-ボルトはドイツ人でした(当初、オランダ人と偽っていた)、日本の国情調査というオランダ政府の命をうけて来日したのでした。

 西洋医学を普及しながら、当時、その海外への持ち出しが国禁だった日本地図、蝦夷・樺太の地図、江戸城の地図など膨大な資料を収集し、本国に搬送しようとしました。世に言うシーボルト事件です。

 関連した役人、弟子、通詞、召使いなど約50人が連座、処刑され(地図を渡した幕府の天文方兼書物奉行・高橋影保、徳川家の紋である葵が染め抜かれた帷子を贈った奥医師・土生玄碩、門人の二宮敬作、高良斎、お抱え絵師・河原慶賀など)、投獄されました。

 シーボルト本人は折しも本国に帰還する予定の時期でしたが、事実上幕府の命による、国外追放、本国送還となりました(1829年)。

 この小説は、シーボルトの来日以降、西洋医学による治療、医学教育をつうじ、長崎の人々、ひいては日本人に慕われたシーボルトとその娘お稲の物語です。

 上巻はシーボルト来日から、出島を中心にした医療活動、鳴滝塾での医学の伝授、国情調査、其扇との愛、お稲の誕生、シーボルト事件、離日、お滝(其扇)の結婚、男の子(文作)の誕生、そして蘭学を学ぶためにお稲が長崎を出て伊予国宇和島藩の二宮敬作の所に到着するまでです。物語の核は、彼が遊女とした其扇(そのおうぎ)をしだいにひとりの女性として愛すようになり、お稲という女の子をもうけたことです。

 お稲はシーボルトの追放後、オランダ語に興味をもち勉強を始めました。彼女は女性が学ぶことそのものを認めようとしない母親に隠れて勉強を続けましたが、そのような境遇での勉強にあきたらず、義理の父・時次郎の薦めもありシーボルトの弟子で伊予で開業していた啓作に教えを請いに旅立ちます。

 印象に残ったのは商館長にともなっての江戸参府143日の旅(1826年)、鳴滝塾という医学塾をつくったこと、日本の植物を集め出島に植物園を作ったこと、などです。

 正確で細かい叙述ながら、読者をぐいぐいと引っ張る吉村文学の真骨頂に満足至極の632ページでした。下巻に入ります。

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