【岩崎俊夫BLOG】社会統計学論文ARCHIVES

社会統計学分野の旧い論文の要約が日課です。

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生の究極に光を見る、死はそこでは人生の救済

2009-06-03 01:04:51 | エッセイ/手記/日記/手紙/対談
青木新門『納棺夫日記』文春文庫、1996年

         『納棺夫日記』青木新門

 詩人の言葉はやわらかい。その心もやわらかです。だが、一たび、「死」というものの本質論議に入ると言葉は生命力をもち、切れ味をもってくるのです。その厳しさも詩人の言葉なのです。

 「死」を否定的に見る人、「死」への粗末な扱い方に著者は手厳しく迫ってきます、「死を忌むべきものとしてとらえ、生に絶対の価値を置く今日の不幸は、誰もが必ず死ぬものという事実の前で、絶望的な矛盾に直面することである」(p.39)。

 「私が、この 葬式儀礼というものに携わって困惑し驚いたことは、一見深い意味をもつように見える厳粛な儀式も、その実態は迷信や俗信がほとんどの支離滅裂なものであることを知ったことである。迷信や俗信をよくぞここまで具体化し、儀式として形式化できたものだと思うほどである」(p.82)。

 「いつの時代になっても、生に視点を置いたまま適当に死を想像して、さもありなんといった思想などを構築したりするものが後を絶たない。特に、人間の知を頑なに信じ、現場の知には疎く、それでいて生に執着したままの知識人に多い」(p.76)と。

 著者は身近な人に「けがらわしい」と言われ、「その職業をやめてくれ」と言われたこともあったそうですが、書物を読み宮沢賢治、親鸞に導かれて「光」に到達しました。書をつうじて、キルケゴール、ゲーテ、アインシュタイン、キュブラー・ロス、親鸞、子規、宮沢賢治、金子みすずの言葉と思想に出会い、生と死の理解の道筋をしったことを告白しています。

 本書は著者が「現在の冠婚葬祭の会社に入社した時から書き始めた日記より生まれたもの」ですが、日記そのものではなく、「普通の生活記録」です(「あとがき」[p.208]。「入社して間もなく湯灌、納棺という特異な作業についたため、自分自身の心を鎮めるための、死や死体との心の葛藤の記録」です(同所)。

 冒頭に作家の吉村昭の言葉が本書の真髄を言い当てています、「人の死に絶えず接している人には、詩心がうまれ、哲学が身につく。それは、 真摯に物事を考える人の当然の成行きだが、『納棺夫日記』には、それが鮮やかに具現されている。この作品の価値は、ここにこそある。/死体をいだき、納得する青木さんを、私は美しいものと感じ、敬意を表する」と(「序文 美しい姿」)。

 本書はアカデミー賞外国語映画賞受賞作品「おくりびと」の切っ掛けになった作品でもあります

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