仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

学習院「修行」シンポ参加

2010-07-18 04:04:20 | 議論の豹韜
毎年夏の恒例、首都大OUの講座が始まる一方、大学の正規の授業は結びに入る。今週は、いちばん最初に始まった特講「野生と文化の神話・伝承学」が終了。それなりに頑張ったと思うが、やはり1年は必要なテーマだったか…。上智は人類学や民俗学の講義が少ないので、それらとの協働を射程に入れた歴史学を打ち出してはいるのだが、学生の側がどれくらい理解してくれたかどうか不安は残る。去年の「全学共通日本史」の方向を深めるつもりで議論を展開したが、動物に特化しなかったぶんだけ、「日本史」ほど受けはよくなかったかも知れない。
自主ゼミも春学期分を終了。最後の2回はディベート大会を行ったが、もともと15名に及んだ参加者のうち、この試みに顔を出してくれたのは10名ほど。意見交換や議論そのものに喜びを感じる学生と、大学へ対応するための情報を得ようとしていた学生との差異が出た形である。しかし、集まったメンバーはかなり試合巧者で、討論そのものも昨年よりスムーズに進み、下準備もしっかり行っていて感心した。彼らが、ちゃんとやる気や個性を伸ばしてゆける環境を整えねばならない。忙しさにかまけて、いろいろなことをなおざりにしてしまっている自分をやや反省した。
その他、もろもろの校務を片付けてやっと週末。原稿の進捗具合は相変わらずだが、だんだんと書き進めて各方面へ提出しているところである。

今日17日(土)は、友人のもろさんnomuraさん、テレビ等々でいつも拝見している夏目房之介さんが主催するシンポジウム「からだの文化―修行と身体像―」に参加。面白かった。
夏目さんのご報告(レジュメはこちら、夏目さんご自身のコメントはこちら)は、マンガ表現における修行と身体との関係を戦前から現代まで跡づけるもので、とくに戦前のものが驚くほど伝統的物語世界と近似していることに興味を惹かれた。田河水泡『天狗と巻物』など、「巻物だけで修行が済んでしまう、魔法の書物」との位置づけだったが、これは『義経記』鬼一法眼譚の一般化した形だろう。それこそ、起源としては『史記』の、張良が仙人黄石公から「太公兵法」を授かる話まで遡るが、暗誦するだけで超人的な力が身につくという内容である(日本史の初見は、天平宝字4年『藤氏家伝』における、鎌足が『六韜』を暗誦して乙巳の変に勝利したという話である)。この系統の兵書は、『六韜』『三略』『素書』と増殖を重ね、日本で伝来してさらに展開し(江戸後期に至るまで、日本で兵書といえば『六韜』『三略』であった。『孫子』がよく読まれたというのは近代の神話に過ぎない)偽書『兵法秘術一巻書』を生み出す。これは、大江匡房が「太公兵法」を倭語に咀嚼して源義家に伝えたという来歴を持つが、中身はほとんど密教的呪術書で、南北朝における成立以来書写され続け、『訓閲集』など類似の諸本も多く生じてゆく。武技や馬術について記した具体的な武家故実書も確かに存在したが、説話から幸若舞、浄瑠璃、歌舞伎、落語・講談などへ展開してゆくサブカル的表象文化は、圧倒的に「秘術書」系統のコードのみを受け継いでゆくのである。今回はマンガがその正統な後継者であることを再認識したが、一方で武家故実系の知の世界も命脈は保っていたはずで、それが武道の世界との接触を媒介に、折に触れてマンガ的身体の革新を誘引してきたのかも分からない。
もろさんのご報告は、『天台小止観』や『占察経』を題材に、仏教の身体観を分かりやすく説明したもの。我々にも馴染みのある近代的身体を前提にしながら、その自覚的コントロールを目指すうえでの「仏教的レイヤー」が存在する、という説明の仕方もよく、勉強になった。会場からの質問にもあった声明の問題に当てはめると、個人的には一層理解しやすくなる。さいきん引っ越したせいで宗教的実践からは大いに遠ざかってしまったのだが、例えば読経という行為は、毎日続けていると、だんだん過去の自分、過去の身体・精神との対話という営為になってゆく。今日はあそこに無理な力が入ってしまった、この間は別のことを考えていてこの部分がなおざりになっていた、いつも気をつけているのにここができなかった…などなど。複数で読経する場合はシンクロを意識し、調声や導師に合わせるべく全身で気を配るが(配らないやつもいる)、一人で行う場合は自分との対話のなかで深みがましてゆく。その点、このシンポのメイン・イベントであった八卦掌のワークショップに参加したとき、ああ武術も同じだなと痛感した。
そこで全体討議の際、『兵法秘術一巻書』が顕に対する密を標榜していることから、夏目さん・もろさんの報告を繋げるものは密教の身体観なんじゃないか、密教の身体観・身体表象についてどう考えるかと発言してみた。夏目さんからは日本のマンガ表現は確実に密教を基盤とするものが多いこと、もろさんからはシンボルと身体の問題やイコンの背景に確実に存在したロゴスの問題、そしてnomuraさんからは禅の秘伝も意識すべきではという回答をいただいた。展開からいって、やっぱり即身成仏や存思と絡めると面白いと思ったのだが、あまりそういう方向へは話が広がらなかった。印を結ぶ行為など、文字の象徴性と身体の一体化でもあるのだから、「書物を受けることで修行が達成される」身体観を論じるうえで欠かせない気がするのだが。
さて、最後はさっきも書いたが、夏目さんやnomuraさんのお師匠李先生による八卦掌のワークショップ。基本中の基本の走圏を2時間やって、くたくたになった。そしてやはり、簡単な動作なのに思うように動けない。「北條さんもたまには運動せねばね」とご叱責をいただき、やはりPCを眺めているだけの「修行」ではだめか…と、久しぶりに阿弥陀さんと向き合ったりしたのであった。
もろさん、nomuraさん、いろいろありがとうございました。そういえば、ちゃんと夏目さんにご挨拶しなかったな。ごめんなさい、どうもありがとうございました。

ちなみに、上の件と関連する拙稿「鎌足の武をめぐる構築と忘却―〈太公兵法〉の言説史―」はようやく上梓。吉川弘文館から出る『藤氏家伝』の論文集に載る予定ですが、刊行自体は来年初めになりそうです。
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