仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

身体論的に、「〈書く〉ことと倫理」

2012-10-21 22:59:03 | 議論の豹韜
またもや、1ヶ月ほどの時間を空けてしまった。最近はfacebookにも投稿していなかったので、親しい友人から「倒れたのではないか」とメールが来る状態となった。ブログを書く余裕がなかっただけのことなのだが、あまり周囲に心配をかけてもよくないので、不充分ながら(すなわち、本当にアップしておくべき内容ではないのだが)更新をしておくことにしよう。

突然だが、この頃、駅からの帰宅途上につらつら歩きながら考えているのは、「やはり人間は書かねばならない」ということである。この場合の「書く」は抽象的な意味ではなく、身体的な実践、いわゆる手筆、手書きという意味になる。職業柄、ぼくはたくさんの文章を書くが、最近は「書く」ことより「打つ」ことの方が圧倒的に多い。同年代の誰もがそうであるように、コンピュータのワープロ・ソフトを使って文章を構築しているのである。これはいうまでもなく、便利であるから、効率的であるからにほかならない。論文のように長い文章を綴ってゆく場合は、同じ一文を何度も書き直したり、章や節などのまとまりを移動したり、入れ替えたりという作業を頻繁に行わねばならない。当然手書きでは厄介なこととなるが、エディタやワープロを使えば、何の苦もなく繰り返すことができる。高校時代に初めてワープロを使い始めたぼくは(コンピュータ自体は中学生の頃から使用していた)、自然と効率性を追求し、キーボードでの「筆記」すなわち打ち込みに親しんできた。しかし、筆記用具というのは、それを使って行う思考にも影響を与える。初めのうちはキーボードを用いた「思考」に慣れず、手書きで書き散らしたものを清書するために打ち込んだり、まとまった内容を打ち込んだあとに一度プリントアウトし、その行間に書き込んだ補足修正を再び打ち込むといった手順を反復したりした。未だIMEが未発達で言葉探し、漢字探しに相当な時間を要したことも一因であったろう。しかし、さまざまなインターフェイスが進化し、ブラインド・タッチも淀みなくできるようになった結果、キーボードはだんだん自分の身体の延長のようになっていった。もちろんいまでは、何の違和感もなく、コンピュータのみを用いて自分の考えを綴ってゆくことができる。歳のせいか、眼の疲れや肩凝り、偏頭痛に悩まされることはあるものの、コンピュータという「筆記」用具は、もはやぼくの生活に不可欠のものになっているといえよう。
しかし、である。手書きで文章を書くことの楽しみも、ぼくには忘れがたいのだ。石川九楊ではないが、多彩な「筆触(蝕)」を持った筆記用具、さまざまな質感を持った用紙に文字を刻み込んでゆくときの快感。かつてマンガを描いていたおかげか、こうした感覚、感性には、未だに敏感でいられるようだ。身に合った筆記用具と用紙は、書かれる内容、思考をも前進させてゆく。同じような感触はキーボード・タッチにも伴うものだが、ただひとつ、手筆にあって打ち込みに欠けているものがある。それは、自らが書いた文字に対する想念の動き、とでもいおうか。当たり前のことだが、人間は、年齢によって書く文字のかたちが変わる。それは単に、巧拙の問題だけではない。文字が、その人の骨格に合ったかたちに変貌してゆく、ということがあるのだ。また、微妙な身心の変調も、文字の崩れ、あるいは閃きとなって現れる。身体や精神が力んでいれば、文字も強ばって厭なかたちを作る。逆に澄明な状態にあれば、自由闊達に躍動することになる。ぼくは僧侶でありながら写経の経験がないが(浄土真宗ではやらない)、読経においてはまったく同じ経験が生じる。すなわち手筆は、人を反省させ、成長させる。自分の字と長く向き合っている人は、それだけ自分自身とも向き合い続けているといえよう。ぼくは、手紙はできるだけ手書きで認めるようにしているし、毎年300通に及ぶ年賀状の宛名・コメントも、必ず手筆で書きとおすようにしている。最初は凝り固まっていた文字が、やがて融通無碍な状態になってゆくのは確かで、毎年身心に溜まった澱を純化する鍛錬になっているのかもしれない。
学問は人格を涵養するというが、学界に身を置きながら、残念なことに、「ああ、学問がこの人を育てたのだな」と感動した覚えはあまりない。かつてはそうした立派な学者たちが多くあったのだろうが、自分も含めて現状はそうではなく、また加速度的に悪化してゆくようにみえるのは、こうした手筆、手書きの衰退も一因となっているのかもしれない。これまで、授業を取ってくれた学生たちには、「厳しいことはいわない。レポートはワープロ打ちでよい」と「話せる教員」を装ってきたが、手書きを要求した方が、本当の意味で学生のためになるのかもしれない。

武蔵境の駅からバスに乗ると、自宅まで5分で着くことができる。だるい、時間がもったいないと、駅前にバスが停まっていればついつい飛び乗ってしまうのだが、30分弱の道のりを歩けば、それなりに思考も深まってくる。いい季節になってきたし、しばらくは効率を忘れ、ゆるゆると歩を進めてゆこうか。
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