仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

死者をどう表象するか

2012-07-05 10:27:15 | 議論の豹韜
また、ずいぶん更新に間が空いてしまった。6月は、諸々の校務に振り回されているうちに過ぎ去っていったが、何といっても、印度学仏教学会大会のパネル報告「震災と仏教」が重荷となっていたように思う。いま、ようやくそれも終えたので、仕事は山積しているものの、かなり気分は楽になった。相変わらず肩凝りは酷いし、胃痛もあるのだが、「とりあえず粛々と目の前の作業をこなしてゆけばよい」ので、なんとなく心は軽い。

ところで、「震災と仏教」である。最初は果たして議論として噛み合うのか、生産的なシンポジウムになるのかどうか、非常に不安であった。師茂樹さんの肝煎りで4月末に打ち合わせをし、それからもメーリング・リストを通じて多少の意見交換をしたのだが、どこかで話のすれ違ってしまう印象が続いていたのである。しかし、シンポ当日になって、ようやくしっかりしたキャッチボールができるようになってきた。それは偏に、私が不勉強で他の報告者お2人(末木文美士さん、佐藤哲朗さん)の主張を理解できておらず、何とか当日に「間に合った」ということなのかも知れない。パネルの起ち上がった契機は、(私も前稿で批判をした)東日本大震災に対する末木さんの「天譴論」に、ネット上で師さんと佐藤さんが噛みつき、大論争を繰り広げたことにあった。よって全体の構成は、末木さんの持論に対し、佐藤さんが実践仏教の立場から、私が環境史・災害史の立場から批判を投げかけるという形となった(司会は師さん、コメンテーターが石井さん)。末木さんの報告は、「東日本大震災に対して仏教者として立ち向かう際、その理論的根拠はどこに置かれるのか(実践と信仰とは無関係なのか)?」という問いかけから始まり、「魔術性」を欠落した近代日本仏教への疑問から、親鸞や日蓮の著作を援用しつつ、政治性を伴わない天譴論もありうるのではないかと述べる内容だった。末木さんの大枠の論旨は理解できるものだが、やはり保苅実を引用した「脱魔術化」の理解、政治性と無関係の姿がありうるかのような天譴論の理解には問題がある気がした。佐藤さんの報告は、実践仏教の観点から「仏教的には天譴説は成り立たない」とし、大きく道を外れた日本仏教、その近代のあり方への極めてラディカルな批判。その力強い言葉に圧倒されつつ、自分の脆弱な信仰の態度を反省した(しかし同時に、自分がアイデンティファイしているのはやはり「日本仏教」なのだな、それが間違っているとしても…とあらためて確認した。例えば、あらゆる衆生が善行をなした結果人間に生まれてくるならば、生物多様性は成り立たない)。
私自身の報告は、末木さんの天譴論の基礎を構成している日本的自然観・天譴論認識・死者認識を、環境史・災害史の立場から問い直そうとしたもの。日本的自然観への批判では、イントロとして、桃太郎昔話の常套句「お爺さんは山へしば刈りに」が「薪取り」だと考えられている現実を採り上げた。前近代日本の一般的農村景観が刈敷(草肥)を得るための草原・柴草山だったことから、本来の「しば刈り」は刈敷用の柴草を刈る作業であったと推測されるものの、現代に至って里山が放棄され、今までになかった緑豊かな環境が出現するなかで次第に忘却、「薪取り」としてしか認識されえなくなった可能性を指摘した。また天譴論批判では、中国殷代にまで遡るメインストリームが常に王権の正当化を図る抑圧的なツールであった一方、人災論との折衷的様式、仏教や道教の唱える災害論などからその多様性を示し、逆に「あえて災害の背後に超越者を設定すること」の恣意性を指摘した。後者はこれまでの研究の要約だが、前者には新たな知見も加えてあるので、今度別の媒体に執筆しようと考えている。
しかし、今回の報告準備にあたり私にとって最も有益だったのは、末木さんの死者論と正面から向きあったことだった。末木さんは、渡辺哲夫や田辺元の著作を援用しながら、死者/生者のベクトルが重なり合った際に生じる「実存協同」について論じている。生前死者が示した行動、投げかけた言葉が、その死後も生者へ一種のベクトルとして作用し続ける。それを生者が、自らの実存に関わるより深い領域で受けとめたとき、これまでの自分は破壊され新たなステージへと再生されてゆく。この自己の破壊、解体、相対化があるかどうかが、死者の剽窃、自己同一化を生じさせない鍵となるのである。以前、鹿島徹さんの〈物語り論的歴史理解〉を踏まえて書いた「先達の物語を生きる」では、僧侶たちが、先達の修行内容を記した僧伝をテキストに自らの実践を構築してゆく様子を一般化しつつ、神秘体験を対象化することで解体/再生の可能性にも触れた。ただし、それをどう分節し表象するか、果たして言語化できのるかどうかが、今後の根本的課題となるだろう(古今東西、そのことに成功した事例は恐らくない)。物語り論的歴史理解を死者論の方向へ突き詰めてゆくと、自然に末木さんの死の哲学と重なってくるのである。
死者は究極のサバルタンであるが、だからといって、彼らの語る可能性を封殺してはならない。死者の声に耳を傾ける努力、死者を解放しうる可能性については、常に意を払っておかねばならないと思われる。末木さんの主張を勉強させていただくなかで、そのことにあらためて気づかされた。心より感謝申し上げる次第である。

なお最後になったが、師さん、佐藤さん、石井さんはじめ、今回のシンポに関わってくださったすべての皆さんに、あらためてお礼を申し上げる。ありがとうございました。
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