またまたずいぶんと更新に時間がかかってしまった。忙しいのと、やはりfacebookで満足してしまっているところがある。しかし、学生を含めた一般へ向けて発信するには、こちらもなんとか定期的に更新してゆかねばなるまい。というわけで、この間いろいろな出来事があったが、些細なことと省略し、標記の「アジア民族文化学会秋季大会」について記しておくことにしよう。
第22回の大会シンポジウムテーマは、「環境と神」。ここ10年余りのあいだぼくの取り組んできたテーマそのものだが、今回は少し勝手が違う。対象が、日本古代や前近代の中国ではなく、現在も中国雲南省麗江周辺に生活する少数民族〈納西族〉の宗教文化なのだ。以前にもこのブログで何度か触れているが、ぼくは2008年に岡部隆志さん、遠藤耕太郎さんに導かれて雲南へ入り、〈祭署〉と呼ばれる、納西族の自然神祭祀の調査に参加した。〈署〉は半人半蛇の神格で、出自的には人類の異母兄弟であり、森羅万象に宿る精霊的存在である。納西族の神話によると、当初人類と署神は、世界を文化/野生に区分しそれぞれを統括して生活していた。しかし、やがて人類が署神の領域を侵犯することが相次いだため、署神は人類が自然を利用することを禁止してしまう。命を繋ぐことができなくなった人類は、納西族の呪師であるトンパの祖神トンパシルに救済を求める。トンパシルは天から神鵬を呼んで署神を脅迫、人類が自然を利用できるよう交渉し、これまで9:1であった野生:文化の比率を1:9に逆転してしまう。人類はこれによって窮地を逃れたが、署神のため、定期的に供物を捧げ負債を返さなければならなくなったという。その祭祀が〈祭署〉なのである。今回のシンポでは、この納西族と署神の問題について考察することが、具体的なテーマとなっていたのだ。
何回かの打ち合わせの結果、岡部さんが関連の東巴経典(絵文字で書かれた東巴教の経典)を翻訳して祭署の概説を、遠藤さんが納西族のアニミズムと日本古代のアニミズムとの比較を、ぼくが、納西族における〈神禍〉の歴史的起源について報告することとなった。さらに岡部さんの提案で、沖縄の戦禍を「シマの痛み」として引き受けるユタの問題を扱っている、佐藤壮広さんにも参加していただくことにした。ぼくは、7月に東北学院大学にてアジアの洪水神話について講演し、どうやらその起源が仏教や道教の経典にあるらしいことは掴んでいたので、その調査を進めつつ関連の東巴経典を読み込んでゆくことにしたが、やり始めてみるとけっこう難しく、落としどころをみつけだすまでにずいぶん時間がかかってしまった。ただし、東巴経典の読解自体は(難しいが)非常に楽しい作業で、新しい発見が幾つもあった。
例えば、祭署の壮大な起源神話(『神鵬与署争闘的故事』)より、その主旨を述べた祭文ともいうべき『署的来歴』、固有名詞を持つ先祖の署神との諍いを述べた『○○的故事』と呼ばれる経典群が、祭祀に臨む納西族のプラクティカルな心性を反映しているらしいこと。とくに『○○的故事』類は、事件(先祖による署の領域の侵犯)→先祖の罹患→卜者による骨卜→署による祟の判明→東巴の祭祀による収束、という一定の形式を持つが、これは殷代以来中国文化のなかで醸成されてきた卜占―祟の言説に等しい。現在、納西族の宗教行為はトンパのみに集中しており、彼らが神話=歴史(物語り)をも管理しているが、『○○的故事』類には、360種の卜具を持つという卜者が固有名詞で登場する。中国王朝の卜官=史官と同じく、かつては卜者こそが神話や祭祀を統括していたのかも知れない。この問題を突き詰めてゆくことは、同じ卜占の文化を受け継ぐ日本列島の研究にも示唆を与えることになるだろう。
納西族を含むアジア諸民族の洪水神話については、仏教の阿含経典や正量部経典(石井公成氏よりご指摘をいただいた)、道教の「太平経」「上清経」「霊宝経」の記述に踏み込んだ。まだまだ理解が浅薄だが、六朝の甲申洪水説に収斂してくる水災終末観や、過去からの悪業の積み重ねが継承され巨大な破滅に至る〈承負〉の概念、その災害を生き残る善男善女=〈種民〉などの概念が、人類の破滅と再生を語る洪水神話に影響を与えているらしいことがみえてきた。河南等の漢民族の神話には上記が色濃く認められるが、少数民族の場合は、『捜神記』を生み出した江南世界や四川地域における漢文化との交渉が重要な意味を持つものと思われる。伝播や連携の具体相をどこまで明らかにしうるか、すべて今後の課題である。
当日、シンポが始まってみると報告時間は30分ほどしかなく、2時間でようやく話せる内容を何とか40分程度に収めた。しかし難解な経典類を多数引用していたので、参加してくださった方々には、ほとんど「言葉の暴力」に近かったかも知れない。岡部さんの概説は分かりやすく、未曾有の経典翻訳も今後の研究に資するところが大きいものと思われた。遠藤さんの、アニミズム世界とは死の世界ではないのかという提言は、以前にぼくが『地域学への招待』や『王朝人の婚姻と信仰』収録論文で述べたことに近く、共感を覚えた。佐藤さんの「痛み」の問題は、日常生活者のレベルで考えると、これまで論じてきた「負債」や「後ろめたさ」の意識に重なってくる。しかし、今回は報告者それぞれの発表が長引き、意見交換の時間が充分に取れなかったので、それらの問題を充分に深めることができなかった。いずれまた、機会を得て意見交換したいものである。
第22回の大会シンポジウムテーマは、「環境と神」。ここ10年余りのあいだぼくの取り組んできたテーマそのものだが、今回は少し勝手が違う。対象が、日本古代や前近代の中国ではなく、現在も中国雲南省麗江周辺に生活する少数民族〈納西族〉の宗教文化なのだ。以前にもこのブログで何度か触れているが、ぼくは2008年に岡部隆志さん、遠藤耕太郎さんに導かれて雲南へ入り、〈祭署〉と呼ばれる、納西族の自然神祭祀の調査に参加した。〈署〉は半人半蛇の神格で、出自的には人類の異母兄弟であり、森羅万象に宿る精霊的存在である。納西族の神話によると、当初人類と署神は、世界を文化/野生に区分しそれぞれを統括して生活していた。しかし、やがて人類が署神の領域を侵犯することが相次いだため、署神は人類が自然を利用することを禁止してしまう。命を繋ぐことができなくなった人類は、納西族の呪師であるトンパの祖神トンパシルに救済を求める。トンパシルは天から神鵬を呼んで署神を脅迫、人類が自然を利用できるよう交渉し、これまで9:1であった野生:文化の比率を1:9に逆転してしまう。人類はこれによって窮地を逃れたが、署神のため、定期的に供物を捧げ負債を返さなければならなくなったという。その祭祀が〈祭署〉なのである。今回のシンポでは、この納西族と署神の問題について考察することが、具体的なテーマとなっていたのだ。
何回かの打ち合わせの結果、岡部さんが関連の東巴経典(絵文字で書かれた東巴教の経典)を翻訳して祭署の概説を、遠藤さんが納西族のアニミズムと日本古代のアニミズムとの比較を、ぼくが、納西族における〈神禍〉の歴史的起源について報告することとなった。さらに岡部さんの提案で、沖縄の戦禍を「シマの痛み」として引き受けるユタの問題を扱っている、佐藤壮広さんにも参加していただくことにした。ぼくは、7月に東北学院大学にてアジアの洪水神話について講演し、どうやらその起源が仏教や道教の経典にあるらしいことは掴んでいたので、その調査を進めつつ関連の東巴経典を読み込んでゆくことにしたが、やり始めてみるとけっこう難しく、落としどころをみつけだすまでにずいぶん時間がかかってしまった。ただし、東巴経典の読解自体は(難しいが)非常に楽しい作業で、新しい発見が幾つもあった。
例えば、祭署の壮大な起源神話(『神鵬与署争闘的故事』)より、その主旨を述べた祭文ともいうべき『署的来歴』、固有名詞を持つ先祖の署神との諍いを述べた『○○的故事』と呼ばれる経典群が、祭祀に臨む納西族のプラクティカルな心性を反映しているらしいこと。とくに『○○的故事』類は、事件(先祖による署の領域の侵犯)→先祖の罹患→卜者による骨卜→署による祟の判明→東巴の祭祀による収束、という一定の形式を持つが、これは殷代以来中国文化のなかで醸成されてきた卜占―祟の言説に等しい。現在、納西族の宗教行為はトンパのみに集中しており、彼らが神話=歴史(物語り)をも管理しているが、『○○的故事』類には、360種の卜具を持つという卜者が固有名詞で登場する。中国王朝の卜官=史官と同じく、かつては卜者こそが神話や祭祀を統括していたのかも知れない。この問題を突き詰めてゆくことは、同じ卜占の文化を受け継ぐ日本列島の研究にも示唆を与えることになるだろう。
納西族を含むアジア諸民族の洪水神話については、仏教の阿含経典や正量部経典(石井公成氏よりご指摘をいただいた)、道教の「太平経」「上清経」「霊宝経」の記述に踏み込んだ。まだまだ理解が浅薄だが、六朝の甲申洪水説に収斂してくる水災終末観や、過去からの悪業の積み重ねが継承され巨大な破滅に至る〈承負〉の概念、その災害を生き残る善男善女=〈種民〉などの概念が、人類の破滅と再生を語る洪水神話に影響を与えているらしいことがみえてきた。河南等の漢民族の神話には上記が色濃く認められるが、少数民族の場合は、『捜神記』を生み出した江南世界や四川地域における漢文化との交渉が重要な意味を持つものと思われる。伝播や連携の具体相をどこまで明らかにしうるか、すべて今後の課題である。
当日、シンポが始まってみると報告時間は30分ほどしかなく、2時間でようやく話せる内容を何とか40分程度に収めた。しかし難解な経典類を多数引用していたので、参加してくださった方々には、ほとんど「言葉の暴力」に近かったかも知れない。岡部さんの概説は分かりやすく、未曾有の経典翻訳も今後の研究に資するところが大きいものと思われた。遠藤さんの、アニミズム世界とは死の世界ではないのかという提言は、以前にぼくが『地域学への招待』や『王朝人の婚姻と信仰』収録論文で述べたことに近く、共感を覚えた。佐藤さんの「痛み」の問題は、日常生活者のレベルで考えると、これまで論じてきた「負債」や「後ろめたさ」の意識に重なってくる。しかし、今回は報告者それぞれの発表が長引き、意見交換の時間が充分に取れなかったので、それらの問題を充分に深めることができなかった。いずれまた、機会を得て意見交換したいものである。