仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

御柱シンポを終えて

2010-05-02 06:08:18 | 議論の豹韜
ずいぶんと更新が遅れてしまった。毎回毎回愚癡をいっても始まらないのだが、忙しい。毎日が、事務関係の書類の作成と授業の準備だけで過ぎてゆく。毎月〆切のある原稿執筆だけで相当に大変なはずなのだが、それにすら手を着けている余裕がない。目下の中心的な作業は、3月末に急遽作成・実施した「初年次教育文学部共通授業アンケート」の集計。現在準備している文学部共通初年次教育の参考資料とするべきもので、独りで行うのは大変な分量なのだが、身につまされる記述がたくさんあり、一教員として非常に勉強になった。初年次教育が、教員のFD活動と一体であることを明確に示す結果が出ている。きちんとまとめて、「初年次教育なんて、教員を忙しくするだけだ」と逡巡している人々への自覚を促したいものだ。

そういうわけで、原稿執筆は遅々として進まないのだが、先月の半ば頃、6年の長期間にわたって拘り続けた(そして5年間〆切を破り続けた!)論文を脱稿した。祟りの言説史を跡づけるもので、中国史の深層に入り込み殷代から古代日本までを扱うため、やればやるほど整理・分析すべき文献・史料が出てきてしまうという恐ろしい作業だった。これ以上関わっていたら絶対に提出できないと思い、頁数を大幅に削って半ば強引にまとめたのだが、それでも400字詰で140枚くらいにはなった。編者からは「あと2ヶ月で60~70枚にまとめて」といわれているので、他の原稿との重複部分をできるだけカットし、史料掲出も必要な部分だけにして、とにかくシェイプ・アップしてみようと思っている。なおなお、コラム「環境論と神話」「神話とCG表現1・2」を寄稿した『躍動する日本神話』(『日本神話の視界』改め)も刊行された。いつもお世話になっている、猪股ときわさん、斎藤英喜さん、武田比呂男さんらの力編が収められており、一般の日本神話イメージを大きく変える内容となっている。ぜひ手にとっていただきたい。

さてそれでは、話を本題に移そう。先週の4月24・25日(土・日)、諏訪市博物館で御柱祭のシンポジウムが開催された。ぼくもパネリストとして招かれていたが、とにかくその週は忙しくてなかなかレジュメを完成させることができず、前日の23時頃まで研究室にこもってようやく仕上げ、そのまま0時過ぎまでかかって印刷。帰宅してから朝まで徹夜で丁合・ステイプル作業を行い、出来上がった5枚200部のプリントを抱えてあずさに飛び乗ることとなった。立川から上諏訪まで2時間程度あったので、車内で報告内容を整理・反芻する時間はあったが、諏訪は郷土史に極めて詳しい一般の方が多いので、「果たしてまともな話ができるか」と不安は強かった。しかし一方で、樹木史に関するシンポジウムは滅多に開催されることがないため、自分自身「面白そうだ」という期待も大きかった。
蓋を開けてみると、長野県の各新聞でも報道されたとおり、シンポは2日間でのべ400人を動員する大盛況となった。ぼくはパネリストのなかではトップバッターであったが、プロローグとして行われた亀割館長の御柱祭概説における「御柱祭と縄文の柱立てを安易に結びつけてはならない」という冷静な提言に勇気をもらい、1月のエコクリシンポ以降拘っている「負債」の問題、御柱祭と動物の送り祭儀とが基本的に同じ構造を有していて、諏訪地方に動植物を区別しないアニミズム的世界観が息づいていた痕跡を見出せること、御柱祭には樹霊を建築物の守護神へ転換する木鎮めと、山の精霊の世界へ送り返す樹霊送りの双方の特徴が認められること、薙鎌は供犠の思想を背景に持ちつつ中臣祭文からの連想で使用されるようになった可能性が高いこと、などを指摘した。意外にも会場やパネリストの反応は上々で、何とか職責を果たせたかと胸を撫で下ろした次第である。
その後、シンポは錚々たる面々による報告が続き、ぼく自身たくさん知的なお土産をいただくことができた。総体的に浮かび上がってきたのは、やはり御柱祭がアジアに広がる柱立て神事に直結する内容であるということ、木曳きに代表される祭礼の荒々しさの深層には供犠が潜んでいること、伐採を契機に生じる負債は究極的には自分たちの命をもって贖うしかないことなどである。張正軍氏による首狩り習俗の紹介、北村皆雄氏による贄柱の紹介は、まさに負債の返却=供犠が柱の本質にあることを思い起こさせたし、工藤隆氏・岡部隆志氏・原直正氏による樹木のメタモルフォーゼ論は、「人間は樹木をいかなる存在として捉えているのか」という根本的な問題を提起していた。御柱祭をずっと研究しておられた近藤信義氏のご報告からは、多くの階層が結集して行う祭礼が、その階層ごとに異なる意味づけをされている点があぶり出された。シンポの最後にまとめのコメントを求められたときには狼狽してしまったが、この成果を「樹木の生命」を基本に据えて位置付け直してゆくのがぼくの役割だろう。
また会場には、三浦佑之さん、大山誠一さん、佐藤弘夫さんらも駆け付けてくださっていた。三浦さんからはとかく道徳的・倫理的方向へ流れがちなぼくの議論に「牽制」をいただいたし、大山さんとはホテルが一緒だったせいもあり、祭祀や環境の問題についていろいろ意見を交換することができた。またパネリストの方々をはじめ、こうしたシンポでなければお会いすることのできないような人類学、民俗学の研究者の方々と知り合えたのは非常に嬉しいことだった。
シンポの成果はいずれ『アジア民族文化研究』にまとまるはずだが(1月〆切。また月刊北條が延長されました)、とにかく気合いを入れて取り組まねばなるまい。

※ 上の写真はシンポジウムに参加された皆さん、下の写真は上社の一の柱の"跡"。御柱祭の間だけしか、この風景は拝むことができない。
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