仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

夏が来れば首都大:「あの世」講座開始

2008-06-10 19:54:06 | 議論の豹韜
今年も、首都大学の公開講座が始まった。今年のテーマは、「『あの世』をめぐる文化誌」。前編と後編に分かれ、猪股ときわさんをホストに、昨年と同じく佐藤壮広さん・三品泰子さんと担当する。

先週と今週は、猪股さんの講義。1回目は『古事記』の黄泉国神話を読み込み、現実世界である豊葦原中津国が、死者の世界である黄泉国に支えられて存在し、両者は不可分の関係にあることを主張された。帰還したイザナギは、禊の最中にアマテラス・ツクヨミ・スサノヲの三貴神を生み出すが、それは畏怖すべき黄泉の力が包み込まれているからこそ。新谷尚紀さんの〈ケガレからカミへ〉というテーゼを思い出すが、猪股さんが語ると神々に魂が宿る。黄泉を抱え込んだ三貴神のイメージが屹立し、愛おしくなってくるから不思議である。
2回目は、『霊異記』の地獄関連説話や山上憶良の挽歌をとりあげ、仏教や中国思想の導入によって多様化する冥界のありさまを描写された。『霊異記』では生/死の敷居が低く、人々は容易にその境界を飛び越える。死をあまり恐れず、地獄も少々賑やかに(住人たちとの交流が可能な世界として)位置付けられている。猪股さんの話を伺っていると、『霊異記』における地獄は、現実との辻褄を合わせる世界だという印象が強くなってきた。この世の中は、その存在の始原から、矛盾と差別と理不尽に満ちている。それに目をつぶって安易に平等を叫ぶのではなく、現実のありようと成り立ちをちゃんと説明する必要がある(それが法相宗の五姓格別説だといったら、いろんな人に怒られるだろうか)。その説明原理であり、偏りを是正するために存在するのが他界、地獄なのだろう。そこでは、現実世界では言葉を話さないモノや動物までもが語り、人間への恨み言を述べる。景戒にとっての地獄とは、天孫が降臨する以前の中津国のように、草木が言問う始原の世界だったのかも知れない。

モノケン・シンポ以降、特講も含めてずっと死者の問題に取り組んでいる。「あの世」講座も非常に刺激的だが、最近読んだところでは左の内田樹『死と身体』が面白かった。内田さんは、ラカンやレヴィナスのいう〈他者〉とは〈死者〉のことだと断言する。第1次大戦で未曾有の死者を出したヨーロッパ世界は、その喪の仕事に苦慮し、挙げ句の果てに彼らを〈英霊〉としてメモライズする方法を選ぶ。しかし、その選択は「英霊の無念を晴らす」ためのより大規模な戦争を招来してしまう。袋小路に追い込まれた哲学者たちは、「死者の声は聞こえている。しかし、それが何を言っているのかは分からない」という、死者を記憶しつつ表象しない立場を追求してゆく。
死者の他者性を保ちながら、彼らと接することはできないか。...それは、モノケン・シンポでぼくが模索したテーマと重なる。論文化の際には、ぜひ参考にしよう。
Comment    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 誕生日:現報とは? | TOP | 少年にとっての神秘的存在:... »
最新の画像もっと見る

post a comment

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

Recent Entries | 議論の豹韜