仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

ケガレ研究会10月例会

2005-10-19 15:12:38 | 議論の豹韜
立て続けに研究会があり、ブログも怠け気味になっています。

先週の金曜は、立教大学で第2期ケガレ研の11月例会がありました。今回は、『ケガレの文化史』の書評会です。引き受けてくださったのは、第2期からのメンバー・高山秀嗣さん。専攻はもともと中世仏教史、いまは宗教社会学で、関東~関西を飛び回り、様々な横断的研究会を立ち上げているフィクサーでもあります。若手の注目株。多方面にわたる本ですから、読むのさえ大変だったでしょうに、果敢に批判をしてくださいました。
本全体に関わるご批判としては、やはり統一性がとれていない、ということでした。もう、執筆者全員が自覚していることですが……。ただ、私の立場からすれば、方法は問題意識と対象に応じて構成されるべきものですから、ひとつの方法が研究会の全員に共有されなくてもよい、と考えます。もちろん、分野を超えた議論は大切ですが、そこで得たものを自己の領域にもちかえり、多様な視線で対象に向かってゆく……そのことこそが、対象の豊かさを多少なりとも明らかにしてくれるのだと信じます。しかし、一般読者のためには、ケガレ概念の生成と展開をたどる通史みたいなものは、やっぱり必要だったかも知れません。理論・通史・各論が、それぞれの領域に支えられつつ相互に相対化しあう。この構成こそ、歴史研究書の王道(は嫌いなんだけど)でしょう。
内容的には、平雅行さんの殺生罪業観をめぐる議論への接続について。私的には、奈良時代には殺生罪業観は定着していなかったという、平さんの考え方にはやや疑問があります。『日本仏教34の鍵』にも書きましたが、思想としては存在していて、喧伝もされていた。問題は受容する側の認識ですが、何をもって〈定着〉ととるのかがけっこう厄介。ある意味では、日本の歴史上、定着したことなど一時期たりともないともいえるでしょう。このあたり、何か新しい切り口をみつけたいものです。

報告のあとは、高山さんの質問・批判に、執筆者ひとりひとりが反省とともに回答、新しいメンバーの方々からもコメントを頂戴しました。倉田実さん、稲本万里子さん、中澤克昭さん、土居浩さん、山口えりさん、貴重なご指摘ありがとうございました。ケガレ概念を現前する儀礼や儀式、そこにみえる仏教や陰陽道の融合と実践における分担の問題、殺生罪業観の展開の実証的確認と殺生滅罪論の位置づけ、中国文化との比較研究、動植物に対する認識の変化など、これからの研究課題が山積みとなりました。第2期は、物理的/象徴的暴力全般へと対象を拡大する予定ですので、これからの議論が楽しみです。

飲み会では、門馬幸夫さんと、社会学/歴史学の認識論をめぐって少々議論。中澤さんと、来年の某学会での〈環境〉討議?について、「殺生と後ろめたさ」をめぐる意見交換(環境史における現在の私のアポリアはもうひとつ、「人間が関わった方が自然も豊かになる」言説の分析。できれば、こちらも報告に反映させたいと思ってます)。
その他もろもろのバカ話をしまして、最終の湘南新宿ラインで帰宅。東京組は場所を変えて飲み会を続けた様子ですが、服藤さん、小嶋さん、増尾さん、お元気ですねえ……。
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