く~にゃん雑記帳

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<長崎・唐人屋敷跡> 中華街のそばに鎖国時代の遺構

2018年10月26日 | 旅・想い出写真館

【天后堂・観音堂・土神堂、路地にはレトロな銭湯も】

 長崎新地中華街から歩いて数分の程近い距離にある「唐人屋敷跡」。ここには古い中国様式や和・中折衷式の4つのお堂があり、今も往時の面影を残す。江戸中期創建の天后堂(てんこうどう)・観音堂・土神堂(どじんどう)は市指定史跡、明治元年創建の福建会館(正門・天后堂)は市指定有形文化財。点在するこれらのお堂の周りには狭い坂道の路地が走り、民家や商店、市場、銭湯などが軒を連ねる。華やかな雰囲気の中華街とはまた一味違った懐かしいような異国的な風情が漂う。

 徳川幕府は1635年から中国貿易の窓口を長崎港だけに制限したが、次第に密貿易が増加。その取り締まりとキリスト教の浸透を防ぐ目的で、郊外の長崎村十善寺郷(現在の長崎市館内町)に来航する中国人用の居留地として唐人屋敷を設けた。完成したのは1689年。敷地の広さは約3万㎡で、ここに2階建ての長屋20棟が建てられた。屋敷は高い塀と堀、竹垣で厳重に囲まれ、日本人で出入りできたのは僧侶と遊女だけだったという。多いときには約2000人の中国人が生活していたそうだ。

 

 遺構の一つ天后堂は1736年に南京地方の人々が航海の安全を祈願し守護神の瑪祖(天后聖母)を祀ったのが起源という。アーチ型の石門が印象的な観音堂は観世音菩薩と商売繁盛の神関帝を祀る。石に刻まれた年代から1737年の創建とみられる。土神堂は1691年築で、4つのお堂の中では創建が最も早い。ただ唐人屋敷は1784年(天明4年)の大火でほぼ全域を焼失、天后堂だけが被災を免れた。観音堂と土神堂はその後まもなく再建されたが、土神堂は老朽化に加え原爆による被害もあって解体され、改めて再建されたのは約40年前の1977年だった。

 

 福建会館は福建省出身の貿易商たちの会所として1868年に設けられた寺院建築。約30年後に全面改築されたが、原爆で本館が倒壊し現存するのは正門と天后堂のみ。この天后堂にも航海の女神瑪祖が祀られている。ただ現在建物の保存整備工事中(11月30日まで)ということで非公開なのが残念だった。唐人屋敷は1859年の開国により廃屋化し、長崎在住の中国人の多くはいま中華街となっている新地や大浦の外国人居留地などに移住した。唐人屋敷はなくなったが、ここに居住した人々が長崎の地に残したものは少なくない。精霊流しにペーロン競漕、龍踊り……。長崎の魅力もこれらに象徴されるように、異国の風習や芸能などを広く受け入れ昇華してきた文化的多様性にあるのだろう。


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