【万葉歌から約90年前、中山博士が〝福岡城内説〟を唱える】
「可之布江(かしふえ)に鶴鳴き渡る志賀の浦に沖つ白波立ちし来らしも」「今よりは秋づきぬらしあしひきの山松かげにひぐらし鳴きぬ」。736年(天平8年)、遣新羅使が「筑紫館(つくしのむろつみ)」で詠んだ歌4首が万葉集に収められている。筑紫館は平安時代、外交・交易拠点として設けられた「鴻臚館(こうろかん)」の前身。鴻臚館は平安京、難波、筑紫の3カ所に置かれた。筑紫の鴻臚館があった場所はかつて西鉄ライオンズなどプロ野球の本拠地だった平和台野球場周辺で、今も発掘調査が続けられている。
その福岡城跡の舞鶴公園の一角に「鴻臚館跡展示館」が立つ。20年前の1995年に開館した。館内には礎石など遺構が発見当時のまま展示され、建物の一部も復元されている。出土品は中国の陶磁器や新羅・高句麗の陶器をはじめ西アジアのイスラム系陶器、ペルシャ系ガラス器など実に国際色豊か。中国・越州窯青磁花文椀はエジプトのフスタート遺跡からも出土しており、鴻臚館が海のシルクロード「セラミックロード(陶磁の道)」で世界と結ばれていたことを示す。(下の写真㊧は奈良前期~平安前期の鴻臚館建物想像復元イメージ)
鴻臚館の所在地は江戸時代から〝博多官内町説〟が通説になっていた。現在の博多駅北側の中呉服町周辺にあたる。それに疑義を唱えたのが中山平次郎博士(1871~1956)。京都市生まれで、九州帝国大学医学部教授を務める傍ら、著名な考古学者としても知られた。博士は前身の筑紫館で詠まれた万葉歌の情景から、その場所は志賀島と荒津浜を同時に見渡せ、しかも蝉時雨が聞こえる小高い場所だったと推測。さらに福岡城内で大量の古代の瓦や青磁を発見した。これらの〝傍証〟から、ここに瓦葺きの壮大な建物があったとみて、大正末期の1926年〝福岡城内説〟を発表した。(写真は㊧国際色豊かな出土品、㊨唐三彩の印花鴛鴦文陶枕=複製品)
この説が裏づけられるのはそれから約60年後、博士逝去後約30年後のこと。1987年、平和台野球場の外野席改修工事に伴う発掘調査で鴻臚館の遺構が見つかった。野球場は97年に閉鎖され、99年からスタンドの解体とともに本格的な発掘調査が始まった。鴻臚館跡は2004年、国の史跡にも指定された。福岡城内はかつて陸軍歩兵24連隊の駐屯地になっており、市民に開放されるのはドンタクの日だけだった。その時をとらえスコップを手に調査に向かった中山博士は憲兵隊に挙動不審として連行される一幕もあったという。その後時間がかかったものの、〝福岡城内説〟が証明され遺跡保全につながったことを中山博士も喜んでいるに違いない。
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