【沖村由香さん、講演で万葉学者の通説(7世紀後半~)に反論】
京都地名研究会(小寺慶昭会長)の第54回地名フォーラムが1月26日龍谷大学大宮学舎で開かれ、沖村由香さん(日本語語源研究会理事)と中島正さん(花園大学、同志社女子大学非常勤講師)のお二人が講演した。『令和と万葉集―地名の語る梅の渡来』の演題で講演した沖村さんは、梅の渡来時期について万葉学者の間で「7世紀後半~奈良時代初め」が通説になっていることに対し、核など梅の遺物が各地の縄文~古墳時代の遺跡から出土していることなどを論拠に「遅くとも弥生時代には渡来していた」などと話した。
新しい元号「令和」の出典は万葉集の梅花の歌32首の序文に登場する「時に初春の令月にして、気淑(よ)く風和らぎ……」による。その梅は万葉集の中で萩に次いで多い約120首が詠まれている。しかも万葉後期(710~759年)に集中し、万葉前期(629~710年)の歌はなく記紀にも梅の記述がない。そのため7世紀後半から奈良時代の初めごろにかけ遣唐使によって渡来したというのが万葉集研究者の通説。万葉学者上野誠氏は「当時、梅は舶来の輸入植物で、珍貴な植物で、貴族の家の庭にしかなかった。だから好んで歌われた」とし、中西進氏も「外来の珍木として当時もてはやされていた。当時多くやって来ていた中国・朝鮮からの渡来人たちは、わが家の庭に梅を好んで植えたらしい」と記す。
しかし1980年代に大阪府八尾市の弥生中期の遺跡から梅の自然木の一部が出土、その後も各地の弥生時代や古墳時代の遺跡から梅の核などの出土が相次いだ。さらに近年は縄文遺跡からも梅の遺物が見つかっている。このため植物学者や考古学者の間では「弥生時代ごろに渡来した」との見方が支配的になっているという。万葉学者の通説とは650年~1000年以上の年代差があるわけだ。さらに「春日野に斎(いつ)く三諸の梅の花栄えてあり待て遷り来るまで」(藤原清河)などの万葉歌から、沖村さんは当時春日野などで梅が広く栽培され観梅が春の恒例行事になっていたのではとみる。また法隆寺の献納宝物の中から梅で染色された飛鳥時代の絁(あしぎぬ=絹織物の一種)が見つかったことから、その当時既に梅染に使う80年以上の梅の古木があったと推測する。こうしたことから沖村さんは渡来時期とともに「貴族の庭にしかない高貴な花だった」とみる万葉学者の説に疑問を投げかける。また梅は当時「生活に不可欠な有用植物でもあったのではないか」などと話した。
続いて中島さんは『古代寺院の寺名と地名の考古学~山号・院号・法号・寺号』と題して講演した。寺院は現在「比叡山延暦寺」「高野山金剛峰寺」など「○○山△△寺(院)」と呼ぶのが慣例だが、平安時代の後半期以前は「比叡山寺」「高野山寺」のように地名の霊峰を冠した名称で呼ばれていたそうだ。また移建・再建を繰り返した場合、山階寺→厩坂寺→興福寺、法興寺(飛鳥寺)→元興寺など移転先によって呼称がしばしば変化した。寺院跡と考えられる遺跡の名称は現在の地名などを冠し「○○廃寺」と呼ぶのが通例だが、近年は墨書土器や木簡などの出土により不明だった寺院名が復元されるケースが増えているという。